見出し画像

小さな巨人の釣りとコーヒー

名前はレック


レックとはタイ語で”小さい”という意味だが、レックと呼ばれている彼はかなり大きい。背も高いし(190cmはゆうにある)幅もある。太っているのではなく、大きいのだ。

レックは、勉強は苦手だったので進学には興味がなく、技術高校に進んだものの中退をしてすぐにレックの母親と同じ会社の別の部署に就職した。シングルマザーである彼の母と二人で暮らしていた。

レックが私の夫と職場で出会った頃、彼はすぐにカッとなる性格だった。真面目で優しい子なのだが、10代の彼はまだまだ若くて”怒り”の感情をうまくコントロールできなかった。職場では、どう考えても相手が悪いのだが、それを流すということができない彼はその相手の挑発にのってしまい結局喧嘩になり、問題となってしまう。

夫がそんなレックと職場で話すようになり、悩みを聞いたり、相談事をされたり、そしてとうとう休日に釣りに一緒に行くことにもなった。

釣りをしたことがなかった彼は、最初は夫や夫の釣り仲間の釣り道具一式を借りて体験してみた。

それがとても楽しかったらしく、
「次はいつ釣りに行くんですか?次の休みですか?僕、休み合わせて取ります!」
としょっちゅう釣りに行きたがった。

レックは学校の同級生たちとは馬が合わず、あまり友達という友達がいなかった。そのまま就職して毎日真面目に働くも、職場の同僚は皆レックよりもずっと歳上。夫はレックの母親と同じ年齢だ。

どうやら夫と話すことが、生まれて初めて、人生についてなどの真面目なはなしや彼の恋のはなしなど、本心を人に話すというような経験だったらしい。父親がいなかったので男同士の話ができなかったのだ。”釣り”ということよりも、一緒に話す相手、プライベートでも時間を過ごす仲間がいることが楽しかったのだと思う。
夫とレックの関係が、ただの同僚なのか、かなり年上の友達なのか、レックはよくわからなかったのか、でも夫を慕う気持ちでいっぱいだったので、

「僕の母と結婚して、僕の父親になってくれたらいいのに…」

と夫に言い、そして今度レックの家でご飯を三人で一緒に食べないかと誘ってきたらしい。

私はこのことを後日談として聞いた。
これを聞いた時の私は、
「え!そうなんだ!?それで、行くの?」と夫に聞いた。

「いや、これは随分前の話で。でもその時に断ったよ。その時も、この先もレックとレックの母親と僕の三人だけで会うことは絶対にしないってね。だって、そんなことしたらSUMACOさんいい気持ちしないでしょ?」
と夫。

随分と急な展開のおもしろさと、夫のその気持ちと行動はありがたいなという気持ちもありつつ、なんだか少しだけ他人事のようなはなしにも感じていた。自分の全く知らないところでも、自分にも関係するドラマは展開しているんだな。
「まぁ、そうだね。なんか仲間はずれにされたっぽく感じるかもね。ありがとう。」
と私は言っておいた。

それからしばらくして、レックが釣竿とリールを買いたいというので、夫がそれを見立てることになった。一緒に釣具店に行くことになり、その時私もついていくことにした。
レックはとても礼儀正しく、ちょっと緊張しいていた。レックにとって私が初めての外国人だ。私はタイ語で話しているのだが、彼には全て英語に聞こえるらしい。私が何を言っても、焦りながら夫に通訳を頼んでいた。
この日は釣り竿とリールを買うことが目的なので、私はほとんど何も話さず、二人があれこれ言いながら選んでいる姿を眺めていた。レックはとてもいい釣り竿とSHIMANOのリールを購入した。たくさんはいらない、
一つだけいいものが欲しかったという。

そして後日、夫の釣り友も含めて4人で釣りに出かけた。

コーヒー

私は、釣りに行くととりあえずコーヒーを淹れる。
豆を挽くところから始め、モカポットを使うこともあれば、ドリップにする時もある。薪ストーブを使ってお湯を沸かすこともあれば、ガスバーナーを使うこともある。
みんながせっせと釣りの準備をしている時に、木陰のコーヒー店の開店準備が始まる。そしてみんなが餌をつけて1投し、魚が食いつくのを待つその間にコーヒーをふるまうのだ。時にはお菓子もついてくる。

