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少女な母  ⑤

よく認知症の人に介護者が暴力を奮ってしまうという話を耳にする。

私は自分には関係ないことだと思っていた。

しかし、たった一度私は母を突き飛ばしてしまったことがある。

突き飛ばすというか、母の体を手で押してしまったという感じだろうか。

それは、まだ母の愛犬がこの世にいた頃の話である。

母が飼っていたポメラニアンは老犬になり、心臓病を患っていた。
心臓弁膜症である。

時々発作を起こしては入院することが多くなってきた頃、その犬がベッドから飛び降りた時に足を痛めてしまった。

母は、ただその犬が痛がっていると私たちのところに連れて来たので、事情を聞いて動物病院に車を走らせた。

獣医さんの診断は骨折ではなく、脱臼。

本来であれば手術したいところだが、心臓病を患っている犬に麻酔はかけられない。

その場で獣医さんは、犬の足を持って器用に元の位置に入れてくれた。

ゴッドハンドだと私は感激した。

処置してもらった後、痛み止めの薬や炎症を抑える薬等を処方され、自宅に帰った。
そして獣医さんに言われた通りその犬をゲージの中に入れた。

老犬は、普段は母のベッドに寝ていたのだが、またベッドからジャンプして脱臼するかもしれない。
しばらく安静にする為にもゲージに入れなければならなかった。

母はゲージに入れた犬を見て可哀想と言っていたが、私は可哀想じゃない、今日はこの中に入れておいてねと言って自分の寝室に引き上げた。

本当はその犬を私たちの寝室に連れて行きたかったが、愛犬と離れたくない母には無理な話だった。

翌朝、母の寝室に犬の様子を見に行ったら、犬はゲージの中におらず、ベッドに乗せてあった。

私は、普段から病気になった老犬の世話を母に代わってやっていただけに母のこの行為は許せなかった。

「どうしてこんなことをするのっ!」と言って産まれて初めて母の体をぐいと押してしまった。

一瞬のことで母はわけがわからないといった感じだったが、そんなことをした自分に私自身が一番驚いてしまった。

自分では自分の体を守れない老犬の安全が母によって脅かされる。

再び脱臼したら痛い思いをするのはその犬なのである。

私は老犬が母とずっと一緒にいられるよう何年も心を砕いてきた。

犬の世話は母の為でもあったのに認知症の母にはそんなことはわからないようだった。

母にとって老犬は可愛くて抱っこして歩ける縫いぐるみのような存在であったのだろう。

心臓病の犬に濃い味付けのものはいけないと言われ、母と同居してからは、犬の食事を今までとは変えて、毎食薬も与えていた。

こっそり私たちの目を盗んで犬に自分の食事を分け与える母。

脱臼した犬をゲージから出してしまう母。

ただ、母は犬が喜ぶからそうしただけなのだろう。

認知症なのだから、全うな話が通じるはずもない。

でも、私は暴力を奮ってしまう介護者の気持ちが少しわかるようになってしまった。

何度説明しても永遠にわかってもらえない相手に無駄だと感じていても問われれば、何度でも答え続けなければいけない現実。

一生懸命介護すればするほど、虚しさに包まれていった。

老犬は16歳まで生きてくれたが、私には老犬の介護もとても長く感じた。

       次に続きます

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