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“千と千尋の神隠し”は『生きる』という一大イベントへの心構えを教えてくれた。


「一生に一度は、映画館でジブリを。」

これほんと最高のキャッチコピーだと思うんです。何が響いたのかは全然わからないんですけれども、普段キャッチコピーで動かされるってことにあまり心当たりがない私が、この一発で映画館行きを即決しました。おうちだいすき勢の私が。私とスイートマイホームを繋ぐ強固な根っこもなんのその、超パワーでいとも簡単に引きちぎられ外にひきずりだされました。恐ろしいです。

ということで、スタジオジブリのリバイバル上映を観ての感想です。もっとも、6月上旬から上映を開始しているため大変今更感がありますが、気にしない方向で。


はじめに

「千と千尋の神隠し」。

もはや説明は不要かと思いますが、異世界に迷い込んでしまった少女「千尋」の物語ですね。「完成した主人公」が多いジブリの中では比較的レアな「成長物語」です。

成長物語ということで、話自体は王道オブ王道。しかし王道は素晴らしいからこそ王道なのです。要するにこの物語は素晴らしいのです。

普通に観ても当然素晴らしいのですが、考えを巡らせながら観てもまた素晴らしい。

ジブリ作品共通のポイントかと思いますが、シーン単位という大変細かい単位で、かつ、多角的に考えを巡らすことができるんですね。だから何回でも観たくなる。その度に新たな発見がある。ジブリ作品は人によって全然捉え方が違ったりしますよね。

そして今回、映画館という究極の没入空間で観て、これまでになくいろいろと考えが巡りました。

大人と呼ばれる人たちが思い出せなくなってしまったかけがえのないもの。そこから生まれる「生きる」ということに対しての心構え。

この作品が教えてくれたそんなようなことについて、今回はお届けしたいと思います。


「普通」はいとも容易く崩落する。

さて、初っ端。いきなりむすっとした顔の千尋から始まります。主人公なのに。一番最初の導入という、その後の印象を決める部分なのに。その顔でいいんかい。

でもこれが千尋なんですよね。仲の良い友達と離れ、知らない街で暮らすことになった、この年頃の少女の当たり前の反応。ごく普通の少女。

四輪駆動の乗用車。恰幅の良いお父さん。身なりに気を遣っているお母さん。半袖短パン、無造作なもさもさポニーテールの千尋。引越しセンターのトラック。テーマパークの残骸。

時代背景が比較的今に近いこともあり「ごく普通」なすべてから始まります。

「普通」って恐ろしいですよね。そんなものは存在しないのに。ジェンガが崩れるように、一つを失えばいとも容易く崩落するものなのに。私たちはそれをうっすらと知りつつも目を逸らし「普通」を普通に生きています。

「普通」が普通でなくなる瞬間。その瞬間は、生きている限り、いつ私たちに降り注いでもおかしくありません。それをこの後、確かな形で突きつけられるわけですが。このシーンの「普通さ」がこれから起こるであろうその「何か」に対する不安をより一層かき立てます。


素直さは他者を動かす。

そして「何か」が起きます。両親が豚になり、道には黒い影。船から降りてくる見たこともない生物(?)。怒涛の展開に、千尋の表情にようやく生気が戻ります。彼女にしてみれば大変不本意な形ではありますが。

この後はひたすら怯えたりベソをかいたり挨拶できなかったりと、頼りない千尋のエレクトリカルパレードが開催されます。

しかしここでの「わたわたしつつ怒られつつ、それでも素直に食らいついていく」という経験があったからこそ、彼女は強くなれたし周りも千尋を全力で助けたいと思うようになるんですよね。素直さってすごい。

釜爺に「手出すんならしまいまでやれ!」って言われて素直に覚悟を決める千尋の姿のなんと美しいことよ。それを見たからこそ釜爺も孫なんてわけのわからん嘘をついてまで助けてくれたんですよね。ありがとうおじいちゃん。