大体の釣り仲間の男たちは普段フレッシュコーヒーを飲まない。飲んだことがないという人もいる。レックもその一人だ。
皆、コンビニや商店で買う冷たい甘い缶コーヒーが大好きなので、”コーヒー”という名の私の淹れる温かい黒い飲み物には最初はびっくりする。
ブラックでは到底飲めないだろうから、いつも牛乳を用意する。
おかわりはいくらでもできるのだが、私と夫以外は誰もおかわりはしない。

「美味しいっす!!」と言いながら目が泳いでいるのはレック。一気に飲み干した。
私はそれを見てニコッとする。
夫も、私参加の釣りの度に私の淹れたコーヒーを飲む夫の釣り友もそれを横目で見てニヤッとする。

この日以降も、レックと私たちは釣りやバイクの日帰り旅行に一緒に行ったので、毎回レックは私の淹れたコーヒーを飲んだ。段々と私のコーヒーを飲み慣れていくレック。コーヒーを一口飲むと「ハァ…」と息を吐き、遠くを見つめながら二口目をゆっくり飲むようになった。

ちゃんと普通のコーヒーですよ。

私が彼らの釣りに参加しない時には、
「SUMACOさんは今日は来ないんですか?どうしたんですか?具合悪いんですか?」
などと夫に聞いてくれるらしい。

レックの釣りと変化

レックが釣りを始めて1年が過ぎた頃、レックの母親や職場の上司がレックの変化に気がついた。レックが落ち着き始めたのだ。以前よりもカッとなることが少なくなった。自分でちゃんと考えて次の行動に出るようになった。夫曰く、それはレックが釣りをやるようになったからだそう。釣りは数分おきに魚が釣れるわけではなく、長い長い待ち時間の末、何も釣れないことも多々ある。その何も釣れない間も釣り人は愛着を持って時を過ごす。その時間は自分と向き合うような時間だ。
レックはその頃はもう、夫と一緒ではなくても、休日や仕事終わりに一人ででも釣りに出かけていた。あの時買った釣り竿とリール以外の釣り道具を自分でちゃんと揃え、夫に使い方を教わり、習得していた。

そんな頃、私は持病の症状が突然悪化し、寝込むことが多い時期でもあった。
ある日、夫が仕事から帰ってくると、私にコンビニ菓子パンを一つ手渡した。
「SUMACOさんにだって。レックから。」

びっくりした。それは職場の隣にあるコンビニで買った
『Hokkaido- Milk(北海道ミルク)パン』
と書かれた食パンに甘いクリームが塗られた普通の菓子パンだった。

「え?なに?レック食べきれなかったの?」
と聞く私。

「いや、ちゃんとコンビニで選んで買ってきたみたいだよ。きっとSUMACOさん好きだろうと思ったみたい。その袋の”かわいい”…牛のキャラクターとか、『北海道』とかじゃない?普段レックはコンビニで買い物なんてしないからね。」

おぉぉぉ。
一瞬にして私にはこの北海道ミルクパンが輝いて見えた。普段コンビニの甘い菓子パンは食べないのだが、有難くてそのパンを手にしてすぐにいただくことにした。

とても美味しかった。

レックはその後も時折、夫経由でコンビニで買った普通の”カニマヨのランチパック”(多分、カニマヨだけ食パンにカニキャラの焼印が入ってかわいいから)や職場の神棚にその日の朝お供えしたのを夕方引いてきたお菓子などをくれた。

毎回「SUMACOさんの具合はどうですか?」と聞いてくれるらしい。
私や夫、他の大人にとっては普通のコンビニパンやお菓子でも、彼はちゃんと理由をもって私に選んできてくれている。レックにとってコンビニはちょっとおしゃれでいいお店なのだ。

その後私は回復し、自慢の日本のカレーをレックに差し入れた。とても美味しかったらしい。レックの母親はシングルマザーで、身体がちょっと弱いにも関わらず懸命に働いてきたので、帰宅後は疲れ切ってしまい、ほとんど自宅で料理はしない。そんな理由とタイはそもそも外食社会なので、レックは小さい時から食事は自分で外で買ってきて一人で食べてきたのだ。
魚釣りを始めてから、レックは自分で釣った魚を自身で料理するようにもなった。母親がものすごく驚き、喜んだらしい。

