見出し画像

街コンとLINE代わりの名刺とカレーうどん(短編連作『今日も今日とて私を生きる』)

 彼がテーブルにつくなりひとりでメニューを開いて選び始めた瞬間、もう彩に気持ちはないのだと悟った。付き合いたての頃は必ず真ん中に広げて、ふたりで読めるようにしてくれたものだ。そろそろ潮時かと思っていたら、そのまま駅の改札の前でフラれた。

 関係が終わることはもはやどうでもよい。終止符がなぜデートの直後なのか。好意もないのにギリギリまで甘い蜜を吸って、ムードもへったくれもない公共の場で別れ話を持ち出してくるなんて、本当に卑怯でろくでもない男だった。

 無駄にした9か月を返せ、もしくは責任を取れ。文句はいくらでも出てくるが、感傷に浸っている余裕はない。先月ついに30歳を迎えた。


 「仕事が好きなら、恋愛はタイミングに任せておけばいいんじゃない?」

 幼馴染に相談したらあっさり返された。

 

 どうして仕事と恋愛のどちらかは頑張らなきゃいけないのか。

 彩は別に出世したいわけでも、楽しさを見出しているわけでもない。家に帰りたくないがために残業し、せめて会社では好かれたいと配った差し入れをこっそり経費で落とそうとする上司たちにコーヒーをサーブする時間のどこにやりがいを感じろというのだ。8年働いて、昇給どころか税金ばかり増える。このまま40年も50年も生きられる気がしない。

 かといって、パートナーがいなければさみしくてたまらないわけでもない。取りたてて趣味もないけれど、どれだけ動画で時間を食いつぶそうと、不摂生な食事で済ませようと、だれにも責められないひとり暮らしは気ままでいい。

 だけど周りはそれじゃ許してくれない。行き遅れのくせにキャリアがいまいちな女だとかなんとか評されるくらいなら、早いこと経済力のある相手を見つけて一旦かくまわれたいとは思う。



 「彩ちゃんっていうんだーかわいい名前じゃーん!」
 「あやちゃーん!」


 座敷席の向かいの男がふたり、バカでかい声量で叫んで、テーブルに置いたままの彩のハイボールにジョッキをぶつけてきた。隣の女の子にも名前を聞いて、乾杯を繰り出す。

 右端に座ったもうひとりの男はバカ騒ぎには加わらないものの、だれにも咎められない絶妙な塩梅の笑みを貼りつけて、机の何もないスペースに視線を落としていた。


 「あれ?もうひとりの子は?」


 ひとつ空いた女子側の席を見て騒いでいた男のひとりが聞く。


 「遅刻してくるそうです」


 彩が答えると何がうれしいのか、男ふたりはまたジョッキをかち合わせた。


 同期のひとみに誘われ久々に街コンに参加したが、肝心のひとみからは開始5分前に『ごめん、遅れる』と連絡がきた。男たちのはしゃぎようを見ると、これも彼女の戦略なのだろう。相手を焦らし、期待値が高まったところに登場。他の女性に埋もれず、視線を集めることができる。傷心の友人の背中を押してくれているのだと信じた自分がバカみたいだ。

 ぐっとハイボールを飲み干す。氷が解けきりほとんど水に等しい液体はわずかにスモーキーな香りだけを残した。店員呼び出しのボタンを押す。


 「ところでさ、彼氏いない歴何年?まず彩ちゃんからー」


 真ん中の男が扇子の先を向けてくる。初っ端からサブい質問を投げてくるそのセンス、どうにかならないのか、扇子だけに。

 2週館前に別れたばかりだと答えると、傷心じゃん、何年付き合ったのって聞かれて、9か月と答えたら明らかに軽い女だと思われた。

 隣の子はまだ付き合ったことないと答えて、ちょっと場が静まって、いや、いい雰囲気の人はいたんですけどねと付け足して、いいじゃんと謎の相槌があって、ただただ正解を見失った5分を過ごした。