運という儚く残酷なものの上で私たちは生きている。

ところで釜爺といえば「運を試しな。」というセリフです。

これは世の中の真理ですよね。いくら助けてもらっても努力しても最後は運です。だからといって努力しなければ運を掴む権利すら与えられない。

千尋は努力しました。湯婆婆を前にし震える身体で、ありったけの大声を出すという努力を。けれども坊が暴れ出したのはあくまで偶然です。もしあのとき彼が超絶ノンレム睡眠の最中だったら千尋は子豚エンドを辿っていたでしょう。

運は儚く残酷です。砂上の楼閣というやつです。砂を濡らしたり、きれいに形作ったり、満潮になっても波が届かない位置に建てたりと、少しでも崩れないように努力をすることはできます。

けれども、所詮は砂。どんなに努力をしても日差しが強ければ水の補給が追いつかず、とんでもない台風がくれば波にさらわれてしまいます。そしてそれらの発生をなくすことはできません。予測と対策はできますが、絶対100%大丈夫!は不可能です。

そんな運というとんでもないものの上で私たちは生きています。恐ろしいですね。せめてそのことを忘れないようにしなければなりません。

ちなみに、千尋の運と縁と努力は、幸運にも形になるのです。よかったよかった。


いのちの名前を知るべし。

豚になった父親と母親を見た後、千尋が自分の名前を思い出すシーン。

ここにはこの作品全体に共通するテーマが、ギュッと凝縮されています。

友達がいたこと。別れを惜しんで花と手書きのカードをくれたこと。迷い込んでしまった世界にハクがいたこと。ハクと出会えたこと。釜爺の前で根性を見せたこと。釜爺のもとを訪れたのがリンだったこと。湯婆婆から契約をもぎ取ったこと。

千尋が努力し、得てきた縁を通じて千尋は大切なことを識ることができたのです。紡がれた糸が一つの織物となるように。

「いのちの名前」

このシーンで流れる挿入歌のタイトルです。今まではただ漠然と認識し、呼ばれていただけの名前。自分が何者かも、この世界のことも、何もわからなかった千尋が、この瞬間、自分の名前を、そして自分といういのちが在ることを本当の意味で理解することができたのです。自分といういのちの形を、はっきりと捉えた。

千という存在を通じて、自分のいのちの形を識った。そしてそれと同時に、そこに連なる他者、世界の形、それらを愛すことも識ることができたのです。龍の姿のハクや豚になった両親を見てそうわかったのは、いのちの形が見えるようになったからかもしれませんね。

人間の最大の恐怖はわからない、理解できないということです。昔の人が自然を畏れていたのは理解が及ばなかったから。今の私たちが自然を蹂躙するのは理解し、支配下に置いたと思っているから。私たちが未来を、死を恐れるのはどんなものかわからないから。

自分といういのち自体を、少なくともそれが在るということを理解した千尋。そんないのちにハクの持ってきたおにぎりを詰め込み、カオナシや川の神さまにも巣食っていたようなモヤモヤを涙とともに押し流します。そして「私がんばるね。」といって油屋に戻っていくのです。

かけがえのないものを得たこのシーン以降、千尋の様子、表情ががらりと変わります。

掃除に使った水を捨てに行ってカオナシと遭遇するシーンの千尋の顔ご覧になりました?挨拶もできなかった千尋があんな自然な顔して自分から話しかけて自分の判断で窓開けっぱにするって。成長。人間すごい。石炭持って「これここに置いておいていいの…?」と不安そうに、他人に判断を求めていたあの頃がもはや懐かしいです。


時々振り返ってみると気付くことがある。

ところでこの名シーンですが、背景も注目ポイントです。橋ので合流した千尋とハクは色とりどりの花の合間をぬって豚舎に向かいます。そして豚舎の周囲には穀物や野菜が植えられています。

