エーリッヒ・フロムの"愛するということ"を読んで

愛について知りたい人は是非この本を読んでほしい。
愛とは自然に湧き出る感情だと思っている人が多いのではないだろうか。

でも、実際は技術であり技能なのだ。
人を愛するためには人を信頼する必要があり、勇気がいる。
また、愛し続けるためには集中力と忍耐がいる。

人を愛せる人が本当に強い人なのではないかと思う。
私は人を愛せるようになりたい。
私にはまだまだ修練が足りない。


以下、本書の気になった部分の引用。

愛は技術であると知ること
理論学習と修練、自分にとって究極の関心事でなければならない

自分の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち配慮・尊重・責任・知に根ざしている。

利己主義と自己愛とは、同じどころか、正反対である。

フロイトによれば、利己的な人間はナルシシズム傾向が強く、いわば自分の愛を他人から引きあげ、自分に向けている。たしかに利己的な人は他人を愛せないが、同時に自分のことも愛せないのである。

孤立感を克服する最も一般的な方法は、集団に同調すること

人々を集団に同調させるために、独裁体制は威嚇と脅迫を用い、民主的な国家は暗示と宣伝を用いる

人々は自ら欲して同調している

みんなの意見と一致するときは、「自分の」意見の正しさが証明されたと考える

現代では平等は「一体」ではなく「同一」を意味する

愛は、人間のなかにある能動的な力である

愛は何よりも与えることであり、もらうことではない

愛の要素、配慮、責任、知

愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである

人を尊重するには、その人のことをまず知る必要がある

愛とは愛を生む力であり、愛せなければ愛を生むことはできない

人は自分の生命を与えることで他人を豊かにし、自身を活気づけることで他人を活気づける

与えること自体がこの上ない喜びなのだ

未成熟な愛は「あなたが必要だから、あなたを愛する」と言い、成熟した愛は「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」と言う

自分が自分の父であり母なのだ

神への愛は、はじめは母なる女神への無力な者の依存であり、次に父性的な神への服従となり、成熟した段階になると、人間は神を、人間の外側にある力とみなすことはやめ、愛と正義の原理を自分の中に取りこみ、神とひとつになる。

現代資本主義はどんな人間を必要としているか。それは、大人数で円滑に協力しあう人間、飽くことなく消費したがる人間、好みが標準化されていて、他からの影響を受けやすく、その行動を予測しやすい人間である。また、自分は自由で独立していると信じ、いかなる権威・主義・良心にも服従せず、それでいて命令にはすすんでしたがい、期待に沿うように行動し、摩擦を起こすことなく、社会という機械に自分をすすんではめこむような人間である。無理じいせずとも容易に操縦することができ、指導者がいなくとも道から逸れることなく、自分の目的がなくとも、「成功せよ」「休まずに働け」「自分の役目を果たせ」「ただ前を見てすすめ」といった目的にしたがって働く人間である。

いまや私たちの性格は、交換と消費に適応している。物質的なものだけだなく精神的なものまでもが、交換と消費の対象となっている。

必然的に、愛をめぐる状況も、そうした現代人の社会的性格に呼応している。

愛のもっとも重要なあらわれのひとつが「チーム」という概念である。幸福な結婚に関する記事を読むとかならず、「結婚の理想は円滑に機能するチームだ」と書いてある。そうした発送は滞りなく役目を果たす労働者という観念とたいしてちがわない。そうした労働者は「適度に自立」したおり、協力的で、寛大だが、同時に野心にみち、積極的であるべきだとされる。

二倍になった利己主義

チームにおいては、メンバー一人ひとりが「共通の目的を追求するために、自分の行動を、相手が表明する欲求に合わせる」ものだからである(ここでサリヴァンが、相手が表明する欲求と言っていることに注目しよう。なぜなら愛について最低限言えることは、愛があれば当然ながら相手が表明しない欲求にも応じるということだから)

投射のメカニズムによって、自分自身の問題を避け、その代わりに「愛する」人の欠点や弱点に関心を注ぐという態度も、神経症的な愛のひとつの形である。

この場合、個人が、あたかも集団や民族や宗教のようにふるまう。この手の人間は、他人のどんな些細な欠点もめざとく見つけ、他人を非難し、矯正することに忙しく、自分の欠点にはまったく気づかずに平然としている。

自分の問題を子どもに投射するというのもある。まず、この投射が、子どもへの期待という形であらわれることがよくある。その場合、子どもにどういう期待をするかは、自分の人生の問題をどう子どもの人生に投射するかによって決まる。自分の人生に意味を見出せない人は代わりに子どもの人生に意味を見出そうとする。だがそれでは自分の人生にも失敗するし、それだけでなく、子どもにも誤った人生を送らせることになる。なぜ自分の人生に失敗するかといえば、それは、いかに生きるかという問題は本人によってしか解決できず、身代わりを使うわけにはいかないからだ。どうして子どもに誤った人生を送らせるかといえば、そういう人は、子どもが自分で答えを見出そうとしたときに導いてやれるだけの資質に欠けるからだ。