 ハイボールが入っていたジョッキにそのままデキャンタのビールを注ぐ。泡は力なく水面に浮かび、すっかりぬるくなっている。一気に飲んだら苦みだけが胃に充満した。


 「じゃあさ、好きなタイプ教えてよー」


 肘を机に突き、前のめりになった左端の男の薬指に光るものを見つけた。男の方が高い金額を払っているから遊んでもいいと本気で思っているのか。そういう気持ちがこちらの2000円を無駄にするのだ。


 右端に座る男はにこやかに傍観に徹している。目立たないようにしているが、有名俳優を思わせる高い鼻、切れ長の目、白い肌。チープな居酒屋に不釣り合いなイケメン。他のテーブルの女子たちはすでに彼にロックオンしている。

 騙されるな、と彩は心の中だけで注意喚起をする。彼は運営側が用意したサクラだ。受付開始の1時間前に会場に着いたら、店先でスタッフの男と何やら話し込んでいた。噂には聞いていたが、本当に仕込んでいたとは。やるならせめてばれないようにやってほしい。


 15分ほど話すと、席替えタイム。男性が3人ずつ隣のテーブルへずれていく。彩にはだれひとりまともに社会生活を送っているように見えない。

 せめておいしい夕食代として元を取りたいのに、出てくるのはお通しのせんべいにギトギトのからあげ、べちゃべちゃのフライドポテト、カチカチのコロッケ、ぼそぼそのたらこパスタ。アルコールメニューはぬるくなったデキャンタのビールとほとんど水みたいなカルピスサワー、ハイボールだけはなんとか飲める。つまらない時間を押しやるように、ジョッキをあおる。


 「大丈夫ですか?」


 立つとぐらりと体が傾いた。隣の席の女の子が心配するのを振り払い、ハンカチとスマホを持って部屋を出る。


 お手洗いの表示を見つけ、廊下を進む。まっすぐ歩いているつもりなのに肩が壁に擦れる。喉が渇いて仕方ない。向かい合わせに2枚の扉。両方締まっていて、ノブの上に使用中の文字。しばらく待つが、どちらも開く気配がない。しびれを切らして、ドアをドンドンと叩く。


 「すみませーん。まだですか?」


 奥から物音はする。もう一度ノックする。


 「大丈夫ですか?体調とか悪いんで」


 ゆるりと扉が開いて、一気に血の気が引いた。


 「そっちこそ、大丈夫ですか」


 ドアの隙間から怪訝そうに男が出てきた。はっとして扉の上の看板を確認する。ノックしていたのは男子トイレだった。


 「え、あ、間違えました。すみません」


 どっと汗が噴き出してくる。耳がかゆいほどに熱い。消え入りたくなるような羞恥心にパニックになっていると、ようやく後ろで女子トイレの扉が開いた。見知らぬ女性がこちらを気にするでもなく出ていく。彩はもう一度男に頭を下げてトイレに逃げ込んだ。


 お手洗いの看板はどちらも木製で、赤みがかった茶色だった。人間の形を表面の凹凸でかたどっていて、色は塗られていない。よくマークを確認せず、暖色系の色味に惑わされたのだろう。

 恥ずかしさと申し訳なさでほとんど顔を見られなかったが、相手の男性は街コン会場にいたはずだ。まだ同席はしていない。これから15分顔を合わせねばならないと思うと気が重い。

 今日はもう帰ろうか。最悪な一日はさっさと終わらせた方がいい。手を洗い、ふうと息を吐いて扉を開ける。顔を上げて、思わずひゃっと小さく悲鳴が出た。


 「大丈夫ですか」


 先ほどトイレから出てきた男がまだ立っていた。


 「だいぶ酔っていたみたいなので」


 悲鳴を上げられたことに気づいていないのか、無表情のまま淡々と言う。心配しているようにも深刻にとらえているようにも見えないが、彩の様子を気遣って待っていたらしい。なかったことにしてくれ、忘れさせてくれと泣きたくなるのをこらえ、すみませんと謝る。


