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矛盾をそのまま包み込めば、世界の捻じれに巻き込まれない

vol.84【ワタシノ子育てノセカイ

心の痛みが攻撃になるのは、いい社会にしたいと願っているから。

吐き出せるほどエネルギーが余っているなら、繋がる勇気に変えてしまえ。繋がればわかり、世界が変わる。自分で体現さえできれば、理想の世界はやってくるんだ。

尊厳を奪われた痛い体験は、尊重で世界を包む道標なんだろうな。

ところで私には「実子誘拐」で6年以上離れて暮らす、10代のふたりの息子がいる。

2024年6月5日水曜日。次男ジロウとの月はじめのマクドの日がきたので、下校密会すべくいつもの集合場所へいそいそと車を走らせる。

やってきたジロウは頬を紅潮させて助手席に滑り込み「今日はマクドには行かへんわ。はよ帰りたいねん」と息を切らせて伝えてきた。どうやらマクドの日を忘れていたみたいで、友達と遊ぶ約束をしたらしい。

下校密会の継続に暗雲のでたジロウと私は、母子時間の新プランを状況に応じてABCと立てた↓↓けど、三つとも遂行できずに2ヵ月が過ぎていた。

プランAの初手しだいでBもCも変わる仕様になっているので、お茶会しながらAの進行具合を確認すると、なんの進展もなく、代替プランもない。ジロウが歩んできた7年の日常が、ただただ体現されているんだろう。

気づいた問題に蓋をして、探した課題に怯えひるんで、見えてる解決を曖昧にして、今にゆるゆると流されるさまを、母が許容するとおもうてか。

ふた月ほど様子をうかがっていた私は、プラン遂行の初手に明確な期限を求めた。4月5月の期限を「今月中」と決めていたジロウは、期日を二日後の金曜日と定める。

翌日、下校密会の約束はないけど、私はジロウに会いにいった。するとジロウは迷いなく車に乗り込んで、いつもの密会をしようとする。

ためらいなく密会しようとするジロウの行動は4月5月のくり返しで、すでに確認が取れてる点でもある。「もう車に乗らへん」と私に伝えたジロウの気持ちは「会いたいけど、もう車に乗らへん」だったんだ。

ほなどないして会いますねん、を試行錯誤しているのがここひと月である。なんなら7年してるけど。

まぁとにかく、ジロウの明確な意思を確認してプランを立てた後は、待つ、という手法を私は選択した。だけど見守りって、姿が見えるから守れるんちゃうん?とじわじわと葛藤が湧きあふれる。

とにかくジロウは動けずにいて、過ぎゆく時間がジロウへの圧になっているんだ。せなあかん、でもできへん、どうしようって。なんなら、もうええか、になるフェーズかもしれない。

ジロウも私も止まっていて、親子の世界が育ちゆくなら、子育てなんてなんの苦労もない。なんかおかしいとグルグルとしているうちに、私はふと気づいた。

どうやら私の脳みそは、まだまだ「ふつうの家族」に縛られていたらしい。

日本の単独親権制度を社会が認知しはじめた2024年から、親子が会えない非日常を、日常にしようとする自分にちょくちょく出会う。

私が7年前に気づいて踏みだした第一歩を、77年ぶりの法改正によって、日本社会が踏みだそうとしているらしく、時間がどうしても錯綜してしまうんだ。国の第一歩は、2017年の私じゃなくて、2024年の私と同じだと思い違いをしていたから。

単独親権制度というふつうの社会に呑み込まれて、楽になりたい自分が顔をだすんだ。適当になりすまして社会を漂うように、なりすました親で子育てもすればいいじゃないか、社会はいつだって子育てするなと強要してくるじゃないか、って。

だけど子育てがなりすまされると、子どもはなりすましが自分だと勘違いする。なりすました虚像を自分だと信じて、自分をカラッポにしていくんだ。現に戦後から約80年間の日本は、子育ても教育も徹底的になりすましてきた。だからこそこの国は、確たる実子誘拐大国になれている。

ふつうの社会に呑み込まれて私が子育てをあきらめるときは、日本の子育てである実子誘拐を私が認めたときになる。もし私があきらめたならば、命尽きる瞬間の私は、私をなんと感じるんだろうな。

まぁとにかく、日常と非日常を反転させたり、まとめてしまったりすると、人間が狂うことだけは確か。狂ってしまえば、感じることもないから、楽っちゃ楽だ。

車に滑り込んだジロウへ、なんで母が今ココにいるのかを私は問うた。ジロウはバツ悪そうに「お父ちゃんにまだ言えてへんねん」と呟く。

プランAの初手は「伝える」だから言わないと始まらなくて、始まりの第一歩を私はこの春から、ゆるゆると待っていたんだ。

ちゃうちゃうジロウ、言えへんのはええねんで。バツ悪くなる想いをひとりで抱えているから、お母ちゃんは会いにきてんねん。などと心の中でつっこんでいると、昨日会ったばかりのジロウが、顔を華やがせて答え直した。

あ!そうか。お母ちゃんが迎えにきたんは、ジロウに会いたかったからやな!

狭い車の中で幸せが窮屈だと叫んでる。まちがいない。お母ちゃんは2017年から、毎日毎日、ジロウに会いたいのです。

だからこそ私は気がついたんだ。私たち親子には暮らしがないから、安住できる家がない。なのに私はさも暮らしがあるみたいに、家があるみたいに、なぜかふつうの子育てをしようとしていたんだ。

ちがうちがう。ジロウの勇気を奮い立たせる子育ては、ない暮らしでまかなえないし、ましてやまかなう場所なんてない。車も家もたんなる容器なんだから、惑わされちゃだめなんだ。

子育ての中身をつくるのは、親子の中身をつくるのは、車でも家でもなくて、ほかの誰かでもなくて、私たち親子なんだから。

忘れるな。母という私が、ジロウの確たる家なんだ。

見守りたいのであれば、私がジロウに会いにいって、私がジロウの姿を見にいけばいいんだ。引き離されている親子が、会えるのに会う時間を待つ選択は、見守る時間ではなくて絆を失う時間となる。

数分を重ねる時間をくじけず積んできて、少しづつ少しづつ時間を広げて、ジロウと私は今をつくりあげてきた。30分も一緒に過ごせる近年の母子時間に、私はなんだか慣れてしまっていたんだろうな。

暮らしのない私たちが親子の時間をもつことは、日本社会では歪みなんだから、もっともっと丁寧に扱わないと歪みに呑み込まれてしまうんだ。

金曜日が期日だった約束は、果たせずに保留。だけど週明けの月曜日、ジロウがはじめて、プランCを実行した。

解決法はひとつじゃなくて、解決できないことだってある。ひとつの方法にとらわれず、そのときどきのやり方でとにかく進むんだ。

大丈夫。選んだ道を正解にする力を、ジロウはちゃんと育んでいるから。



グミを食す瞬間を写真に収めたい母から
猛スピードで逃げるジロウさま

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