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いまだ説明しづらい、鶴身印刷所のこと。-印刷所稼動編-

この話は「いまだ説明しづらい、鶴身印刷所のこと。-曾祖父起業編-」の続きです。

さて、戦後、鶴身印刷所という屋号を掲げて、印刷業が始まる。

曾祖父は職人として印刷の技術を発揮し、祖父は航空機会社を退職して、経営面とハード面(機械の刷新)から支え、奔走していた。

そして、ラベル、包装紙、歯磨き粉の箱、フライヤーなどを、自社で製版し、印刷だけでなく、凹凸を付けたり、箔押しをしたり、断裁したりと、様々な工程を従業員の方々と行っていた。

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曾祖父一家と住み込みの従業員さんとで20名程の大所帯での稼働。夕飯は3回回していたというから、とにかく賑やかだったんだなぁと思う。

向かいに住んでいた方からは「夜遅くまで明かりがついていて、いつ休んでいるのかわからなかった」と、とかく忙しかったらしい(ありがたいことである)。

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現在の印刷所にも、意匠的に取り付けたこの器具。名前はないのだが「紙を乾かすためのもの」である。

昔は紙のことを「生紙」と言って、印刷をするための紙には水分が多く含まれていたため、そのままでは印刷ができず、乾燥工程が必要だったそうだ。

曾祖父が外注して作ったこの器具は、重力と(見えにくいのだが)ビー玉の摩擦係数により、紙を簡単に挟んだり、外したりすることができるようになっている。

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これはハイデルベルグというドイツ製の機械。今は活版印刷で良く見るようになったと思う(うちにある写真が白黒で分かりづらいので、他社さんからちょっと拝借)。

戦後の輸入第1回目に幸運にも祖父が当選し、印刷所にやってきた。これにはオフセット印刷機以外にも、箔押し、断裁のための機械もあって、おかげで、精度の高い印刷物を作ることができた(その分、職人の腕と経験が問われる)。

印刷所はこういうかっこいい機械でいっぱいだった。
(ただし、お恥ずかしながら、子供の頃の私にとっては、黒い機械が大きな音を立てて稼動しているのは、ちょっと怖かった。紙が自動で吸い込まれていく、そこに自分も挟まれそうな気がずっとしていた)

(あと、余談だが、昔の職人さんは白のシャツに腹巻というのがお決まりの恰好だったらしい。「わしもな、姉ちゃんに編んでもろた腹巻しとったんや」と、元工場長は語る)

父の代では、ちょうど朝の連続テレビ小説で「マッサン」が放映されたこともあって、復刻版ラベルの印刷も手掛けていた。

蒸着の紙に印刷をしたり、箔の複雑さ、凹凸の付け方など、手前味噌だが、「鶴身印刷だからできたこと」というのは多分にあったと、得意先の方から誉めて頂いたこともある。

でも、印刷業は継続するには難しい時代が、父のときには、既にやってきていた。

安定的に、ローコストで印刷する技術や仕組みを持った印刷会社が台頭してきて、うちのような下町の工場は「費用面」において(勝ち負けじゃないんだけれど)やっぱり勝てなかった。

父はなんとか金策を行ったものの、それでも自転車操業状態で、結果、2015年の夏に病気で倒れてしまう。

さて、ここからが私の話である。

どこから話したらいいものか。

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