【レポ】天国三輪神社を訪ねて
刀工・天国の痕跡がこの近辺にあると言うことで、2022年9月10日残暑の中にも秋らしい風が吹きはじめた、奈良県高市郡高取町にお邪魔した。かつてこの地にあった「天国三輪神社」についての事前調査の内容については、前回の記事をご覧いただきたい。
高取町の観光案内所「夢創館」へ
さて、尼ヶ谷にある天国三輪神社に長年訪問してみたいと考えていた筆者。ようやく位置を推定できはしたものの、人がほとんどいない山中にあるということで、遭難や事故の可能性も否定できず、突撃訪問は憚られた。
というわけで、事故を勝手に起こすよりはマシであろうと高取町観光ガイドと大淀町文化振興課の方に問い合わせを行った。すると、双方から天国三輪神社の位置を知る方を紹介していただき、急遽10日の訪問に合わせて対応いただけることになった。
高取町在住の西川さんと中本さんという方で、高取町観光案内所「夢創館」で合流し、お話を伺うことになった。
お二人の話では、これまで幾度か高取町観光案内所として発行していたパンフレットやリーフレットで天国三輪神社を取り上げており、時折遠方から問い合わせが入ることもあったらしい。
尼ヶ谷集落は、現在3軒ほどが点在するのみで高齢者が多く神社の維持管理は困難。村の所有物であるため、西川さんなどが時々様子を確認しているそうだ。「今日行っても大丈夫だと思いますよ」という言葉を頂いたので、お言葉に甘えて二人の案内で神社に向かうことになった。
天国三輪神社に参拝
高取町から直接神社へ向かう道は、現在廃道になっているため、一旦国道169号線を使って大淀町側に出てから回り込むことになる。大きなゴルフ場の奥、北西へ向かう細い道を進むとポツンと1軒民家があった。
そこから更に西に入るのだが、入り口がそもそも草と倒木でよくわからない状態である。
どうしようかと思っていたら、流石は手慣れている西川さん。テキパキと剪定バサミを使って木を切りながら進んでいく。
西の方に進んでいくと10分ほどで拝殿らしき建物が見えてくる。聞けばこの写真の手前あたりが鞴場跡とされていたようだ。
この前日に大雨が降ったそうで、境内のあちこちはちょっとした川のようになっている。筆者が辿った道は正式な参道ではなく、境内の南から入り込んだ形だ。
右手側に、石の立派な鳥居が残っていた。参道は先ほどの民家のすぐ横に出るらしい。
鳥居の裏には「昭和十年九月建立」「施主 東佐太郎」と刻まれている。廃社になったのは明治42年であるから、やはりその後も周辺の人々が手入れを行なっていたことになる。
実はこの御神木のそばにも東さんの名前が刻まれている。御神木を囲う玉垣の右端に「昭和五十三年七月建立 施主 東良美」とあり、代々東家がこの神社を管理していたようなのだ。
思えば、「天国傳書」なる古文書を保管していたというのも東さんだし、そこに記載があった世話人年寄の名前も東惣兵衛である。具体的な血縁関係はわからないが、昭和中期にも尼ヶ谷に4軒の東氏がいたので、彼らが守ってきた神域ということになるだろうか。
拝殿の中には、2つの大きな絵馬がかかっている。
文字が流れ出してしまい、誰がどういった経緯で奉納した絵馬なのかは不明であるが、丁寧に描かれた絵であるのは事実だろう。
さて、境内の配置はほぼ明治23年(1890年)に描かれていた絵図と合致している。無くなっているのは、絵図の左側になる鳥居のみ。木造から石やコンクリート造になっているものの御神木、拝殿、鳥居、玉垣などはほぼ当時の位置から変わらずにあるのがわかる。
祠と焼刃の井
参拝を済ませ、鳥居を出てそのまま直進する。東に向かっていることになるが、この途中に比較的新しい風情の祠があった。
その脇にはちょっとした滝と小川が流れていて、そこを超えると何やら、プラスチックの板で覆いがされているものがある。西川さんが覆いを外すと、その下が焼刃の井であった。覆いが乗るように今は鉄柱が渡されているが、見事な岩場をくり抜いた井戸である。
よくみると右下あたりに、取水用のホースが2本見えている。近くの人々は生活用水として利用していたのかもしれない。
元通りに蓋をして、道を下る。この時も木々を払って進むのが欠かせず、やはり筆者だけでは無理があるだろうと痛感した。
道を出ると、確かに先ほどの民家の側面に出た。実はこのお家も東氏なのだから驚きであった。位置関係をまとめると、以下のようになる。
念の為確認すると、高取町としては出入りを禁じている場所ではないので、確認したい人は入っても構わないということだった。しかしながら、アクセスは非常に不便であること、慣れている地元の方しかわからない道である点には注意が必要だ。