この草花ですが、現実世界であれば盛りの時期が全く違うものが混在してるなんとも不思議な景色なんですよね。例えばあの中には椿とえんどう、とうもろこしがあります。椿は冬、えんどうは春、とうもろこしは夏の草花です。

「トンネルのむこうは、不思議の町でした。」

「千と千尋の神隠し」という作品のキャッチコピーですが、まさにこれを象徴してるかのような風景です。

そして白状しますが、何度か観ているはずなのに今回初めてこのことに気づきました。

生きてる時間とともに少しずつ知識を重ねてきたからこそ、振り返ってみると改めて気付けることがある。それをまじまじと感じました。

でも気づけた最大の理由は、映画館で観たことです。やっぱり集中力が全然違います。画面の隅から隅まで余すところなく観てやるという気合がすごいです。我ながら。

映画館で映画観た後は大体頭痛くなるんですよね。それだけ没入しちゃうんでしょうね。とか言いつつ、これまたぶっちゃけますがだいたい中身覚えてないんですよね。感情を爆発させる観劇スタイルなので、終わった後に残ってるのはそれはもう激戦だったんだろうなっていう、感情の残骸がどこまでも転がってるような感覚のみです。私の映画を見た後の感想は「すごかった。」が98%を占めます。気持ちいいくらい何も伝わってこない感想です。何度か観るとようやく話の流れやセリフを少しずつ覚えます。今回はそのパターンでお送りしています。何度か観ててよかった。

もちろん画面の物理的な大きさも全っっっ然違いますからね、そりゃもう隅から隅まで見えますわ。ホームシアターを構築する方の気持ちがものすごく理解できました。なんなら「ホームシアター 値段」でちょっと調べました。即諦めました。


「信頼する」とは「任せる」ということ。

さて、千尋が次に相対すは大湯。そう。オクサレさま編の火蓋が切っておとされます。

ここは、というかここからはもうひたすら千尋の成長に往復ビンタされるだけです。

札を大量にかっぱらってきたカオナシに「そんなにいらない」と毅然と言ってのけ、ヘドロまみれになりながらも自身の判断で追い薬湯をし、オクサレさまがお腐れてしまった原因を見つけ出し、名のある河の神に「よきかな」と言わしめた。完璧です。

この時のリンもまた全世界が驚く活躍。出遅れたにも関わらず、千尋が置かれた状況を素早く察知し、自分が何をすべきかを判断。ただ千尋の元に駆けつけるという場当たりな行動は取らず、釜爺にお湯をありったけ出すよう依頼をします。

この依頼をするということはオクサレさまという危機とともにいる千尋から離れるということですが、今の千尋なら目を離しても大丈夫だという信頼がここにはありました。千尋にその場を任せ、釜爺のもとへ向かったのです。

部下への深い信頼をベースとした大局を見た最善手。まさに理想のリーダー。ついていきたい。100万回喧嘩する羽目にはなるでしょうが、見たこともない世界を見せてくれそうです。

というか「活躍した従業員はどこの誰であったとしても全力で褒める」「お客さまのことは全力で大切にしつつ、たとえお客さまであっても言うべきことは火球とともに言う」。こんなことができる湯婆婆といい、理想のリーダー多すぎません?油屋に就職したい。

ちなみにこの河の神さま、幼い頃観た際にはハクとの区別がつきませんでした。白い龍ということで一緒くたになっていたようです。物事の捉え方が大雑把というのは今も昔も変わっていないようで。三つ子の魂百までとはよく言ったものです。でも「河の神」という本質を捉えられていたとも言えますよね。そう言わせてください。


「理解などしきれない」ことを理解する。

無事河の神さまがお戻りになり、千尋とリンはのんびりあんまんを食べています。このときのリンの「雨が降りゃ海ぐらいできるよ」ってセリフも心に残ります。

本当にさらっと、常識だろ?ってテンションで言うんですよね。世界や文化によって常識って全然異なっていて、そしてそれを本当の意味で理解することはとても難しい。

私たちは今や世界中のいろいろな情報を知ることができるはずなのですが、それでもなお自分たち、自分が中心なんですよね。頭では、知識の上ではわかっているつもりだけど、何気ない行動や言葉の端々には無理解が表出します。