 「今日は引き上げた方がいいんじゃないですか」
 「そうですよね。そのつもりです」
 「俺も、もう帰ろうかなって、思ってたんで」


 どうやら男の方も彩を街コンの参加者と認めていたらしい。彼の白いシャツを追いかけ、座敷に上がるといつの間にかひとみが席に収まっていた。



 「彩、大丈夫?」


 いつもより甘く聞こえる声色に辟易しながらショルダーバッグを手に取る。


 「ごめん、今日は帰るわ」



 この間に席替えが行われたらしく、向かいの席の名前も知らない男たちが「えー!」とどこまで本気かわからないブーイングを上げる。



 「酔っぱらっちゃった?」


 保護者みたっぷりに聞いてくる真ん中の男に愛想笑いで返す。

 視界の端で先ほどの男が部屋を出ていく。それこそまるでお手洗いに立つみたいに自然に。

 「さびしー」「送っていこうかー」口々に引き止める男たちに丁寧に対応し、抜け駆けしていると思われないようタイミングをずらしてその場を後にする。

 自動ドアを抜けると夏の甘い夜風が火照った頬を撫でていった。すうっと酔いがさめていく感じがする。


 「よかったですか。気になる人とか」


 店先の看板の横でスマホをいじりながら先ほどの男が聞いた。どちらからともなく駅の方角へ歩き出し、連れ立って帰る流れになった。


 「全然。こういうところ向いてないなってわかりました」
 「そうですか」


 会話はぷつりと途切れて、黙って飲食店が並ぶ繁華街を遅いペースで歩く。隣に並ぶのはなんとなくはばかられて、2、3歩後ろをついていく。飲み屋街だが、まだ早い時間だからか声量のリミッターが外れた酔っ払いは見当たらない。

 居酒屋やスナックの派手なネオンがアスファルトを光らせる。焼き鳥のたれが焦げる甘辛い香り、さっくりと音が聞こえてきそうな天ぷらの揚がるにおい、もくもくと上がる肉の成分を閉じ込めた白い煙、磯を感じるむんわりとした冷気……。少し前までの飽満感が嘘のように、店の前を通るたびに唾液が溢れてくる。



 「なんかうまいもん食べたいな」


 前を行く背中からぽつりと聞こえる。崩れた敬語が彼の心からそのまま出た言葉だと物語っていた。彩が心の中でつぶやくのと同時だったので、思わず笑ってしまう。



 「お通しにせんべいはないですよね」


 男はゆっくりと振り返り、苦く笑った。唇の陰に隠れたほくろが薄闇にあらわになるのが妙に色気を放っていた。


 「修学旅行の夜ご飯みたいでしたよね。とりあえず若者が好きそうなもので腹ふくらましとこう、みたいな」
 「ね、よかったらもう1軒だけ行きません?」


 彩が誘うと、男は頼りなげに眉をハの字にした。黒目がちの瞳がふるふると揺れて、もうちょっと困らせたいみたい欲求が胸をかすめていく。


 「酔いは大丈夫なんですか」
 「あの一瞬で醒めましたよ」


 真偽を確かめるように、男が歩みを緩め彩の顔を覗く。

 名前も知らない、ちょっと言葉を交わしただけの相手を食事に誘うなんて、あまりにらしくない。単に食欲に突き動かされているのか、まだ酔っぱらっているのか。

 どちらにせよ、この人とならどうにかなっても後悔しないかもと、ふわふわした頭で考える。



 メインストリートを外れ、一軒家の素朴な暖簾をくぐる。昔ながらの定食屋といった感じで、店内は地元の家族連れや仕事帰りのサラリーマンでにぎわっている。


 「このへん、ここしか知らなくて」


 おしぼりの端を神経質そうに合わせてたたみながら、男は隅に置かれたテレビに視線をやる。

 彩もおしぼりを手に取りほどいた。芯まできんと冷えていて、アルコールの回った肌に気持ちいい。


 「名物はカレーうどんです」


 男がメニューを広げ、彩との間に置く。今シーズン買ったばかりの紫のシフォンブラウスが気になるが、白シャツの男の手前そんな素振りを見せられない。なにより厨房から漂うどこか懐かしいスパイシーな香りにあらがえなかった。



