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いまだ説明しづらい、鶴身印刷所のこと。-印刷所リノベーション編 その1-

この話は

「いまだ説明しづらい、鶴身印刷所のこと。-曾祖父起業編-」
「いまだ説明しづらい、鶴身印刷所のこと。-印刷所稼動編-」

の続きです。


うーん。まず、私のことを少し話したい。
私は大阪に生まれ、14歳まで野江で育った。14のとき、母と祖父が亡くなり、以降、印刷所=祖父母の家に、祖母、父、妹と暮らすこととなった。

申し訳ないのだが、正直なところ、私は印刷業に全く興味がなかった。今でこそリノベーションしてきれいな場所になったが、学生時分「この大量の洋服とか家具とか、荷物、誰が片付けるん・・・」と、もっぱら他人事だった。

そして、大学卒業後は一般の会社に就職する。その会社は製造(加工)会社で、私は事務職を経て営業職に就いたのだが、在職中に倒産し、民事再生を行ったのち、2015年の4月に解散することになった。

自分の母が早くに亡くなったことや、それがゆえに自分に訪れたこと(大学卒業後に1年ひきこもりを経験したこと)、「人が心身共に、その人らしくいられることとは?」「健全なコミュニティってなんだろう?」ということが、その当時の私の関心だった。

会社解散後、セラピストを目指そうと思い、タイ古式マッサージの勉強から入った矢先。一つ前の記事にも書いたが、父が倒れる。

その日はフォーカシング指向療法という心理療法の講座の帰りだった。自分が学びたいことを自由に学べる。その喜びでいっぱいで、夜、いろんな想いと、夢を持って帰宅した。

玄関が開いていて、不用心だなぁと思いつつ開けると、中は暗く、外の光が玄関先の床を小さく照らした。

その床に、父の顔が見えた。父が倒れていた。意味が分からなかった。

すぐに電気をつけて父に声をかけるが、最初、応答がなく、泥酔して寝るような人ではないので、何かが起きているのだと思った。

身体をゆすって声をかけると、意識はあるようで、布団に連れてってくれと言われる。ただ、なんとなく物言いがおかしい。

とりあえず寝かせたあと、妹に連絡し、翌朝に病院に連れていくことで合意したのだが、心配で救急車を呼んだところ「バイタルは問題がない」とのことで、処置のしようがないため、このまま救急で連れて帰ることはできない、との判断だった。

その救急の方の確認のときに、おかしいことが一つあった。「今日の日付を答えてください」と言われた際、父は

「えー、昭和・・・」

と言ったのだ。

昭和なわけがない。救急隊員の方の見立てでは「認知症が始まったのかもしれません」とのこと。

まじかよ、と思った。

そして、飲み物を飲ませ、翌朝、病院に連れていき(その間、実はいろいろあるのだが)結果的に父は認知・言語機能にも支障をきたす「ウェルニッケ脳症」という、聞いたこともない病気になり、長い入院生活が始まることとなる。

と同時に、家業に対し、全くもって他人事だった私が、印刷所に関わることになった、はじまりの日でもあった。

・・・

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この人は元工場長(以下、工場長と呼ぶことにする)。写真は2018年のリノベーション後、オープニングのとき。今も元気で、印刷のことや、昔の印刷所のことを教えてくれる。曾祖父の代から勤めているので、曾祖父から曾孫(私)まで、本当にお世話になった方である。

父が倒れたとき、工場長に説明をし、とにかく現状の印刷所を把握することから始めた。工場長は事細かく、私にわかるように説明してくれた。

「わしがおるから大丈夫や」という言葉に、本当に安心した。

前職は加工業だったけれど、製造工程を理解するという点では、印刷かそうでないか、という違いだけであって、やることは同じだったのは、本当に助かった。

製造物、得意先、仕入先などを確認していく中、給与のことなど、経理面にも携わらなければならなかった。

事務所のどこに何があるかもわからない上に、父の代で(経営上)事務員の方にやめてもらったため、全く整理されてない、未開封の書類とか、いやもうそれはごっちゃごちゃの状態である。

そこで見つけたのが印刷所の通帳。

開けて中を見て、そして、閉じた。

まじかよ、と。

自転車操業状態の上、調べていくと、短期借入金もあり、計算すると、年内に資金が底をつく。

私が前職で倒産を経験したときに「おまえはすごい。父さんも倒産は経験したことがない」というボケか天然か分からない言葉を私にかけてくれた父よ、「父さんの会社も倒産寸前やないか!」と、本当に突っ込みたかった。

父の兄が元気だったので、いろいろと相談に乗ってもらい、まずは印刷業を廃業することにした。

(このことを決めるのには、少し勇気が要った。仏前で、曾祖父と祖父に、何度も謝った。ただ、ウェルニッケ脳症の発症から、認知症を残すこととなった父に関わりながら、この時代に印刷業を一から学んで、やっていく自信が私にはなかった)

印刷業の廃業を得意先(ニッカウヰスキー社の窓口であるアサヒビール社)や他社に連絡したり、引継ぎをしつつ、最終製造の打ち合わせをし、同時に、あのかっこいい印刷機たちも、売却して資金にしなければやっていけないので、売り先を探す。

並行して、もう一つあった工場(第二工場)の売却と、印刷所のその後をどうするかを検討すべく、叔父から「賃貸マンションという手もあるから考えてみれば」というアドバイスをもらい、何社か話を聞き、見積もりをもらう日々が過ぎていった。

・・・

間、父は、ほんの少しずつだが、状態が良くなっていった。

入院当初、父は「お父ちゃんとお母ちゃんに、僕がここにいることを連絡してほしい」と、とうに亡くなった私の祖父母が生きているような話をし「二人はもう亡くなったんだって!」と言うと、「なんで生きている人に対してそんなこと言うんや・・・」と泣かれたり(こっちが泣きたい)

私のことを娘ではなく妹だと思っていたり、早朝、病院から電話があって「お父さんがいません(徘徊した)」と、呼び出しが何度かあったり

「はい」と渡されたティッシュの中に、うんこさんがいたり(本人は病院→検便のつもりでいた)と、ただでさえ印刷所のことで忙しいのに、いろんなイベント盛りだくさんだった。

ただ、少しずつ、父は、ここが病院で、私が娘で、自分が療養中だと分かっていった(いろいろ書いたが、父を貶めたいわけではない。認知機能は少しずつ回復する。そして不思議と、父はより父らしくなった。これについてはまた記事にしたいと思う)。

認知症があり、実は糖尿病も患っていた父を自宅介護するのは難しいと判断し、介護施設に入ってもらう段取りも、行っていった。

そんな中、父のことにまつわる、最後の逆転ホームランみたいなことがあった。

逆転ホームラン。打った側か、打たれた側かは次の記事で。

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