旅立ち

それからレックに彼女ができたりして「今度彼女と会う時に、どんなところに連れて行ってあげたら彼女は喜んでくれるだろう?」という相談に、私も楽しんで色々と提案させてもらった。遠距離恋愛だったため、普段は相変わらず仕事を淡々とこなし、釣りを楽しんでいた。

そんなある月、予てから夫が計画・準備していた転職をすることになった。もちろんレックにはチラッと話してはいたみたいだが、職場にちゃんと退職願届けを出したことで、レックは動揺した。

「先輩がいない職場でなんか働いていられません!僕も辞めます!!」とまるでテレビドラマのようなセリフが出てきた。レックだけでなく、夫を慕っていた職場の同僚数人も同じように言い、実際に辞めていった。

夫は、レックだけにはしばらくとどまるように促した。理由は、レックには家族は母親ひとりだけ。その母親は身体が弱い。今の感情の勢いにのって仕事を辞めたら母親も心配するだろうし、生活はどうするのだ。パンデミック時の真っ只中、新しい職を見つけるのはおそらく簡単ではない。確かにこの職場の仕事はきつい。給料は決して良くないし、嫌な同僚も確かにいる。ただ、仕事自体はとても大切な仕事だ。そんな仕事をちゃんとこなしてきたじゃないか。辞めるのはいい、転職をして色々な経験をするのもとてもいいとおもう。だけど、ちゃんと自分で考え、計画して、決めること。

レックは落ち着いて考えることにした。

夫が職場を去ってからも、レックは夫と連絡を取ったり、たまに一緒に釣りに行ったりしていた。その期間中レックは本当にいろいろと考えていた。色々と考えて、まずは次の職のつなぎになるよう、今の職の仕事が終わった後にアルバイトも始めた。普段からバイクで通勤していたが、実は免許を持っていなかったレック。(タイではそんな人が多い)
レックはずっと私たちとバイクで県を跨いで旅行に行きたがっていたので、ちゃんと免許を取るように勧めていたのが、この期間中に彼は免許を取得した。


そしてレックは志願兵になることを決めた。



タイ国において、成人するタイ国籍の男性には29歳までに徴兵制度が課せられる。ただ全員ではない。持病・身体的に条件を満たさない場合、父親がタイ人ではない場合、くじ引きで外れた人は免除される。
兵隊になる方法は、志願兵になるか、くじを引くかだ。くじの内容は、空軍・陸軍・海軍・免除だ。兵役を逃れたい人は”免除”を願いつつ抽選にいく。”○軍入隊”を引いたらそれぞれの職種・部署で最短期間2年の兵役に従事する。
志願兵の場合には、職種が自身で選べる上に、兵役期間も1年に短縮される。

レックは29歳になるまでまだまだ時間がたくさんあったが、彼自身の人生をよくよく考えた結果、今志願兵になることにしたのだ。志願兵になることで、メガネをかけているという身体的特徴と今まで働いてきた職場での経験を活かす軍内の通信ポジションにつくことを希望した。そして最短1年をそこで経験する。希望であれば、そのまま試験を受けて本当の兵隊として就職もできる。兵隊は公務員職なので、給料も安定、補償もついたいい職業でもある。タイの家族的には嬉しい職種だ。戦争さえ起きなければ。

名前は”レック(小さい)”だけれど、身体だけでなく、しっかり彼の内側の器も真っ直ぐに大きく成長している。早期に徴兵制度を受けて帰ってきた男性たちは、以前とはだいぶ変わって帰ってくる。兵役中いろいろと大変な想いをして、そこでまた学ぶのだろう。どうか歪まないできてしほしい。

兵役中はスマートフォンが没収され外部との接触を禁じられるので、入隊3日前に私たちはレック念願の県を跨いでのバイクの旅をお祝いにした。レックは今までチェンマイを出て旅行にいったことがなかったのだ。とてもいい思い出になったようだった。何をしても始終楽しそうだった。


どうしているかなレック。
私がまた一緒に釣りに行きたいと思うひとりの釣り仲間だ。
木陰のコーヒー店にまたきてほしい。

釣りをしながら眺める夕暮れ





この記事が参加している募集

#釣りを語ろう

1,292件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?