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勇気があればナイもので惑わず、アル今を抱きしめられて愛になる

vol.81【ワタシノ子育てノセカイ

失ったものは姿を変えて戻ってくる。なくなることは終わりではなくて始まりだから。

失うと痛みが伴うけれど、痛みは変わる前触れなだけ。喪失をなかったことにするともったいないんだ。失くした事実をうけとめた瞬間、痛みは癒され、姿が変わる。

失くしたものが「自分」ではなかったと気がつくんだろうな。

ところで私には「実子誘拐」で6年以上離れて暮らす、10代のふたりの息子がいる。

今後の母子時間について、次男ジロウからのLINEまちだけど、連絡の気配がまったくない。前回の母子会議から2週間後の5月22日水曜日、私はまたしても下校中のジロウに会いに行った。

いつもの駐車場で待っていると、ジロウは車へと優雅に歩いてきて、ランドセルを後部座席に放り込む。車にはもう乗らないと私に打ち明けたジロウが、ごく自然に助手席に座った。やっぱり、要母子会議。

なにはともあれ車を走らせながら、2週間ぶりのジロウの近況に耳を傾ける。話がひと段落して川土手にさしかかると、ジロウはヌートリアを探し始める。前回見つけたときは興味なさそうにしていた↓↓のに、実は気になっていたらしい。

川面にはヌートリアが留守だとわかった。土手道をのぼって川を横切り、話は共同親権法案の成立について移っていく。

ジロウはまだ知らなかったらしく、成立のニュースを受けて顔がやたらと整う。第一声は「今はもう、法律が変わってるってこと?」だった。

法律ができるまでの流れを私は説明する。法案作成から始まり、審議→可決→成立→公布→施行、などを駐車しながらお喋り。

流れがわかったジロウはすぐさま私に施行日を確認して「2026年は2年後やん。タロウ18歳になるで?」と停車した助手席で地蔵になった。成人年齢をジロウは知っているらしい。

「ほんまやなぁ、親権は関係なくなるなぁ。そやけど18歳になってもお母ちゃんは親やし、今もこれまでもずっと親やし、親子やで」と私が返すも、長男タロウへの疑問を抱いたジロウは固まったまま。

とりあえず腹ごしらえしようと窮屈な車からでると、幼い稲が整列する水田から水と土の香りがたちこめる。私の左斜め前を歩くジロウが口を開いた。

社会で習ったわ。衆議院と参議院で話すんやろ。国会のことやんな。

カルピスとアイスでお茶会しながら、親子時間についての母子会議がスタート。

只今の母子時間にはABCの3プランがある。Aはジロウの理想プラン、Bは月一密会プラン、CはLINE密会プランで、BCはAが達成されるまでの仮プラン。

ところがジロウはCを忘れちゃうし、Aを達成するための行動も起こせない。これだとジロウはふたつもストレスを抱える上、仮プランが本プランとなってジロウの理想↓↓がウヤムヤになりかねない。

まずはAの再確認をすると、ジロウはAを頑なに希望した。ほな、A達成のためにどないしますねん、についても、二の足を踏んでる同じ方法を所望する。私の代替案はあれもこれも却下された。

一方の私は、ジロウにとってのAの必要性がどうしても気になる。CのLINEを忘れるのにAしたいのかな?と謎めいてしまうんだ。

7年も離れて暮らしていれば、母子で会えない非日常が日常となる。そして非日常と日常が反転すると、人間の心は捻じれていく。つまりタロジロの健やかな成長を妨げるんだ。

だからこそ私はつどつど丁寧に分解して、つどつどの最適解を探したがる。どれだけ遠回りになったとしても、結局は人生の近道だと学んだから。

Aの必要性をジロウが淡々と口にした。「ジロウは5歳から今まで寂しいままやで。7年たっても変わらへん。お母ちゃんに会いたいってずっと思っとる」。

プランAの輪郭は、おはようとおやすみを譲歩して、おかえりとただいまを母子で交わす生活、なんだ。

5月24日金曜日。共同親権の改正民法が公布された。

選択的共同親権は2024年現在の日本に最適化する制度なんだと思う。世界はいつだってバランスを取っているから。

最適化した法改正の失敗点は、ゴールがなかったこと。向かう先を決めずに法改正を始めたから、迷いに迷って迷ったまま幕を閉じたんだろう。「こんな日本にしたいな」と夢みるビジョンがなかったんだ。