 「じゃあ、私、カレーうどん」
 「俺も」


 ぱたんとメニューを閉じ、彼は流れるような動きで店員を呼んだ。


 一息つくと、取り巻く空気が急にまどろっこしく重みを持つ。バラエティー番組の笑い声が耳に残る。


 「えっと、名前、なんでしたっけ」
 「伊賀倉知央です」


 シャツの胸ポケットからシックな革の名刺入れを取り出して、1枚くれる。すぐに会社名と肩書きが目に留まった。『編集者』と聞くと動のイメージがあったが、伊賀倉は寡黙で表情に乏しく色がない。それでもさらりとしわのない白シャツは清潔感があり、今夜であった男性の中で唯一まともに働いている姿が想像できた。

 少なくとも彩には、咄嗟に差し出せるような名刺なんてない。もらったときの束のままデスクの引き出しに保管されている。小さな白い紙とともに彼の社会的評価と価値を手にしているような気がして、胸がちりりと焦げる。



 「何の編集してるんですか」


 名刺から顔を上げると、彼の目は壁際に置かれた本棚に向けられていた。分厚い漫画週刊誌が何誌か置かれている。



 「漫画、ですか」


 返事を待たずに質問を重ねる。伊賀倉はこくりとうなずき、腰を低くしたまま棚の前まで進み、1冊を手に戻ってきた。彩は決して漫画の流行に明るいわけではないが、『ライバー』が少年漫画誌の中でも特に人気作を輩出していることくらいは知っている。


 「こういう王道の漫画誌ではないですけどね。男性向けの料理雑誌のコーナーのひとつで」
 「へえ、新聞の四コマ漫画的な?」
 「まあ、そんな感じです。一応、内容は料理にちなんでいるんですが、箸休めってところですかね」
 「料理だけに?」



 伊賀倉はふっと軽く笑った。男性の手でも収まらない分厚い冊子をパラパラとめくる。ページの間から生まれた風とともに安っぽい紙の匂いが漂ってくる。とはいえ、日焼けなどはしておらず、割と新しいものらしい。『祝!映像化』の赤字とともに表紙を飾るイラストの漫画は、最近本屋に平積みで並んでいるのを見た。



 「ライバルのチェック?」
 「いや、普通にこの漫画、気になってるんですよ」


 ぽんぽんと人差し指を表紙に当てる。


 「あ、でも、今度、俺の担当している漫画も他の出版社からですが、単行本化することになったんで、市場調査も兼ねているかもしれません」


 漫画の話になった途端、伊賀倉は饒舌になる。料理雑誌というアウェーな空間をものともせず、上がってきた原稿に黙々と修正を入れる曲がった背中がおぼろげながら浮かんでくる。

 ひとつでも熱意を傾けられる人は、それが社会的に価値を認められている人は、彩のように揺らいだり、焦ったりしないのだろうか。



 「お待たせしました」


 エプロンを腰に巻いたふくよかな女性がお盆をふたつ置いた。お椀にはたっぷりよそわれたカレーは色鉛筆のちゃいろを思わせる懐かしい色。短冊切りのにんじんやとろりと形の崩れた太ネギが麺の凹凸から覗き、こっくりと照明を鈍く受けている。


 一緒に出てきた白い紙ナプキンを首に掛ける。箸を入れ、麺を持ち上げると、ルーに閉じ込められていた湯気がむっくりと立ち上る。

 いただきます、と挨拶するなり、左手で髪を耳にかけ一気に啜った。口に入れた瞬間、ガツンとカレーのコクとカツオと昆布だとはっきりわかるだしのうまみが広がる。飲み込むとまだ熱を持った麺がのどを通って胃に収まっていくのがわかった。

 続けて白いねぎを口へ。野菜の嫌みのない甘みがとろりと溶けだして、わずかに残るしゃきっとした触感が引き締めてくれる。

 

