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公園への思い入れ

僕は西須賀町にある県営住宅で人生の三分のイチを過ごしました。

昨年まで父ちゃんが住んでいたので、僕にとっての故郷はその県営住宅でした。

僕と地元が同じ人ならわかると思うのですが、この団地の公園は、僕の成長の場でした。

小さな頃は父ちゃん、母ちゃん、妹と。

野球に興味を持って、でも、小3まで諸事情で、野球部にはいれなかったため、この団地の公園の壁がキャッチボール相手でした。

そして、小学校になると、この公園にくれば誰かがいる、というような憩いの場所に。

子供らしい遊びから、ボール遊び、ちょっとわんぱくな遊びまで、本当に沢山の思い出です。
ご飯が出来たらベランダから母ちゃんの
『帰ってきいよ~っ!』
って声。
懐かしいです。

この公園で僕は育ったと言っても言い過ぎではありません。

僕に子供が出来て、父ちゃんのところに遊びに行ったとき、懐かしくも、少し寂しい感覚を覚えました。

生い茂った草
ガタガタになった遊具たち
あっちこっちにある『ボール遊び禁止』の看板。

若干の子供たちはくるものの、昔の賑わいはありません。

最近の子供の遊び方も変わってきたのでというのもありますが、自分の子供を見ていると、決してだからというわけではなく、公園が子供のニーズに合ってないんだな、と気づきました。

安全性、というより、怪我をされたときの批判だけをかわすために造形された遊具。

昔あった、あの懐かしい定番の遊具ってほとんどないんですよね。

あれをすれば危ない、これをすれば怪我をする。
それを学ぶのも公園だったとおもいます。

そして、ただただ、そういうことを抜きにしても完全に足りないのが
子供の目線になって整備されていないということ。
政治と同じで、一部の大人の感覚で維持されているだけなのですよね。

それっていわいる、市民の感覚を無視した箱物なんかと同じで、子供の感覚を無視した公園になってるんですよね。

公園というものは大人になれば日常生活に交わりません。
その交わらない人間が、そのセンスで作るものに子供が感動しないし、子供はそこでコミュニティーなんか作れません。
と、いうことは大人も同じ。

各々地元というものがあって、そこにコミュニティーを必要とするなら、子供と大人が自然と集い、自然と交流することを真剣に考えたものが絶対に必要ですし、もちろん、今の事情に配慮して、騒音や、近隣家屋や車への影響は考えなければなりません。

どっちをたてればどっちが、じゃなく
両方に配慮したものは絶対にできます。

小さなことですし、そんなこと、とおもわれたりもしがちですが、僕は真剣に一番大事だとおもっています。

あの子供の多い我々の時代に大人の配慮でなりたっていた公園が少子高齢化の今、出来ないわけはない、って思っています。
 
聞こえが言いように市政で実現したいと叫んでいるのではなく、本当に熱い思いをもって一番取り組みたい理由賀あるから一番に掲げています。

『子供たちのために』

この言葉の本当の意味や取り組みを実現するため。
僕は前に進んでいきます!




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