訪問の際は以下の点、ご注意いただきたい。
高取町役場まちづくり課、観光案内所に問い合わせてから
民家横であるため大きな音や声は出さない
足場が悪いためハイキング用シューズ必須
悪天候は引き返す
御供物をする場合は、すぐに回収する
合祀先の高生神社
汗だくになりながら、車に戻った我々はそのままの流れで高生神社に向かった。明治42年に天国三輪神社を合祀した先である。
2人が仰るには、先ほどの御神木から生まれた若木を移して御神体としたそうだ。
ここにはなんと五社が寄り添うように祀られていた。五社というのは「高波根神社」「清水神社」「天国三輪神社」「天満神社」「宮形神社」である。
ご無礼ながら、記録のため玉垣越しに中を撮影をさせていただいた。
神々の周囲を灯籠がグルリと囲んでいるが、形がまちまちなのが興味深い。各神社にあったものを寄せ集めたのであろうか。
もと高波根神社は高取山山頂に1100年ほど前に創建。高取城の改修もしくは兵乱を避けるために400年ほど前、この地に移されたようだ。「タカバネさん」の愛称で今も地元の人々から愛されている。
ちなみに、確認したところ神社全体の正式名称は”たかぶじんじゃ”であった。”たかばね”というとこの本殿中央にある高波根神社のことを指す(色々なサイトで記載が異なっているが使い分けとしてはこれが正式なようだ)。
余談だが、それぞれの御祭神は
高波根神社=高皇産霊神
清水神社=瀬織津姫命
天国三輪神社=大和大物主櫛甕玉命
天満神社=菅原道真
宮形神社=倉稲魂神
であり、見事なまでにバラバラである。
また、裏参道の入り口には太神宮灯籠という大きな灯籠もあった。これは昔「伊勢神宮へお参りできない代わりに、この灯籠に火を灯して回ればお参りしたに値する」と言われた名残で、町内に数カ所残っているそうだ。
伊勢信仰の片鱗であるが、いずれにしても様々に信仰された神々が一同に会しているのは見ていて面白い。
一息ついてのお話の中で
高生神社を後にし、夢創館に戻ると親切にも館の方が飲み物を用意してくれた。西川さんと中本さんと別れ難いので、しばしお話をさせていただくことになった。
お2人はこの観光案内所の開設に関わっており、今も地域の歴史などを調べておられる。天国のゆかりの地として、尼ヶ谷があったにも関わらず現在ではほとんど知られていないことに残念そうな表情を浮かべた。
恐らく、宇陀の地とこの高取の地の双方を行き来していたか、彼の弟子たちが近辺で刀を鍛えていたのではないだろうということである。
筆者は以前このnoteで述べた通り、天国は1人ではなく複数名いた鍛冶集団であるのではないかと認識している。職人の数が増えるに従って、宇陀と高取の双方を本拠地とし刀を打ったのだろう。
また、高取には大和五派の1つ保昌派の本拠地である。鎌倉〜室町時代の当時は近辺に高取城や矢走城があったことを考えると武具類の需要がかなり高かったことが窺える。
そんな彼らがわざわざ参拝していた(かもしれない)天国三輪神社。天国の名前を冠する神社と地名があったことは、この地域の特色ではないだろうか。維持管理が非常に難しくなっていると聞くが、そのまま埋もれさせてしまうのはなんとも避けたいと感じさせられた1日であった。
おわりに
お2人とお別れした後も、筆者は夢創館でのんびりさせていただいたので、施設のご紹介をしておこう。
夢創館内の売店では、どうしても欲しかった高取城の御城印(登っていないのに)や採れたての野菜、参考になりそうな歴史書などなど入手。筆者、お城も大好きであるからぜひ次回は中本さん案内のもと、高取城にも挑戦してみたいと思う。
ちなみにこの高取は「くすりの町」として知られる。飛鳥時代の宮廷行事として薬狩りが行われていたそうで、その歴史はかなり古い。推古天皇が聖徳太子を連れて行ったという話もあるのだから驚きである。
裏手には「くすり資料館」があり、過去の調剤に使った道具類や古い販促ポスターなども見ることができる。高取町に訪れた際はぜひ見て欲しい。
さて、いずれにせよ筆者としては尼ヶ谷にあった天国三輪神社の面影をなんとか残したい気持ちでいる。維持管理が難しくなっているというだけでなく、知らない人が多いというのも課題なので、できる限り広めていけるよう尽力するとともに、時々伺っては境内の掃除だけでも協力したい。
今回の訪問は高取町、大淀町のご協力、西川さんと中本さんの案内、そして一緒に調査してくれた友人の力なしでは果たせなかった。誠心誠意感謝を伝えると同時に、これをきっかけに何かプラスになることができれば・・・と思う。
試行錯誤しながらではあるが、伝承をわずかでもつなぎとめられたのであれば、本望である。