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「花束みたいに恋をした」からは誰も逃げられない

「花束みたいな恋をした」という映画を見た。

タイトルからして見なさそう。
主演が菅田将暉と有村架純でますます見なさそうだし、

こんなキービジュアルを見るまでもなく、わたしくらいになると「hana-koi」というURLだけで避けられる


それなのになぜ見たのかというと、最近話題の書「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」を読もうと思ったんですよ。


著書は書評家・三宅香帆さんという方なのだけど、わたしはこの方を「花束みたいな恋をした芸人」だと認識している。

三宅香帆さんとはTwitter的なところでいわゆる「FF」の関係にあるだけで全く面識も接点もないのだけど、とにかくしょっちゅう「花束みたいな恋をした」の話をしているイメージ。
わたしが映画の存在を知ったのも、三宅さんが言ってたから。

もっといえば「花束みたいな恋をした」の「麦くん」の話をしている。
「麦くん」は、本とか映画とかが好きだったのに就職したら死んだ目でパズドラするしかできなくなった人だ。
わたしもそれだけ知ってる。


そして最近出た著書「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」の中でも三宅さんは「花束みたいな恋をした」の引用をしており、発売に際して著書関連の記事、インタビューなどでもまた「花束みたいに恋をした」と「麦くん」の話が流れてくるし、それどころかこう言っている。

麦くんに本を読んでほしくてこの本を書いた、と。

麦くんは三宅さんの初恋の人かなんか?


とにかく、まずはこの映画を見ないことには始まらなそうなので、重い腰をあげてこの映画を見ることにする。
脚本は坂元裕二だったので少しはやる気が出た。


今回はネタバレあり・なしの感想に分けません。
最初から結末を含むネタバレありの感想になります。
映画を見ようか迷っている方は是非先にご覧ください。


ネタバレされたからどうって映画でもないので、「初見の自分の感想が何よりも楽しみ」というタイプの人以外はそんなに気にしなくてもいいかもしれないけど、見てる前提で話はします。

有料記事になってますが、作品全体の感想部分は課金なしで読めます。


※リンクには広告を含みます


「花束みたいな恋をした」からは逃げられない

https://twitter.com/hana_koi_jp

サブカル大学生の麦くん(菅田将暉)とサブカル大学生の絹ちゃん(有村架純)が出会い、趣味や価値観の一致で恋に落ち、同棲を始める。
やがて大学を卒業し、就職活動、社会人、夢、現実、環境が変わっていく中で、ふたりの関係にも変化が生じてくる

っていうような話。


先に言っとくとわたしはこの映画全然ささりませんでした。
ありきたりなカップルの一部始終を見せられてるだけ。
想像の域を出ない青春恋愛映画。
ただただ退屈だった。

その「ありきたりなカップルの一部始終を見せられるだけ」というのが、どうも作品のひとつの価値ではあるっぽい。
特別なことが起こらないからこそ、彼らにしかできないことをしないからこそ、恋愛作品がうける大事な要素である「共感」を呼ぶのだろう。

学生時代の恋愛、あの年だからこその恋愛。
そういう、取り戻せないものを思い出させてくれるのだろう。
思い出す過去がないのでわたしには分かりませんが。


サブカルまわりも、今となっては刺さりもせず、かといって羞恥に苛まれるというほどでもなく…
もうこの作品のターゲットじゃない、年を取りすぎたというのが答えになってしまうのは悲しいのですが、見た年齢によってはこれが刺さって抜けなくなっていたりしたのかな、とは考える。

あの固有名詞がバンバン出てくる感じを、麦くんたちの年齢のわたしだったら、共感したかな、逆張り全開なお年頃だから反発してそうな気もするけど。

それよりもっと若かったら面白いと思ったかな。
「自分のための映画」みたいな気持ちになって、今の年になっても手の届く範囲に「花束みたいに恋をした」を並べていたかもな。

