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老後の暮らしを精神的に豊かにするために

何か大きく環境が変わるときは不安になる。

つい先日、定年退職したが、やはりいろいろと心配になって、今後のことを考える時間が増えている。老後資金は足りるだろうか、何か生きがいを持たないといけないんじゃないだろうか、などなど、考えても考えても答えは見つからない。(ビールを飲んだり、昼寝をしたりしつつ考えているせいで見つからない、という可能性も完全には否定できない)

そこで、本やネット記事に答えがないか探してみているが、いまひとつしっくりこないのである。

「老後に備えてお金を貯めましょう」
  → もう遅い感じがする。

「余裕のあるお金を投資に回しましょう」
  → ないわ、そんなもん。

「趣味を持ちましょう」
  → めんどくさいわ。

「地域デビューしましょう」
  → 今さら、そんなことしたくないってば。

書いてあることは、いちいちもっともだが、できそうにないことも多いし、まだそんなに頑張らなければいけないのだろうかと嫌になる。読めば読むほど、元気がなくなってくるのである。

気を取り直して読み続けていたら、この本を見つけた。

まず、タイトルが素晴らしい。

退職してからというもの、どうにもならないことを堂々巡りに考えていたから、我ながらバカみたいだった思う。

今の私にピッタリの本だ。

定年はだれにとっても初めての経験である。だが、わたしたちは幼稚園に入るときも、小学校入学もはじめての経験だったではないか。入社もそうだ。幼稚園に入るとき、だれからも入園の心構えやコミュニケーションの取り方など教えてもらわなかった。(中略)
なぜ「定年」のときだけ狼狽えて、先輩たちの経験を読み聞き、専門家の話を聞きたがり、いろいろな情報を知ろうとするのか。むろん、先輩たちの経験や識者の忠告を知るのは悪いことではないが、結局、自分は自分なのである。〝定年後〟だって大丈夫にきまっている。
「定年バカ」勢古 浩爾

心配ごとが、これでもか、これでもかと膨らんできてしまっていて、やたら気が滅入っていた私にとっては、切れ味抜群の言葉の数々が心地よい。

「〝定年後〟だって大丈夫にきまっている」

やたら危機感をあおるような本や記事を読んで辛くなってきたら、この本を読み返して元気をもらうことにしよう。

定年退職後、あれやこれやとグズグズ悩んでいる人に、本当におススメの本だと思う。

 なんとかでき、なんとかなるにきまっている。たかが、定年ではないか。徴兵されて、軍隊に入隊するわけではない。その先に戦地があるわけではない。そう考えれば、なにをしようと、またなにをしなくても、平穏に生きられるだけで夢のようなことではないか。「第二の人生」とか「充実したシニアライフ」などのマスコミ言葉に踊らさせられないことである。「老後資金は大丈夫か」「長生きするには」などの不安を煽るような言葉に過敏に反応しないことである。どいつもこいつも、あなたの人生なんかにはなんの興味もないのだから。もちろん、だれひとり言葉の責任などとるものはいない。
「定年バカ」勢古 浩爾

ロシアによるウクライナへの侵略行為には、本当に胸が痛む。

それに比べれば、老後の心配など取るに足らないに決まっている。老後資金が足りなければ働き、長生きしたいのなら禁煙し、カツ丼を食べる頻度を減らせばよいだけのことだ。もっと心配すべきこと、やるべきことがあるだろうと反省した。

本やネットの記事の中には、適当に思いついたことを並べただけだったり、やたら不安をあおったりと、とても現実の老人に寄り添っているとは思えないものがたくさんある。勢古浩爾さんが指摘するとおり、そんな記事を書いている人たちは、本の売れ行きや記事のページビューが気になるだけで、私たち一人ひとりの生身の人生には、なんの興味もないだろう。

そんな記事に一喜一憂する必要はない。「ふーん」ぐらいに読んで、過敏に反応しないよう注意しなければならない。

また、年を取ったら生きがいを持て、とも言われる。たしかに、現役時代は仕事に追われて、そんなには充実していなかった。それゆえに、退職して自由になったら、もっと生きがいのある老後にしたいという思いが強くなったのは事実だ。

しかし、「充実」させるのは、決して簡単なことではない。

定年になったら「~したい」と思う。それが意味になる。若いときは大きな意味を目指したがるが、歳をとってからは小さな意味で十分である(もちろん大きな意味を目指してもいい)。意味に大小はあっても、上下はない。定年になって、ほどほど満足な暮らしをし、おれはこれでいいな、と思ったら、それはすでに意味である。千人いれば千の意味があり、ひとつとしておなじものはない。個性というものがあるなら、それが個性である。この意味さえあれば、なにをしようがしまいが、大丈夫である。その意味を大切にして、定年後など、好きにすればいいのである。
「定年バカ」勢古 浩爾

「~したい」という「その意味を大切にして、定年後など、好きにすればいいのである」

この言葉もいいな。

でも、よくよく考えてみると、若い人だって、好きにすればいいのである。会社に勤めていたら好きにできないと思われてしまうかもしれないが、それぞれの制約の中で、好きにする方法はどこかにあるはずだ。

こんな私でさえ、会社で発信していたブログに好きなことを、しっかり混ぜていたのだから。

「充実した暮らし」は人さまざまであろう。だから、当人が、これでいいよといえば、だれがなにをいおうと、それが「充実した暮らし」である。その暮らしになにを詰め込むか、詰め込まないかは、あくまでも自分で決めることである。
「定年バカ」勢古 浩爾

誰にも指示されず(妻を除く)、誰にも束縛されない、この暮らしはなかなか心地いい。

退職して間もない今は、思いだしたようにnoteを書き、そばに寄ってきた猫を撫でている。

やっぱり、じじいだな。

どうしても、なにかをしている人は生き生きしているように見えるのであり、なにもしていない人は半分死んでいるように見える。ギターを弾いているおじさんはカッコよく、公園に座っているおじさんは もう勝負にもならないのである。それはもうしようがない。素直に認める。だが、公園のおじさんは、 カッコいいおじさんなんか目指さなくていいのである。
「定年バカ」勢古 浩爾

私は公園のおじさんではなく、引きこもりのおじさんだ。っていうか、じじいだ。はたからみれば、公園のおじさんより動きが少ない分、より死んでいるように見えるだろう。

でも、カッコいいおじさんなんか目指さなくていいんですよね。

どんな地位にあっても、心のどこかに自分は「ただの人」だという自覚をもっていない人を、わたしは好きではない。そういう人とつきあうのはごめんである。
「定年バカ」勢古 浩爾

激しく同意。

私は、今でこそ「ただの人」だが、何を隠そう、在職中も「ただの人」だった。

だが、「ただの人」にも夢がある。これから「なにを詰め込むか、詰め込まないか」を考えていくのは、楽しみでしょうがない。

…ちなみに、今日はおやつには、みたらし団子を「詰め込む」予定です。今から西友に買いに行ってきます。

それでは皆さん、ステキな一日を!

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