見出し画像

文章教室に通ったら、もやもやがステキで弱さは強みだったこと。

「接続詞は基本的にいりません」
そして、に朱で二重線。
「この文は2行前と同じ内容を説明しているだけですね。消しましょう」
ペンが勢いよく下へ走る。
「この段落はほとんど効果がないです」
ガッ、ガッと紙を掻く音。大きなバツ。
「よくはなりましたが、まだ取材先の魅力に踏み込めていません。都村さんの心がどこに動いたのかもう一度じっくり考えてみて。あと、タイトルも」

空になったコンビニのコーヒーカップを置き、先生は静かに壁の時計を見上げる。
「もうこんな時間ですか」
ロの字型に座った生徒たちもつられるようにして顔を上げた。
「では、今日はこのへんで」
ほんの一瞬言葉の続きがないのを待って、筆記具をしまい出す。カチャカチャという物音が教室の緊張をもとに戻していった。手元のインタビュー原稿はびっしりと赤い文字で埋め尽くされている。修正というより書き直し、いや考え直しだ。泡と消えた1000字についため息が出そうになって、視界から払いのけるように鞄に突っ込だ。


通っていた文章教室は長文に特化したゼミ形式の講座だった。半年間で、レビュー、ルポ、インタビュー、エッセイと4つの課題が出される。月に約2回、小さなオフィスビルの事務所兼教室に原稿を持ち寄り、先生に添削してもらう。

文章力には自信があった。大学は文学部だし、ネットで小説を書いていたこともある。会社ではエッセイや取材記事の執筆を任せてもらっている。


「これでは作品のよさが表現できていません」

レビューを初めて提出した日、先生がバッサリと放った言葉に打ちのめされた。取り上げたのは劇団スカッシュ『クソみたいな俺の刺激的な呪い』(2018年)。YouTubeに公開されている短編映画だ。



「自分の視点を入れるように」というアドバイスをもとに、作家を目指す主人公ヨウちゃんに小説を書いていた頃の自分を重ねた。評価がついてこない不安、誰かと比べて込みあげてくる焦り、なんでもネタにしてしまういやしさと割り切れない情けなさ……。観ているときに蘇ってきた気持ちを、自分のエピソードと一緒に吐き出した。これまでも弱い一面やかくしておきたい感情をテーマに書くことが多かった。抱えているだけなら「イタい」と揶揄される感情も、文章に乗せればひとつの作品として共感してもらえる。書くことは、私が何を感じどう生きているかを認めてもらう方法だった。

「自分の視点を入れることは、自分のフィールドに作品を持ってくることではありません」

胸がずんと押しつぶされる。

先生の言う通りだった。ひとりよがりな自分語りでは作品を観たいとは思ってもらえない。それ以前に最後まで目を通してもらうのも難しいだろう。これまでは身内だから読んでもらえたけど、ライターとしてはやっていけない。

読んでもらうためにどう書くかを学ばなければ。

強くペンを握りしめ、覚悟を決める。指摘されたことから目を逸らさない。たとえ不完全燃焼でも恥ずかしがらずに提出し続ける。お金を払って手に入れた、どんな出来でも読んでもらえる6ヶ月なのだから。


原稿はリライトし次の授業で再度提出する。そこでまた添削を受け、リライト。”作品”と呼べるレベルになるまでブラッシュアップを繰り返す。何時間もかけて生み出した表現に打消し線を引くときの気持ちは、子どもの頃から大事にしていたぬいぐるみをゴミ袋に入れる瞬間と同じくらい苦しい。だけどそのこだわりのせいで、本当に伝えたいことがぼやけてしまうのであれば意味がない。迷ったときは自分らしさは封印。とにかく先生のやり方を採用した。

提出とリライトを5、6回も繰り返すと、引っかかるところのないなめらかな文章になる。すべての言葉が役割を持っていて、さらりと読めるのに情報はたっぷり。よくなっているのが自分でもはっきりとわかる。


一方で、これでよかったのかなと不安もある。ここまで直したらもう先生の作品なんじゃないか。題材を選んだのも、いらないと判断されたところにはめ込む要素を考えたのも私。だけど、真っ赤に塗り替えられた元の原稿を眺めていると、ボツにした言葉と一緒に何か大事なものも捨てているような気がする。

秋に開講したときは8人いた生徒が、年明けには5人になった。残っている生徒たちだって、私と同じくらい添削されている。彼らも葛藤しながらパソコンと向き合っているのだろうか。


「よかったら、このあと飲みに行きませんか?」

地上へと降りていく小さなエレベーター。声は振り絞った勇気で少し震えていた。これまでも先生の計らいで授業終わりに飲みいくことはあったが、生徒だけで集まったことはない。お酒が飲めない人も多く、断られる準備をしていただけに「いいですね、行きましょう」と快い返事に思わず泣きそうになった。