20代後半で見てたらすげーイライラしてそう。
何も特別じゃない彼らが特別な顔してることに物申してそう。
この時期に見なくてよかった。


この映画、感想を見ていると、人によって見ているところが違うのが結構興味深い。
賛否両論っていうんじゃなくて、見てるもの自体が違うっていう。

学生時代の恋愛を思い出して共感100%っていうような、恋愛映画としての高評価も結構多い。
それこそ社会人麦くんと自分を重ね合わせてる人もいるし、ハッピーエンドじゃないから低評価っていうのもあったし、サブカルが刺さった人、刺さらなかった人、恥ずかしくて見てられんという人、様々。

そして「ひとりの人間」の中でも、きっと触れる時期、年齢によって、違うものが見えてくるんだろうなと思う。


わたしはどうだろうと思うと、細部に思うところは変わっても、全体的な感想はあんまり変わらない気はする。

それでも、これを見たのが18歳だったら話は違っただろう。
水曜日、通学の総武線。
降りるべき駅を通過し、代々木で山手線に乗り換え、渋谷のシネアミューズあたりで1000円支払って見ていたとしたら。

同じように「退屈」と感じたかもしれないけど、18歳は「退屈」を「退屈」として受諾できる。

「退屈」を経験として自分の本棚に並べられる。
「あの映画本当に退屈だったよ」と語ること自体に価値がある。
授業に出ずに映画館に行き、自分の感想を持つことそれすら誇らしい。

約20年経った今はそうじゃない。
退屈な時間に退屈以上の評価はない。

わたしはこの映画を見えるところには並べないし、話題の映画を見て退屈だと思ったことに優位性を感じたりはしない。


こんなことを考えながら視聴していて、気がついたときにはもう遅かった。


ってこれ、「花束みたいな恋をした」やんけ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


「花束みたいな恋をした」してるやんけ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


最後まで見て、絶望していた。

わたしはいったい何を考えていたのだ。
膝から崩れ落ちる思いだった。
エンドロールの記憶がまったくない。


若さゆえの選民思想、モラトリアムの余裕、それに気がついていないこと、気がついてしまうこと。


「それって花束みたいな恋をしたってことじゃないんですか!!!!!!!!!!!!!!!!!!」


って何故かずっと脳内で原宿さん(オモコロ編集長)が大声で言ってくる。
何故原宿さんなのかは分からない。

noteは文字を大きくできないから見出し機能を犠牲にしなければならないが、それでも大声で言わざるを得ない。


「花束みたいな恋をした」はわたしに何も与えない、取るに足らない映画であると言おうとしたら、「花束みたいに恋をした」の本質を語らされていた。

ありのまま今起こったことを話すぜ…
と語り始めたいほどには頭がどうにかなりそうだった。
こんなひどい目にあったことない。


恋愛に共感して泣いた人も、麦くんを救いたい人も、これを見て何も感じなかった人も、等しく皆「花束みたいに恋をした」の一端を担わされている。

わたしたちは「花束みたいな恋をした」から逃れることはできない。

わたしが言いたいのはそれだけです。
ありがとうございました。


誰もが「音楽好きじゃないねおじさん」である

https://twitter.com/hana_koi_jp

これサブカルに関しても同様で、サブカル学生のふたりにシンパシーを覚えても、ファッションサブカルうんこカップルうぜえと思っても、どっちも結論は「花束みたいに恋をした」なんですよね…

どちらにしても作品の肯定になってしまう。
怖すぎる、この包囲網。
アリアハンでアバカム覚えた人用のテキストを用意していた堀井雄二か。


わたしはこの二人をどう思うかというと、出てくる固有名詞は刺さらないし、世代的な差もあるのでシンパシーはない。
だからといって「何者にもなれないうわべだけの浅はかな若者」と評しようとも思わない。
みんなそんなもんじゃない?と思うくらい。

それでもやっぱり悲しいもので、このふたりをどう評価すべきかと冒頭から品定めするように見てしまう。

まず、菅田将暉と有村架純っていう時点で真正面から見られないわけじゃん、我々のような「持たざる」者は。
その上、麦くんは大学に居場所があって、絹ちゃんは人数合わせでも西麻布のカラオケに見えないカラオケ屋に呼ばれるような人で、彼らは「持たざる」側じゃないってことは最初からわかる。
異性と付き合うのも二人とも初めてじゃない。
何も持たず、カルチャーに縋るしか生きるすべを知らぬオタクとは違う。