日常生活は、宗教な価値からはきっぱりと切り離され、物質的安楽と、人間の市場での成功への努力に捧げられている。私たちの世俗的な努力の土台となっている原理は、無関心と自己中心主義である(後者はしばしば「個人主義」とか「個人の自発性」と呼ばれている)。真の意味で宗教的な社会に生きる人は、八歳くらいの子どもにたとえることができよう。すなわち、まだ父親の助けを必要としているが、同時に、父の教えや主義を自分の生活に取り入れはじめてもいる。それにたいして、現代人はむしろ3歳児に近い。助けが必要になると、泣いて父親を呼ぶが、そうでないときはひとりで満足している。

現代人の最大の目標は、自分の技能や知力をそして自分自身を、つまり「人格のパッケージ」を、できるだけ高い値段で売ることである。相手もまた、公平で有利な交換をしようと血眼になっている。人生にはもはや、前進する以外に目標はなく、公平な交換の原理以外に原理はなく、消費以外に満足はない。

愛の修練 規律、集中、忍耐、関心

ひとりでいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ

集中するとは、いまここで、全身で、現在を生きることだ。何かをやっているあいだは、次にやることは考えない。

いちばん集中力を身につけなければならないのは、愛しあっている者たちだ。彼らは往々にして、さまざまな方法を駆使してたがいに相手から逃げようとするものだが、そうではなく、しっかりとそばにいることを学ばなければならない。

愛を達成するためにはまずナルシシズムを克服しなければならない

正気を失った人間にとって、存在する唯一の現実は、自分の中にある。

妻のことを高圧的だと感じている夫も多いが、彼らは自分の母親に執着しているため、他人からどんなに些細な要求をされても、自由が制限されるように感じるのだ。

客観的に考える能力、それが理性である。理性の基盤となる感情面の姿勢が謙虚さである。

人を愛するためには、ある程度ナルシシズムから抜け出ていることが必要であるから、謙虚さと客観性と理性を育てなければならない。

愛の技術の修練には、「信じる」ことの修練が必要なのだ。

根拠のない信念は、ある権威、あるいは多数の人びとがそう言っているからというだけの理由で、何かを真理として受け入れることだ。それにたいして、理にかなった信念は、大多数の意見とは無関係な、自身の生産的な観察と思考にもとづいた、他のいっさいから独立した確信に根ざしている。

自分を「信じている」者だけが、他人にたいして誠実になれる。

自身にたいする信念は、他人にたいして約束ができるための必須条件である。

そして、ニーチェが言ったように、約束できるということが人間の最大の特徴であるから、信念は人間が生きていることの条件のひとつなのである。

愛に関していえば、重要なのは自分の愛にたいする信念である。つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる、と「信じる」ことである。

他人を「信じる」ことのもうひとつの意味は、他人の可能性を「信じる」ことである。

教育とは、子どもがその可能性を実現していくのを助けることである。

教育の反対が洗脳である。これは、子どもの潜在的可能性の成長にたいする信念の欠如と、「大人が望ましいと思うことを子どもに吹き込み、望ましくないと思うことを禁止すれば、子どもは正しく成長するだろう」という思いこみにもとづいている。

理にかなった信念の根底にあるのは生産性である。信念にしたがって生きるということは、生産的に生きるということだ。したがって、他人を支配するという意味での力、つまり権力を信じたり用いたりすることは、信念とは正反対のことである。現在すでにある力を信じるということは、まだ実現されていない可能性の将来を信じないということであり、いま目に見えるものだけにもとづいて未来を予想することだ。これはとんでもない見当ちがいであり、人間の可能性と成長を見落としているという点で、全く道理にかなっていない。

権力にたいする理にかなった信念などはありえない。あるのはただ権力にたいする屈服である。

信念をもつには勇気がいる。勇気とは、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。

愛されるには、そして愛するには、勇気が必要だ。

人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは無意識のなかで、愛することを恐れているのだ。

人を愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全身を委ねることである。

愛とは信念の行為であり、僅かな信念しかもっていない人は、わずかしか愛せない。

もし愛するということが、誰にたいしても愛情豊かな態度をとることを意味するとしたら、また、愛が性格特性だときたら、当然ながら、家族や友人との関係にだけでなく、仕事上で接触するような人たちとの関係にも、愛があるはずだ。

身内にたいする愛と、赤の他人にたいする愛とのあいだの「分業」はありえない。赤の他人を愛せなかったら、身内も愛せない。

友愛に関するユダヤ=キリスト教の規範は、公平の倫理とは全く別物である。それは、隣人を愛すること、つまり隣人にたいして責任を感じ、自分はその人と一体であると感じることである。それにたいして、公平の倫理とは、責任も一体感もおぼえず、自分は隣人とは遠く離れ、隔絶していると感じることであって、隣人の権利を尊重することではあるが、隣人を愛することではない。

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