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「我々はどこから来て、どこへ向かうのか」私たちが生きる理由

なかなか壮大なテーマ

もちろんその答えは人によって違うと思う

私はどう思っているのかをお話しします

というのも、ここ最近私のnoteで反響が大きいのがこの二つ

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「死ぬ」と「生きる」を考えるヒント

つらい時、私を救ってくれた人たち

なかなかハードコアな話が上がっている。
「え!? 実は私が思っているより今つらかったり、生きる・死ぬ・命について考えている人が多いのかな...?」と思ったので、今日は超そんな話を書きつづっていこうと思った次第です


我々はどこから来て、どこへ行くのか

『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』は画家ゴーギャンの言葉であり絵画である

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『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』(われわれはどこからきたのか われわれはなにものか われわれはどこへいくのか, 仏: D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?)は、フランスの画家ポール・ゴーギャンが1897年から1898年にかけて描いた絵画。ゴーギャンの作品のうち、最も有名な絵画の1つである。

出典:Wikipedia

(絵画を読み解くより、言葉として考えていきます)

この問いに対して“我々”を何とするかでも変わってくる。

私たち“人”とするのか、生きとし生けるもの全てを指すのか、それとももっと大きな単位で宇宙に存在する全て、カオスまで範囲を広げるのか...

仮に、“生命”としてみる
「人」が一番わかりやすいかな。これを読んでいるのも人であるはずだから、一番共感できるはず

私たち人を含む“生命”は、この世に子孫を残す形で存在し続けている。植物であれば交配して種を残し、その種からまた次の代が、動物であれば子どもを産み育ててバトンをつなぐ。微生物や細胞レベルで繁殖する小さな者たちもいるし、オス・メスの概念が無いもの、自分自身が分裂して増え続けるもの、多種多様の方法で、生命を代替わりさせて繋ぎ、存続し続けている

私が知る限り、どんなに長生きであっても、生き物はいつかは死ぬ。どんな生命であっても死からは逃れられない。だから「生きている」。死ななければ生もない(死なないなら生の概念も発生しないという意味。二つはセット)。死があるから生になり、生まれた瞬間から死に向かっているとも言える。


「我々はどこから来たのか」

「どこから」を「生命の起源」とするなら、もし起源となるはじまりの生物から派生して今の私たちまで続いているなら(はじめの一つがあったとするならば)その子々孫々と繋がってきた今の代の私たちは、例外なくその一部を自分のどこかに持っていることになる。みんなの根本となる、はじめの起源の一部を。

進化の過程で初めの純粋なものなんて、もう無くなっていると言う人もいると思う。けれど、私はみんな持っている気がする。遺伝子とはまた別のものかもしれない、まだ発見されていないものかもしれない。世界については人が知らないことの方がまだまだ沢山あるのだから、感覚的にでしかないものの、私はそう感じている。


「どこへ行くのか」

そして「どこへ行くのか」についても、今までバトンを引き継いできたように、これからもつないでいくだけ。ならば、『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』、我々をこの世の生命とした時、我々が来た起源、今の我々、その先の我々は、全部今の我々に内方されている。

今、我々は引き継いだものを持ってここにあり(存続し)この先渡して引き継いでもらうものも今ここに持って存在している。

つまりこの答えについては、今の我々であり、「私」もそう。
私であり、あなたであり、全ての生命、でもある。私=あなた ではないけれど、私もあなたもその他の生命も、同じくその要素を持っている。全体の“生命”で見た時にね


難しい?