だからああいう者たちを見ると人は「ファッションオタク」の烙印を押したがる。
そうであってくれという願望9割で。

わたしはこの人たちが「本物」か「ファッション」かなんてさほど興味はありません。
何故なら大人だから。

いくつになってもネット見てたら、このオタクうぜえとか、なんとなく自分の方が本当に好きだがみたいな気持ちにはなりますよ。
感情としては生まれるけど、明らかに自分よりも詳しくて通ってて金使ってるような人に対してもそういう感情って起こるから、そんなのなんでもないただの感情なんだって知ってる。
何かをジャッジするものじゃないし、口に出すようなことじゃない。
ただの感情。
同担拒否的なやつな。

そもそもこの二人ってちゃんと映画見たり本読んだり展覧会に足を運んだりしてるからね。
実態が伴ってない本気のファッション野郎も世の中にはいるんだろうけど、実際に漫画を読みゲームをやり音楽を聴いている彼らを何をもって本物かどうかを判断するんだって話だし、それをするとじゃあ自分はどうなんだって話になる。
自分と彼らを明確に分けるものはあるだろうか。
自分は人から見たら彼らと何か違って見えるだろうか。

彼らの選民思想を指摘することが自らのその思想の存在をあらわにするという、悪魔の構造だよ、この映画は。


そんなふうに自分はもうそこから「降りてる」ような顔はしているが、でも私はこの二人のことは最初っから好きじゃないよ。
だってこいつらは天竺鼠の単独ライブに行かないからね!!!!!
クソが。


天竺鼠のワンマンライブに行かない人たち

「単独ライブ」じゃなくて「ワンマンライブ」と言っている時点で、お笑いファンではないことは明確である。
しかしそんなことはどうだっていい。
単独かワンマンかにこだわるキモオタよりも、テレビ見て面白かったからあんまり知らないけど軽率にチケット買ってみた行動力あるわたし可愛いっていう人の方が演者にとっては素敵なファンだろう。

だけどルミネの単独ライブを「うっかり忘れていた」から行かないっていう感覚は本気で理解できない。

無限大とかで夜9時くらいから1時間くらい若手芸人がおしゃべりするだけのやつとかじゃないんだよ。
「ルミネtheよしもとの単独ライブ」なの。
武道館の誰かのワンマンライブのチケット取ってて「うっかりしてて行かなかったんですよ~」とかあるか?
あったとしてもカジュアルに人に言えるか?
感覚はそれに近い。

「これは今日二人が出会うためのチケットだったんですね」
じゃないよそれは
「天竺鼠の単独ライブのチケット」だろうが殺すぞ。


こんなしょうもない人たちのせいでふたつも空席ができるのとかやってられんし、ライブの日にち間違えてたとか、考えただけで青くならないか。
ネットとかで知らん人が「ライブ昨日だった…」とか言ってるの見るだけでもきつい。
自分でも直前まで日にち勘違いしてたとか、開始時間間違えてて焦ったとか、ダブルブッキングしたとか、寝過ごしそうになったとか、そういう肝が冷えた経験を思い出すだけでゾッとするんだが。


絹ちゃんはまだいいんですよ。
絹ちゃんはサブカル女である前に恋愛女なので、天竺鼠よりもワンチャンありそうな男を取った。
意思をもってそれを選択してる。
それがいいか悪いか好きか嫌いかというのはまた別の話で、絹ちゃんという人間の筋がある。

そもそも飛田給に住んでて新宿のルミネ行くのに表参道でライブまでの時間を潰すなよと思うし、何より絹ちゃんはずっと「てんじゅくねずみ」って言ってるから。

麦くんはカジュアルに忘れてるのでただ印象が悪い。


実写版魔女の宅急便を見下す人たち

天竺鼠の話はお笑い好きな人以外はそこまでピンとこないかもしれないけど、冒頭にもうひとつあるのが「神」の話。

終電を逃して入った店に押井守(本人)がいるのを発見した麦くん。
「神がいます」と興奮を抑えきれない様子。
しかし一緒にいる「俺結構マニアックな映画見るよ、ショーシャンクの空」「一番最近見た映画は実写版魔女の宅急便」という人たちには通じない。

