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いまだ説明しづらい、鶴身印刷所のこと。-曾祖父起業編-

「鶴身印刷所の鶴身と申します」と名乗ると、大概、「鶴身印刷所って何してるところなんですか?印刷してるの?」と聞かれる。

そりゃそうだろう。印刷所っていうんだから、印刷会社だと思うのは、至極当然な話だと思う。

そして、わたしは「鶴身印刷所」という言葉の中にあるものを、いつも、どこから話したらいいのか逡巡する。

鶴身印刷所とは

鶴身印刷所は、大阪の京橋駅から歩いて5分のところにある、文化複合施設である。ざっくり言うと、ものづくりをされる方々向けの貸室・貸店舗業をしつつ、講座や古道具販売、貸台所(貸しキッチン)なども営んでいる。

■貸室・貸店舗を「ものづくり」の方向けにしようと思ったこと。
■建物に約束したことと、しずけさ。講座やワークショップを始めた理由。
■古道具の販売はとってもなりゆき。でも、そこにあった大事なこと。

また、このことについても記事にしていくとして、ここでは、鶴身印刷所の成り立ちについてお話したい。

建物は木造の2階建て。固定資産台帳を遡ると、昭和14年(1940年)には建っていたらしい。小学校の講堂だったという逸話もあるが、そこは定かではない。

戦前から建っていたこの建物は、とあるご縁で私の曽祖父「鶴身精一」が取得し、印刷業を始めることになった。

そして、祖父、父を経て、私が四代目として継ぎ、リノベーションを終え、前述した「文化複合施設」として始まったのが2018年の4月である。

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創業者・精一のこと

精一は、10代の頃に香川から単身大阪に出てきて、谷町にある印刷会社に奉公しつつ、印刷職人としての研鑽を積んだ。印刷は石版印刷である。(石版印刷はその後、現在のオフセット印刷につながる。石版印刷については→「石版印刷ってなに?そもそもオフセットってなに?」)

当時、「寿屋」(現サントリー社)との取引があったその印刷会社で、精一は職人という作り手の立場だけでなく、対外的な折衝もしていたと聞く。
(余談だが、開高健氏の小説「やってみなはれ みとくんなはれ」という、サントリー創業者の鳥居信治郎氏を主人公とした話の中に、精一は赤玉ポートワインのポスター印刷を受ける印刷会社の一人として登場する。ちょっと驚きである。詳しくは→「精一とパナマ帽のおはなし」)

その「寿屋」でウヰスキーの研究・製造をしていたのが、現ニッカウヰスキー創始者である「マッサン」こと竹鶴正孝氏である。

竹鶴氏はウヰスキーだけでなく、ボトル、ラベル、キャップなどの資材面にも関わっていたため、ご自身が独立されたのちも、引き続き印刷の依頼をして頂けたとのこと。
(竹鶴氏はウヰスキーだけでなく、それを魅力的に飾る瓶やラベル、キャップまでこだわりを持って関わっていらしたそうである)

さて、時は第二次世界大戦。精一が60代の頃。
大阪城の近くには軍事工場(砲兵工廠)があり、終戦の前日、そのあたりは大変大きな空爆があった。精一が勤めていた谷町の印刷会社も、その空爆がもとで、全焼してしまう。
(ちなみに、鶴身印刷所の最寄り駅である京橋駅も1t爆弾が被弾し、多くの死者が出ていて、現在も南出口には慰霊碑がある。印刷所は運良く空爆の影響から逃れている)

終戦後、谷町の印刷会社のオーナーは「工場はやめる」と決めたそうで、すると、困ったのが当時の得意先の方々である。

「鶴身さん、なんとかしてくれへんか」

とはいえ、精一も家は焼けて、独立する資金もない。出征した長男を亡くし、同時期に病気で娘も亡くしている。私が曾孫だからとかそういうのは置いておいて、単純にそういう状況で「独立します」と立ち上がるのは、大変なことだと思う。そんな中、得意先の方から声をかけてもらったという。

「鶴身さん、うちの工場を使ったらええ」

お菓子のグリコ社から独立して「スカウト製菓」というお菓子会社を営んでいた方が持っていた建物。そこを明け渡すので、開業し、印刷業を始めたらいいというのだ。そしてその方は精一に印鑑と通帳を渡し、こう言ったという。

「好きに使いなはれ」

(ドラマか、と思った。そして、私はこの話を曾祖父の娘(祖父の妹)から聞き、精一が独立心で起業したのではなく周囲の人のために起業したことを知った。このことは、リノベーションをする上でとても大きなことだった)

こうして、戦後すぐ、精一はスカウト製菓社の工場=現在の印刷所にて開業し、1階を工場、2階を住居として一家で移り住み、住み込みの従業員を雇って印刷会社を始めることとなった。

名前は「鶴身印刷所」

精一、63歳のことである。

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戦後すぐの印刷所前で撮影した精一の写真。

とっても余談だが、精一は「ちゃんとやってるかー!」と、工場に入り職人の方々に檄を飛ばし、その後ろを青い顔をした祖父が「血圧上がるから怒らさんといてくれ」とついてきていた、と聞く。

あと、「わしゃ100まで生きる」と言ってめっちゃ元気だったと。(90歳で事故にあって、それがもとで亡くなってしまったので、事故が無かったら100まで生きていたんだろうな、とか)

谷町での奉公時代に右手を印刷機で挟んでしまい、使えなくなってからも、左手で器用に印刷も字を書くことも何でもしていた、とか。

曾祖父に限らずだけれど、昔の人の底力はすごい。


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