『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』は、

『我々 -
(生命)は

どこから来たのか -
(全ての生命の起源から生まれたと仮定するなら、)

我々は何者か -
(その起源であり代々続く中でマイナーチェンジをしながら種を増やし様々なタイプに進化して今在る(ある))

我々はどこへ行くのか -
(今後もバトンを繋ぎ、ここに在り続ける)』

始まりも、今も、この先も、私たちはここに在る。答えはいつもここに在る


我々はどこから来た?
宇宙の起源を考える

宇宙誕生の起源を考えるならなんでしょう、科学的にはビックバン、しかしそれも現時点での仮説でしかない。霊感とか特殊能力とか見えないものを見る力?を持った人たちはビジョンとして見えたりするのでしょうけれど、それが自分が作り出した幻想なのか真実なのか何なのか、それをどう判断できるのかな。“絶対正しい人”に判断してもらうの?(そんな人おらんだろw)昔はそんな世界だったと思う。絶対王がいて、何でもその人の言うことが正しい、みたいなね。でも今はそうじゃないでしょう?自分のことを自分で決められる。そこに命の危険はないのだから、いい時代だと私は思う。

我々がどこから来たのかを想像するのは宇宙とか他の星とか宇宙人とか、そんなイメージがあったり、水ができて物質の中から細胞の元が生まれて、原始生物が長い時を経て大きく複雑な生命体へと発展していくイメージがあったり様々で、でもどれも仮定でしかないよね。それは今ではないから、確かめようもない。想像を膨らませてロマンを語るように夢の一つとして巡らせるのはいいと思う。けれど、現実的な私としては、それを考えることに意味はあるのかな?とも思ってしまう。そこの謎を解き明かすことで、今をよくする、この先をよくする、そのための研究であれば応援したい。ただ不思議でなんでだろうと考えるのもいいと思う。でも、今から逃避するために救いを求めて巡らせるのなら、それは、今を解決することを先に取り組んだ方が合理的だと私は思う。(でもそんな時もあるよね、実際)

種を残す意味

生命(人)はなぜ種を残すことに取り組むのか、残す・残さない・残せない、様々な場合があるけれど、前提としては子孫を残しバトンをつなぐことに疑問を抱かないくらい当たり前のことで、でもなぜ当たり前なの?と疑問に思うなら、なかなか的を得ていると思う。(みんなが当たり前に思うことになんで?って思うのも大切だよね)

なぜ種を残すのか。本能の域だと思っていて、それは「在るため」かと思う。生存本能は、自分という個体として生存することもだけれど、「自分を残したい」願望、自分を生存させたい、その自分は今の自分に限らず自分の一部でも自分だし、全体の生命としての集団心理でもあるかもしれない。だって人も他の生物なしでは生きていけない、全体の生命の一部だもの。その生命を一つと数えるならば、その生命が存続するためには命を繋がなきゃいけないからね。循環がなければ生き続けられない。

そうまでして生きたい理由

では、そうまでして人はなぜ生きるのだろう。
なぜ生きたいのだろう。何のために?
これも人それぞれで答えは違うけど、「やりたいことをするため」は、その一つの理由にあると思う。生きるため、は在るため、存続するため。では、日々命の危険にさらされることなく存続できる環境にある私たちはきっと何かを始めるはず。それは大きなことでなくても、朝起きて顔を洗って朝ごはん食べて... 「何かしよう」と思って「何かする」。それ自体がすでに目的達成なんじゃないか。その上で、何かを成功した時の感動とか、幸せと感じる瞬間とか、いろんなことがある。

私たちは、日々やりたいことをできている。一番根本の「生きたい」を実現し続けているのだから。だからもう既に、第一の課題は達成している。

人とその他の生物の違うところは、「意味を求める」ことだと思っていて、「生きることに意味はあるのか?」と考えているのは地球上で人間しかいない(多分ね。他はわからないからw)本能と思考が混在して、複雑に考えながら生きる私たち。「意味を求める」のが私たちなら、きっと「意味を求め」たかったのだろうw。複雑に生きてみたかったんじゃないかな。

じゃぁ、「複雑に考えながら生きる」も達成しているね。もう万々歳です。大いに悩み、考え、思いを巡らせながら、それでも面白楽しく生きていけたらいいな。私はそう思います。

じゅんぐり回していきます☺️ 忘れた頃に、大きく育ってあなたのもとにも還りますように🙌🏼