 うまい。次の感想が浮かぶ前に箸がお椀に伸びる。目の前のお皿のことだけ考えて、一心不乱に手と口を動かす料理はいい。店内の誰もが自分の届く範囲にしか意識がない。周りの目を気にしなくていいし、感情や思考が押し出されていく。



 ひとしきり麺を食べてようやく、すっかり汗のかいたプラスチックコップの水に口をつける。伊賀倉はすでに具材まで食べ終えていた。

 あと一口、あと一口と手が止まらない。異性の前で麺類のスープを飲み干すのはどうかとためらっていたところへ、店員がバゲットと食パンをひとりにふた切れずつ置いていく。



 「こっからまだおいしいなんてずるいですよ」


 サプライズに思わず明るい声が出た。伊賀倉は早速、食パンをちぎってルーに浸している。



 「ですよね。だしのきいたルーに合うよう、バターは控えめ、食パンは雑穀なんです」



 伊賀倉の説明に食欲が駆り立てられ、彩もバゲットを手に取った。まだほっこりと温かい生地の上に具材ごと乗せてしまう。



 「この店も料理雑誌の取材で知ったんですか」


 なにげなく会話をつなぐつもりが、伊賀倉はちょっと黙って、ああ、まあ、うーん口ごもった。突っ込んではいけないところに触れてしまったかもしれないとすぐに後悔するが、こんな反応をされてしまうと、彩が何を言っても白々しくなってしまう。口元を汚さずにバゲットをかみちぎるのに苦戦しているふりをする。


 「前の、彼女と来たことがあって」
 「ああ」


 なんかすみませんと謝って終わりにしようとしたのに。彩に帰るよう促したのと変わらぬ淡白さで伊賀倉は言うので、言葉は喉元で行き場を失ってしまう。



 「大学4年の頃から5年付き合って、先月別れました」
 「5年」
 「同棲して、婚約して、最後は他に好きな人ができたそうです」


 彩も別れたばかりで、フラれた側なのに、掛ける言葉を持ち合わせていなかった。傷ついた自分を守ることに必死で、ないものを持っている人に嫉妬して、同じように傷ついている人がどこかにいることに想像が及んでいなかった。


 「もうすぐ結婚するそうです」


 バゲットをちぎり、伊賀倉は続ける。


 「それって、結婚式に呼ばれたとか」
 「いや、相手の顔も名前も知りません。友だちのために開いた合コンで、好きになっちゃったみたいで」


 付き合っても1年と続かない彩には5年という時間の重みが正直よくわからない。9か月ですら返してくれとすがりたいのに。簡単にわかるなんて言えない。

 伊賀倉とはたった数時間の仲だが、積み重ねた5年を振り切ってでも手放したくなる決め手がある人間には思えない。用を足している最中に突撃した彩を心配して駅まで送ろうとしてくれる。メニューをふたりが読める場所に置いてくれる。相手への敬意と気遣い。それさえあれば、きっとどんな困難にもきちんと向き合ってくれる。彩にとって他に勝るものはないような気がするのだが、彼女が好きになった人はそんなに魅力的なのだろうか。


 当の伊賀倉は伏し目がちにお椀に残ったルーを見つめ、あくまで業務の進捗を報告するような無味乾燥な口調を保っている。だが、彼の中の彼女はまだ大きな存在に違いなかった。高額な参加費を払って参加した街コンを途中で抜けるくらいには。彩を彼女との思い出の場所に連れてくるくらいには。



 縦に並んで歩くときの微妙な距離、もう1軒行こうと誘ったあとの困ったような表情、迷いなく差し出されたLINE代わりの名刺。いくら心配してくれて、気遣ってくれても、小さなしぐさのひとつひとつが彩に気がないことを語っていた。



