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いまだ説明しづらい、鶴身印刷所のこと。-印刷所リノベーション編 その2-

この話は

「いまだ説明しづらい、鶴身印刷所のこと。-曾祖父起業編-」
「いまだ説明しづらい、鶴身印刷所のこと。-印刷所稼動編-」
「いまだ説明しづらい、鶴身印刷所のこと。-印刷所リノベーション編 その1-」

の続きです。

・・・

父は必要なことしかメモしない。

確か、父の入居する介護施設も決まろうとしているときだったと思う。書類の下から、

「管理費 アコム レイク」

というメモを見つけた。

まじかよ、と思った。

管理費は分かる。アコムとレイク。まじかよー、ほんとまじかよー、と、何回か事務所内をうろうろしたのを覚えている。

会社で借入金があって、個人で消費者金融借りてるって、まじかよーと、思ったが、悩んでも仕方がない。

現状把握である。もしかしたらこれは終えたものかもしれない。

(リノベーションと関係ない話ですみません、でも、全く関係ないわけでもないのです)

ちなみに、今もそうなのか分からないけれど、当時、消費者金融は、たとえ家族であっても、借りた総額など個人情報に関することは開示してもらえなかった。

いくら借りたかも分からない。そもそも、父の預金通帳もなかなかな有様である(医療費は医療保険がないとどうにもならなかった)。

とにかく、父のパソコンと事務所内の書類をくまなく探し、ようやく見つけたマイページのURLとパスワード。

返済総額は二社合わせて残金100万だった。そんなお金、どこにあんねん、と途方に暮れた。

ただ、そのとき、私は何となく、どうにかなる、という自信があった。

この時期、不思議なことが良く起きていた。

例えば私の代で新規にお願いすることになった税理士さんに「この書類を出してください」と言われ、父の代でどこにいったか分からないものを探索することがあった。

そういうとき、なんとなく、「ここな気がする」と引き出しを開けると、入っていることが多かった(私はこのとき、自分の左手を「じいちゃんの左手」と呼んでいた)。

連絡しなきゃいけないな、と思うと、その相手から電話がかかってくることも多かった。

なんだかよく分からないけど、毎日、仏壇に手を合わせて「じいちゃん、ひいじいちゃん、どうなるかわからんけど、とにかくやれるだけやります」と思っていた私を、何かがほんのり、後押ししてくれているような気もした。

なので、今回の消費者金融も、当ては全くどこにもないが、なんとかなる、という意味の分からない確信だけで動いていた。

探したのは、印刷所と家の中、全部である。

これだけ広いし、四世代に渡って住んでいたのだから、何かあってくれ、と思って、家探しを開始したところ、

古い紙幣
古い記念硬貨
古い貨幣

この3つが、たんすの中だの、引き出しの中だの、本の間だの、曾祖父のスーツの内ポケットだの、いろんなところから出てきた。

出てきたことに関しては突っ込みどころ満載だが、換金して総額がほぼ100万になったとき、心の底からびびった。

そして、向こう側にいった曾祖父たちに感謝した。よくわからないけれど、みんな、見てくれてる。曾祖父や祖父だけでなく、曾祖母や祖母も、きっと、父のことを案じている。そんな気がした。

それは、淡々と業務をこなしつつも、父が、もう、元の父に戻らないことを少しずつ認めざるを得ない、私の中の心細さと不安に、そっと寄り添ってもらっている感じだった。

そして、そんな思いを胸に私は「もう二度と借りるかー!」と本当に叫びながら、消費者金融の無人の返却機にお札を突っ込んだのである(念のために書いておくが、もう、印刷所にも家にもそんな資産はどこにもない。このとき限りである)。

(つまり、一つ前の記事に書いた「逆転ホームラン」は、結果的に打った側だと思っている)

・・・

とまあ、そんなことをしながら、季節は秋になる。

父は介護施設に入り、少しずつ落ち着いてくる。相変わらず短期記憶は忘れがちだが、入院当初よりずっと良くなっていった。

ただ、仕事への復帰はできないと分かった。何回話しても忘れるので、これで仕事をするのは無理な話である。

私自身、当初は印刷所の一社員として銀行や役所に電話をしており、そうこうするうちに、決裁するためには今の立場では通らないということが出てきた。

会社を継がないと、前に進まない。

このことは、当時の私にとって、重たかった。

いやいや、なんで?って思われるかもしれないけれど、私が「セラピストを目指そう」と思ったときのプランは、個人事業主として、どこかの場所を借りて、自分のできる範囲で始める、という感じのものだった。

私はようやく自分のしたいことを見つけたのに、印刷所を継ぐということは、ともあれ自分がこの建物と、会社と、この先、どう生きていくかを考えなきゃいけなかった。


それは当時の私にとっては、荷が重かった。
(いやまあ、会社継いで、そこで自分のやりたいことをやったらいいだけなんだけれど、自分が起業したいって思いの方が強かったし、会社を継続するにしても、畳むにしても、まさか学生時分に「この荷物どうすんの」と思っていた膨大な量の家財道具一式とか、印刷に関わる様々なものに向き合う役目が回ってくるのも、気が重かった)

ただ、悩んでいても前には進まない。

印刷業の廃業は決めた。
建物と会社をどうするかは全くわからない。

でも、とにかく、一旦、会社は継ぎます。

曾祖父や祖父に仏前で手を合わせたのち、父が倒れてから3か月後、全く晴れ晴れしくない気持ちで法務局に行き、登記を終えたのであった。

2015年10月。鶴身印刷所4代目となったわけである。

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