商店街の小さな中華屋に入る。厨房から出てきたお母さんに目についたものを片っ端から頼んで、ビールと烏龍茶で乾杯。

「〇〇さんのエッセイ、めっちゃ面白かったです」

ジョッキを置いて、ひとりが笑う。

「わかる!添削するときに先生が読み上げるだけで笑いそうになる」

「私も!」

すぐに他のメンバーも続く。授業で求められるのとは違う、ひとりの読者としての感想を素直に言い合うのはちょっとくすぐったくて新鮮だった。

「エッセイだけじゃなくて、ルポもユーモアがありますよね」

みんながうん、うんと大きくうなずく。褒められた彼女は照れくさそうだ。

「それでいえば、△△さんの文章はいつも対象への愛があふれてて、好きなのがめっちゃ伝わるんですよね」

「□□さんの文章は全部やさしい。ぽっとあったかいんですよ」

こうして話してみると、同じ先生に添削された文章でもその人その人のにおいがちゃんと染み込んでいるんだなと気づく。たしかに他の人の作品はどれだけ言葉の流れや伝えたいことが変わっても、最初にまとっていた雰囲気はそのまま残っている。じゃあ、私の文章にも私だけのにおいがあるのかな。

「都村さんの文章は、強いです」

「強い…?」

予想外の形容詞に意味を計りかねる。とっさにレビューの講評が頭をよぎる。自分の視点を入れることと、作品を自分のフィールドに持ってくることは違う。やはりまだ自分を強く出しすぎているのだろうか。

「良い意味で、ですよ!」

表情に出ていたのか、彼女はすぐに付け足した。

「なんて言ったらいいかわからないけど、何を書いてもやっぱり強いんですよね、なんか」

いつもふんだんな語彙で表現している人が一生懸命ふさわしい言葉を探す姿に、お世辞でないことは伝わった。〝強い〟の正体はわからないけれど、どうやら私の文章にも個性は残っているらしい。ジョッキの底に薄く溜まったビールをぐっと呷る。胸でわだかまっていたものも一緒に流れ落ちていった。


「これで、このコースの授業は終わりです」

先生が顔を上げ、いつものような軽さで告げた。原稿の束を整えながら、ふうと深く息を吐く。4つの課題うち3本を卒業文集に載せることが決まった。打ちのめされたレビューもなんとか形になった。安堵と達成感がないまぜになってはずんでいる。

「一応、卒業証書を用意しました」

机を片していたみんなの手が止まる。正式な専門学校ではないから、特製の卒業証書だ。小さなサプライズに本当に最後なんだと実感が湧いてくる。

ひとりずつ名前を呼ばれて、先生からのメッセージと一緒に手渡される。ともに乗り越えた仲間に感謝とねぎらいをたっぷり込めて拍手を送った。

そして、私の番。

「都村さんの文章にはステキな生き方が見え隠れしています」

恥ずかしくて床に落としていた視線を上げ、先生の顔を見つめる。そんなふうに言われたのは初めてで、本当に自分に向けられたのか戸惑ってしまう。よくわからないままぺこりと頭を下げ、手のひらサイズの証書を受け取る。印刷された文字には確かに「ステキな生き方」と書いてあった。


レビューの指摘を受けたあと、なぜこの映画を取り上げたいと思ったのか、なぜそこまで惹かれるのか、考えながら何度も何度も見返した。アイディアが浮かばず浴槽で追い詰められるシーン、登場人物たちのちょっとへんてこなエピソード、奮い立たされるような主題歌……魅力はたくさんあったけど、やっぱり結末が好きだった。書くことに悩み苦しむ人たちをほんの少し救ってくれるラスト。主人公への共感は残しつつ、強烈なインパクトの奥のやさしさに触れたレビューに仕上げた。

先生は私の吐き出したもやもやした感情を「ステキな生き方」として捉えてくれていた。リライトを重ねながら、それが個性になる距離感をつかませようとしていたんだと思う。

心の内側をさらけだすのはとても勇気がいる。思い出すだけで苦しいことだって、しっくりくる言葉が見つからないことだっていっぱいある。その代わり、読んでくれた誰かの生き方に訴えられる「強さ」も秘めている。

ガタッと音を立てエレベーターの扉が開く。ロビーのドアを開けるとほんのりと春のにおいを含んだ風が頬を撫でいった。

あとは、もっともっとステキに生きていけばいい。おのずと文章も輝くはずだから。

駅へと続く河川敷は桜の靄に包まれている。はじめてここに来たときよりも、世界はすっきりとして見えた。


頂いたサポートは書籍代に充てさせていただき、今後の発信で還元いたします。