少女な母 ③
母のパニック障害は暗い映画館やコンサートホール等でも起こった。
音楽を聴きながら、映画を観ながら、息苦しくなると外に出たくなる母。
毎回、脳神経科の先生が処方した安定剤を飲ませて落ち着かせたが、母が一人で外出している時は私も心配だった。
こうした症状も徐々に消えてはいったがかなり時間がかかった。
長年の間にはうつ病の治療に漢方薬を使ったりした。
これが認知症にも利き、毎日同じものを買いにいく衝動がおさまった。
これには大変助かった。
今でも欠かさずこの漢方薬は飲ませている。
父の死後、3年ほど一人暮らしをしていた母だが、物忘れが進んでしまい、火を取り上げるようにとのお医者様の言葉に同居を決心した。
これぐらいなら大丈夫だろうという考えは捨てるようにとも言われ、その意味が同居してからわかるようになる。
同居してお料理は私がやるようになったが、飲み物を温めようとしてキッチンで火を使う母を見て、部屋でお湯を使えるようにと電気ポットを買った。
ところが、この電気ポットのお湯で火傷をしてしまう。
この時の火傷が結構大変な火傷で治るまでに3ヶ月を要した。
結局、温かい紅茶を予めポットに入れて部屋に置くようにした。
キッチンのコンロをチャイルドロック付きの物にして、ロックをかけて外出しても、チャイルドではない母はロックを外すしでとても困った。
とうとうガスの元栓を閉めて外出するようになる。
それも母には気づかれないようそっと閉めるようにした。
いつそうした私の行為に気付き母が怒り出すかわからないからだ。
何だかドキドキする毎日。
私にも少しずつストレスがたまっていく。
母と同居した当初、母は私たち家族と同居したことを忘れてしまい、夕方になると一人分のご飯を作り出すし、私が買ったものは冷蔵庫や食在庫から勝手に捨てられた。
病気の主人の為に家族とは別に作っていた料理を捨てられた時は辛かった。
同居することがこんなに大変なものかと私は同居して初めて思い知ったのだ。
火傷の治療やら咳喘息、骨折の治療、心房細動の治療の為の入院。
次から次へと母の身に色々なことが起きた。
しかし、当の母は何が起きても終わればケロッと忘れてしまう。
常に一生懸命介護していた私だが、ある時脳神経科のお医者様に言われた。
生真面目な人は介護には向かない。
そういう人は施設で介護をしていてもやめてしまうんだよね。
高田純次で良いんだよ。
この言葉は衝撃だった。
なるほど、高田純次のように適当にしていなければ自分がもたないし、辛い介護になってしまうのか!
私は真っ正面から母にぶつかる介護をやめようと思ったけれど…なかなか自分の性分は変えられず今に至る。
私が母の為にケアマネージャーさんを探したり、デイサービスの施設を探したりと走り回っている間も母は相変わらずボーイフレンドにメールを出したり、会いに行ったりしていた。
デイサービスも自分に合わないとなれば、朝から行きたがらずあっさりやめたりした。
お嬢様育ちで気紛れな母の介護は実に大変だった。
次に続きます
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