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三題噺 鍵 財布 紅茶

肩から首にかけて酷く冷える。
ぶるりと一度身震いをして、目蓋に差し込む陽の光に顔をしかめた。
寝直そうと寝返りを打つ。
寝惚けた頭の端にぶら下がる違和感に気づいた。
知っている洗剤と香水の匂いに紛れる嗅ぎ慣れない匂い。
それに、妙に鮮明なシーツの感触。
いつも以上に心許のない胸周り。
指先で引っ掻けた現実から眼を背けようと、布団に潜りこむ。
嗅ぎ慣れない匂いの輪郭が濃くなって私は観念したように眼を開いた。
やっぱり。
小さな溜め息が溢れた。
やってしまった。本当に、ダメな大人だ。
丁度ひとり分のスペースが空いたベッドを、上半身剥き出しにしたまま私はげんなりした気分で見下ろした。

冷たい水がじわりと食道を通って胃に落ちていく。
昨日はずいぶんと酔っていた。その証拠に昨夜の記憶はほとんどない。
そもそも、記憶に留められるようなはっきりとした情報を得られるような場所でもなかったか。
知らない音楽、眩いライト、揺れるフロア、喉を焼いて胸の奥で蒸発していく度数だけが取り柄のアルコール。
はじめましてとさようならを繰り返すだけの、顔さえも朧気な人々。
しばらくはいいかな、ともう一杯、カルキ臭い水道水をごくごくと飲み干しながら心に決める。
これと言って禁止されていたわけでもなかったけれど、なんとなく遠慮していたのだ。
遠慮する相手も必要もなくなったので行ったはいいけれど、記憶の中にあったあの場所と比べて、昨夜はずいぶんと煤けて見えてしまった。
同じ場所なのに。
思い出補正というやつかもしれない。
それとも私は気づかないうちに大人になってしまったのか。
楽しいと思えたことが楽しめなくなるだなんて、ずいぶんと詰まらない人間に成り果てたものだ。
水を飲んですっかり冷えてしまった。
私はキャミソールをとりあえず着て、上からニットカーディガンを纏う。
モヘアのふわふわとした長い毛足が肌を擽る。
すっかりグシャグシャになった髪をかき混ぜた。

温かなブラックコーヒー。
いつのまにか砂糖もミルクも入れなくなった。
足繁く通っていたスタバにもいつのまにか行かなくなった。
自分の両手からさらさらと溢れ落ちていくものを、数えなくなった。
振りほどかれた手を掴みにいくことさえもしなくなった。
遠ざかっていくものの背中を見送るばかりで。
ある時から「もう必要ではなくなったのだろう」と呟くのが癖になった。
砂糖もミルクも、限定ドリンクも。
シフォン素材のスカートも。
あの子も、あの人も。あの鍵も。
私の人生に必要ではなくなってしまったのだろう。
もしかしたら、あの夜の遊び場も。
確信めいた予感がした。
時速1700㎞で地球は回っているのだから仕方がない。
ふいにテーブルの上に投げ出された財布が目についた。
4年も使っているとやっぱりどこか草臥れて見える。
モノグラムがプリントされた有名ブランドの財布。
あの人から貰った初めての誕生日プレゼント。
あの時の私にとってはとても大人っぽいものでとても嬉しかった。
この財布が似合う女性になりたいな、なんて殊勝なことを考えたりもした。
今になって見ると、ミーハー過ぎて居心地が悪い。
これはあくまでハイブランドに憧れる女の子が持つから可愛いものなのかもしれない、なんて可愛げのないことを考えてしまう。
もっとシンプルで、もっとシックで、もっと上質な。
ああ、これもか。
これも時速1700㎞に置いてきぼりにされていくものだったらしい。
どんどん、遠ざかっていく。
色々なものが。
私には何が残るのやら。
寝起きで落ち着いていた自暴自棄な気分がまたじわじわと浮かび上がる。

ぽこん、と電源に繋ぎっぱなしの携帯が音を立てた。
端末にさわる前に首を伸ばしてメッセージだけを読む。
既読スルーという概念を知って以来ついてしまった癖。
おはようございます。
なんのことはない朝の挨拶。しかし、差し出し人の名前に見覚えがない。
誰だろうか。
木崎、木崎。回文のような名字だ。
いやひとりだけ、確信はないものの可能性として考えられる人物が思い浮かぶ。
眉間に手をあてて眼を閉じる。
薄暗い店内、眩い照明。
左耳で揺れる銀色のピアスが明滅して網膜に跡を残す。
雑踏の中でいるはずもない人の背中を無意識に探す目玉を釘付けにした銀色。
その後のことは、覚えていない。
なんだかケラケラと笑って、そして少しだけ泣いたような気もするけれど。
そこはこれ以上触れずにおこう。
おはようございます、と飲み終わって空になったマグカップを片手に歩きながら返信する。
座っていなかった方の椅子の上に見慣れない紙袋。
片手で抱えられるほどの小振りな大きさ。
正面にはお店の看板かロゴか、アールヌーヴォー風のデザインが施されたシール。
忘れものだろうか。
そうなるとこの木崎という男が昨晩の人かどうか確認する必要が出てくる。
「黙って帰ってしまってすみません」
「こちらこそお見送りもできず」
誉められたことをしていないという事実とそれに反して、妙に律儀な文面に笑いそうになる。
自分で書いたメッセージもどうにもシュールだ。
「忘れものをみつけたのですが」
「必要ならこちらで処分しましょうか」
続け様にメッセージを送る。
少しして、またぽこんと通知音が鳴った。
「電話してもいいですか」
私は少しだけ考えて、そしてにっこりと笑うウサギのスタンプを送る。
ぶるぶると細かく携帯が手の中で振動するのを5秒ほど眺めて、私は緑のボタンをおした。
少しだけ指が震える。
「中身、紅茶なんです」
思っていたよりも低い声。
一定のリズムがどうにも機械めいている。
「へえ」
「紅茶普段飲みますか」
「あまり」
「ティーポットなかったからそうだと思いました」
アンドロイドのように発声される言葉に少しだけ笑い声が滲む。
「よかったら飲んでください」
「良い紅茶なんですよね」
私はふいの思い付きが暴走してしまわないように、慎重に言葉を選ぶ。
やっぱりどこかで自棄になっているのかも、と頭の端の冷たい部分が囁いた。
「はい。うちで扱っている一等良いものです」
「それなら適当に飲んでしまうのは、もったいないと思うんです」
「はい」
「美味しい飲み方、教えてくれませんか」
たっぷり15秒沈黙が流れる。


どうせすべては時速1700㎞で過ぎ去るのだ。



財布は来週の土曜日に買い換えよう。
そのついでに紅茶に合いそうなお茶菓子かケーキを買うのだ。

「「それでは、来週」」

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