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瓶ビールはまた、そのときに

「俺、飲めへんから、都村付き合ったってくれや」


ぱたんと部長はメニューを閉じ、「烏龍茶と瓶ビール、グラス」とおばちゃんに指を2本立ててみせた。向かいの席のA先輩は「おお」とだけ言うと、椅子の背にずかっと体をあずける。それは「頼むわ」や「たくさん飲めよ」と受け取っていいのだろうか。まじまじと表情を窺っていたが、威圧感に負けて私は視線を机の上に落とした。ホテル1階の定食屋は他に人けがなく、食器を洗うガチャガチャという音だけが厨房から漏れていた。


こうしてサシで瓶ビールを交わすのは人生で初めてかもしれない。その相手が苦手な先輩だなんて。


先に来てしまった大海老フライに箸をつけるのも気が引けて、衣の凹凸と逃げていく湯気とを順番に眺め、偶然のいたずらを呪った。


「せっかくの出張やから前乗りして視察でもしてきたら?」という上司の提案がすべての始まりだった。翌日からは期間限定店舗の販売応援。普段は事務所に詰めっきりで、外に出ることはめったにない。どこへ行こう、何を見よう。うきうきしながら電車を降りたのだが、その日は部長自ら接客していることを思い出し、「挨拶だけでもしておくか」と顔を出したのが運の尽き。店内は我先にと押し合いへし合いするお客さんでごった返し、部長も同じシフトに入っていた先輩もてんやわんや。挨拶どころではない。無視して引き返すこともできずに一緒になって販売していたら結局一日が終わっていた。


せめて夕食に名物でも、とレジ締め後一足先に店を出た。最寄駅から歩いて30分、やっとの思いで大海老フライにありついたのに。いただきますと手を合わせたまさにそのとき、ガラガラと入口の扉が開いて部長と先輩が入ってきたのだ。


「店入ったら一人で食ってるからびっくりしたわ」


部長がけらけらと笑う。

まさか同じ店を選ぶなんて。私はまだどこか戸惑っていて「はあ」と気の抜けた返事しかできなかった。


ほどなくしておばちゃんがお盆を手にやってくる。置かれたばかりの飴色の瓶。ためらいながら持ち上げると、グラスがすっと差し出された。滑らないよう両手で慎重に傾ける。とっ、とっ、とっ。瓶の口から溢れる黄金色の液体。透明なガラスの上を流れ落ちていく。少し角度を変えると泡はみるみる膨らんで、しゅわしゅわと甘美な音を立てた。溢れ出す寸前で口を上げる。注がれる番なって初めて、息を止めていたことに気づいた。


「乾杯」


かちん、と合わせると、先輩は喉を大きく上下させて一気にビールを流し込んだ。泡の表層を唇に当てただけの私は慌てて瓶に手を掛ける。


一度酒盛りが始まったら、絶対にA先輩のビールを切らすな。


後輩の間で脈々と伝えられてきた教えは私の頭の片隅にも刷り込まれていた。同じ部署でも店舗に入りっぱなしの先輩とはほとんど接点がない。にもかかわらず、ひとたび飲み会があると聞きつければ同期会だろうと女子会だろうとかまわず乗り込んできた。バンッと個室のふすまが開いて仁王立ちしていたこともある。それでも2秒後には席を詰めてビールを注文、耳にタコができるほど聞かされた武勇伝エピソードに「さすがですね」と目を輝かせる同僚たちを関心の眼差しで見つめていた。その役を今日は一人で担うのかと思うと冷えたビールがいやに重い。


そもそもこうしてお酒に強くなったのは、うまくお世辞が言えなくても、飲みっぷりが気持ちよけばそれなりにおもしろがってもらえるからだ。入社から3年経っても仕事は雑用ばかり。せめて飲み会では居場所をもらえるようにと、かわいげのない名前の酒ばかり慣れたふうに選んでいた。


「でも今日はええところに来てくれたな」


部長が同意を求めると、先輩は「おお!」と力強く相槌を打った。それまで沈んでいた声のトーンがぽんとひとつ跳ねた。


「お前、めっちゃ焦ってたやろ」
「焦ってへん。俺にかかったらたいしたことないわ」
「昼飯食えてなくて不機嫌やったやん。やから都村ええとこに来たと思って」
「おお、ずっと前屈みやったから腰がいたあてたまらん」


2人には歳の差があるはずなのにやりとりはまるで幼なじみのよう。饒舌な部長につられ口数も増える。そろそろ武勇伝が始まる頃かなと心の準備をしていると、

「都村はすごいぞ」

なんの脈絡もなく先輩が放った。


「こいつ、すごいんやから」


視線は部長に向けられていた。まるで俺だけが知っているぞとでもいうように得意げなので、褒められているのが自分だとは思わなかった。だってきちんと一緒に仕事をしたのは今日が初めてなのだ。


先輩はよく他の同期を褒めていた。同じように「こいつ、すごいねん」と。私はいつも自慢される側で、曖昧に笑顔を浮かべながら「言われなくても知ってるよ」と心の中で毒づいていた。

リーダーに昇格して従業員をまとめている子、大口契約を取って売上に貢献している子、後輩を集め新しいプロジェクトを立ち上げた子……。それにひきかえお客が来たらお茶を出し、ゴミがたまったら焼却場まで持っていくだけの私。同じ3年という時間を使ったはずなのに、自分なりの居場所を見つけて輝く仲間が羨ましくて妬ましくて情けなくて。彼らがすごいことは誰よりも私が痛いくらいにわかっていた。


だから自分もそう言ってもらえるなんて思ってもみなかった。私のなにがすごいというのだろう。切実な疑問を察する素振りは微塵もなく、先輩は半ば機械的にあしらう部長に、ただ「すごい、すごい」と繰り返していた。


きっと彼の口癖なのだ。お酒が入って気が大きくなると、誰にでも言ってしまうだけなのだ。動揺する自分に言い聞かせながら、ぎこちないお酌をした。先輩はお返しにろくにつまみもしていない刺身の盛り合わせをこちらに寄越し、少し飲んだだけの私のグラスを再びいっぱいに満たした。真に受けるなと何度も心の中でつぶやいたけれど、あまりにストレートで飾り気のないその称賛は瓶ビールの炭酸が舌に残していくようにむずがゆく、まろやかに喉を落ちて胸のあたりをあたためていった。



先輩が亡くなったのは、それから1年後の夏の日だった。


あまりにも突然で、頭はぐるぐると何かを考えようとするのに、心はついていかなくて、昨日事務所ですれ違ったときちゃんと挨拶をしただろうかと、どうしようもないことばかり気になっていた。それくらいには大きな存在になっていた。あの夜のことはしばらく記憶の底に沈んだままだった。


私はこの夏が終われば退職する。

先輩はあれからも会議や慰労会で「都村、すごいぞ」と突拍子もなく喧伝してくれていた。いまだに理由はわからないけど。一人が「すごい」と口にしてしまったら、周りは私のことをどう思っていたって何も言えっこない。理由なんてどうでもよかったんだ。


私の居場所を作っていたのはお酒なんかじゃなく、先輩のその一言だったのかもしれない。


たまらなく暑い日は無性にビールが飲みたくなる。キンキンに冷やしたプルタブを親指で押し上げ、心地いいプシュッを聞きながら、あのちぐはぐな晩酌を思う。


「先輩、すごかったんですよ」


いつか乾杯するときがきたら、勇気を出して伝えてみよう。

瓶ビールはまた、そのときに。


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