審議したことは、①共同親権制度導入の話、のための②共同親権の話、のための③単独親権制度撤廃の話、のための④単独親権の話、のための「⑤共同親権賛否の話」ばかり。

今を問い、過去を理解して、どんな未来にするのか、を話さないと過去は未来に変化せず、ずっと今のままなんだ。だからこそ今法改正では「単独親権制度の撤廃」という過去の精算が重要だった。

世の理として、終わらせないと始まらないから。

とはいえ「共同親権の賛否」は社会的に合意できたらしく、1ステップに約10年。あと4ステップだ。なのでええ感じの共同親権観は、計50年もあれば社会に醸成する流れなのかも。

そもそも日本の親権制度の歩みは、世界から半世紀ビハインド。約80年間、世紀の悪法を放置しつづけたからこそ、なおさら一夕飛びにはいかないんだろうな。

社会の価値観が変わるときは、新しい価値観が社会をしめるとき。天動説から地動説になった歴史曰く、パラダイムシフトの実現は、前パラダイムを信じる世代がいなくなったときらしい。

単独親権観の世代がいなくなるのも50年後くらいかな。まぁとにかく、地球が回っていても、ガリレオさんは火あぶりとなった。

確かにあるのに世界が消そうとする事実はいつだって、世界に突きつけるほど壮絶な痛みをともなうんだ。

だからこそ一方で、事実という痛みから目を背けるために、価値観というフィルターが大切らしい。自分を守るという生きる術だから。自分の価値観を唯一の世界にして、痛みをもたらす「違う世界」を、無意識でシャットダウンして身を守る。

だけど世界は「違い」の集合体。「同じ」の集合体だと、同じ要因で絶滅するから、世界は持続しないんだ。世界がつづいている今この瞬間が、違いの集合体が世界である証なんだろうな。

選択的共同親権は「同じ」と「違い」のバランスを取った結果。家制度による同じを好む価値観が、まだまだ捻じれてはびこっているんだろう。

コロコロコミックに手を伸ばすジロウ。学校帰りでお疲れのうえ、久しく母子で過ごす時間に、法改正の話は無粋な気がしてきた。

ふと、ジロウのほしいもの第三位の「家」↓↓の会話となり、家がほしい理由をジロウは私に説明してくれる。

大人になったら家いるやろ?お母ちゃんも住んだらええで。

どうやらジロウは大きなお家をもって、一緒にいたい誰かと住みたいそうだ。タロウも、ばぁちゃんも、いとこも、友達も、みんなウエルカムらしい。

あたたかい目をするジロウに「お父ちゃんも一緒に住めそうな広さやな」と私が相槌をすると、ジロウははにかんで漫画へと視線を落とした。

開いた本の左側面を親指ではじきながら、ジロウは法改正の解説を私に促す。ひとしきり説明した私がジロウの意見を求めると、溶けかけのホームランバーを口につっこんで、ジロウはすまし顔で言葉をつむいだ。

親に会えへん子どもがいなくなるんやったら、ええ法改正かな。ジロウみたいに会えへんだら子どもは寂しいからな。

あぁ、なるほど。会えない子どもがいなくなる、か。自分と重なるタロウや誰かを想い馳せ、未来の輪郭を想像するジロウ。

やっぱりジロウは、勇気の塊だ。

世界を終わらせないと世界は始まらない。社会とはそもそも不条理で、今あるものはホントはない。世界はただの虚構なんだ。不条理という虚構を感じとれる心が勇気で、勇気が不条理を終わらせて新世界を創っていく。

未来である子どもたちはいつだって、たおやかで、果てしない世界で生きている。



コロコロコミックを楽しむジロウさま
毎月ウキウキして私の母が届けてくれる
あらゆる手段で子と繋がるべし

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