そこで「押井守ですよ」「攻殻機動隊の」とか「ビューティフルドリーマーの」とか言って「知らない」「聞いたこともない」となるなら、おいおいショーシャンクたちよ、と言ってもいい。
「好き嫌いは別として押井守を認知してることは広く一般常識であるべきです!」と麦くんに応戦したっていい。

でもネクスト麦くん’sヒントは「犬が好き」「立ち食いソバも好き」。
めんどくさすぎる。

押井守を知っていたって、作品を見たことあったって、顔を知らない人は多いと思うよ。
犬と立ち食いソバが好きとか知るかよ。
名前や作品をダイレクトに言わないにしても、パーソナルうんちくじゃなくて作品の特徴とか言いなさいよ、神だと思ってるんなら。

麦くんクソクソスーパーうっとうしいマウントオタクムーブすぎて、ショーシャンクも麦くんもどっちも無理。
わたしが絹ちゃんならひとりでカラオケ屋に見えるカラオケ屋で始発待ちます。

「ショーシャンクの空に」は言うまでもなくめちゃくちゃ名画です


実写版魔女の宅急便はわたしも見ていないので、ここの反論はできなくてすみません。気が向いたら見ます。


てんじゅくねずみの絹ちゃんと、サブカルオタクの選民思想丸出しの麦くん。
これは無理。


(そのあとの「押井守いましたね!」っていうやりとり、ドラマのカルテットでも「あしたのジョーの帽子でしたね!」っていう同じようなセリフのシーンがあるんですよね。
カルテットは純粋にはしゃいでるシーンに見えて、こっちはちゃんと腹立つからすごい)


そんな感じで、彼らの「程度」を冒頭から親切すぎるほどに教えておいてくれてしまう。
わたしはそこのジャッジは必要ないよと言ってるのに、あえて嫌わせてくるんだからかなり脚本の意地が悪い。
気づくか気づかないかくらいの「てんじゅくねずみ」とかめちゃめちゃ悪い顔して書いたりディレクションしたりしてる。
悪い大人たちだ。

天竺鼠や押井守にはピンとこなかった、ここではとくにひっかからなかったという人もいると思う。
でもそれはさほど問題じゃない。

結局、最初っから「音楽好きじゃないねおじさん」なのか、「音楽好きじゃないねおじさん」の指摘で気づくか、ファミレスで若いカップルを見て気づくか、そのタイミングの違いだけだから。
最後は平等に、麦くんも絹ちゃんも、みんな立派な「音楽好きじゃないねおじさん」になりますから。

逃げられないんで、「花束みたいな恋をした」からは。


という話でした。
後半は、

  • 麦くんと絹ちゃんがかわいそうになってきた

  • 麦くんと絹ちゃんの違いは何か

  • 麦くんは本を読むのか

  • 花束みたいとは

そんなことをぶつぶつ言います。
単体購入もできますが、同じ値段で過去の記事も読めるメンバーシップが大変お得です。

有料部分は普段言いにくいことも言うので、感想はいくら言ってもいいけど引用やスクショはやめてください。


麦くんと絹ちゃんに味方はいないのか

さっきの続きだけど、最初は「ワンマンライブ」っていうのとか、ルミネの単独に行かないとか、制作側の認識の浅さか?と思った。
でも物語を進めていくとこれが二人の「程度」なんだってわかる。

そう思うと、最初からそれを「露わ」にするのって、結構ふたりにとっては意地が悪いなぁと、あとから思った。

サブカル好きな人たちは絶対にこの二人が本当にサブカル好きなのかを見定めようとするはずで、ちょっと意地悪な目線で二人のことを見るはずで、そこに親切すぎるような気はする。

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