 「せっかくおいしいもの食べてるのに、しんどい話してすみません」
 「いや、そんな」


 伊賀倉は手に残ったパンを皿に戻し、水を口に含んだ。


 「むしろおいしいもの食べてる時ぐらい、いいじゃないですか」


 からがら言葉をつなぐ。せめて知り合って間もないからこそ弱音を吐いてしまう彼の気持ちぐらいは肯定したかった。


「どんなにつらくて悲しくても、目の前においしいものが控えてくれているる。ちょっと救われるじゃないですか」


 伊賀倉はようやく顔を上げ、彩の目をじっと見つめる。それからはかなげに微笑んで、元の無表情に戻った。


 「きついなあ」
 「きついよ、そりゃ」


 ぽつりとこぼし、見るともなくテレビの画面を眺めた。彩も釣られて視線を向けた。



 「こういう仕事をしていると、全部ものづくりにいきるでしょうって片付けられてしまう。仕事に昇華できるだろうって。俺もそう思ってたんだけど。中にはもっとヤバい修羅場に立ち会った、ひどい裏切られ方した、それでも前向いて、今があるって語りだす人もいて。

 でも、ぐちゃぐちゃにささくれたこの気持ちを、今は漫画みたいに美しくコマに収めることはできそうになくて。はじめて、漫画を憎らしく思いました」


 いつの間にかこの社会を覆う「大事なものがふたつしかない」みたいな幻想に傷ついて傷つけて振り回されてきた。恋に破れたら仕事にぶつけるとか、仕事がうまくいかないからそばにいてくれるひとを見つけようとか。人はそんなに簡単に切り替えられるほど強くないのに。


 テーブルに置いた伊賀倉の名刺に視線を落とす。この紙切れ一枚で彼の人生を測ろうとしていた自分の浅はかさを思う。仕事だけは掴んでいる人だろうと想像して勝手に憧れて。だけど今、伊賀倉はひとつ失ったばかりに、ふたつともその手からこぼしそうになっている。


 本当は仕事も恋愛も掴んだそばから逃げてしまうかもしれないのに。そんな危ういなものにこだわって、焦って、必死になって、無理やり街コンに来て、挙句泥酔して、彩は何を手にしたかったんだろう。





 「今日はたくさん聞いてくださってありがとうございます」


 地下鉄の改札前は、ろれつの回っていない酔っ払いたちのはしゃぎ声と残業帰りの男女のため息がまぜこぜになって膨らんでいる。



 「いや、私はなんにも」


 頭を下げる伊賀倉に手を振る。


 「しんどいことをしんどいと認めたら、ちょっとすっきりしました」


 じゃあ、とICカードを持った右手を掲げ、伊賀倉の背中は改札の向こうの人ごみに消えていく。

 彩も自分が乗る路線へと向かうが、思い立って定期入れにしまった伊賀倉の名刺を取り出す。書いてあるのはおそらく社用のケータイ番号とメールだけ。もう二度と彼とつながることはないかもしれない。

 名刺とICカードを握りしめ、踵を返す。大事なことを聞きそびれていた。残額は足りるはずだ。カードを改札にかざす。閉じていたドアを半ば強引に抜け、ホームの階段を駆け降りた。電車を待つ列の中にその姿を見つける。



 「すみません!」


 伊賀倉は声も上げずに驚いて、丸くした目をこちらに向けた。激しく息を切らす彩を周囲の人が怪訝そうに見る。伊賀倉がそっと列の横にずれる。



 「あの、大事なこと聞き忘れていて」
 「大事なこと」


 手にした名刺を軽く掲げてみせる。


 「漫画の、タイトルを」
 「漫画?」
 「伊賀倉さんが、担当している、今度、単行本化する、漫画の」
 


 コマの中で行儀よく物語を展開していく漫画を、伊賀倉は憎いと言った。だけど、だからこそ、読んでみたいと思った。感情が枠に収まらないことを知っている人がつくる物語を。ひとつひとつに揺れ動く心を持つ人の作品を。あふれだしたところに、大切なものはまだあるような気がするから。

 

 漫画にしては少し長いタイトルを、彩はしっかりと刻みつけた。


←第5話「1ミリ向こうの非日常」 第7話「未定」→



頂いたサポートは書籍代に充てさせていただき、今後の発信で還元いたします。