せめて「自分は理解できていない。理解などしきれない。」ということくらいは理解できていたいです。もちろん本当の意味で理解できれば最高です。


無駄なことなど一つもない。

さてさて物語が大きく動く後半戦。

この先は前半のパワーアップ版ですね。前半で得たかけがえのないものをベースに、助けてくれたひとを助けるために、千尋は油屋から旅立ちます。

前半があったからこそ、千尋はハクのピンチを救うことができます。世の中無駄なことってないんですね。

もし千尋が両親と一緒に神さまの食べ物を貪り食っていたら。湯婆婆に屈していたら。いのちの名前に気が付かなかったら。

千尋はハクを救うこともできず、ただ怯えて蹲ることしかできなかったでしょう。少しづつの積み重ねで、千尋は動くことができたわけです。

何事も突然やれ!って言われてもできませんよね。いつ我が家に血塗れの龍が突っ込んできてもいいよう、一日一日、一つ一つの行動を省みながら生きる、いわばイメトレは欠かさないようにしたいです。


苦労しつつも前に進み続ける愚かさは、美しい。

後半といえば、怯えてる存在が誰一人いないことにも心動きます。

顔の見えぬ影、夜の街を走る電車、誰もいない沼の底駅。静かに前を見つめる千尋。両親とトンネルの中を抜けるときでさえにあんなに怯えていたのに。

湯婆婆の怒髪天もなんのそののハク。

あれだけいやだ…いやだ…と言って取り乱していたカオナシも、静かに千尋に寄り添っています。

それぞれ抱えていたものを吐き出したからこその落ち着きですよね。涙とともに。食い散らかした捧げ物とともに。魔女の呪いとともに。

河の神さまがくれたニガダンゴは、その苦さで彼らを解き放ちました。苦いものを苦労して飲み込み血肉とすることで、抱えていたものが解消された。そこには怯えも欲も悲しみもなく、ただ静かに燃える心があります。

苦労して努力して挫折して死にたくなって、それでも前に進み続ける愚かさこそが人間の美しさです。精神論とバカにされることもありますが、どんなに時代が流れても変わらない大切な心だと思います。

ダメなのは「精神論しかない」ことです。人類は発展とともに多くの法則、理論を理解してきました。ですからまずはそれです。心はその上に置きましょう。心は強くも、脆くもなれる不安定さが売りです。土台にするためのものではありません。この順番を忘れないように。ここテストに出ます。


自分のいのちの名前を識り、自分として在り続けるべし。

さて、カンテラくんに誘われて。ついに書くときがきました。本作の影の主人公(私調べ)にして国宝にして名言量産機。

銭婆様のお通りです。

発する一言一言が名言。名言がゲシュタルト崩壊する名言。名言?めいげん??

魔法という人智を超えた力を使えるのにそれに頼らず自給自足で生活している。力を持ちながら力に頼らない。

もちろん精神面もカンスト。すべてのパラメータが最高値。こういう最強キャラいますよね。もはや一挙手一投足で記事書けます。「玄関の扉を自らの手で開くにあたって、彼女が考えていたこと。」ほらもう一本できた。

釜爺が「あの魔女は怖えぞ。」と言ったり、坊がいなくなり火を吹いて感情を荒げていた湯婆婆が、その名を聞いただけですべてを諦めたような動作をしたりと、まさに最強キャラの名に恥じぬ存在感です。

と、書きつつ、私たちからしてみれば極々普通の優しいおばあちゃん。彼らは一体なぜあんなにも怯えていたのでしょうか。

思うに銭婆は、「いのちの名前」を識ることができるのではないかと思います。

何者かになれていると信じている大人たちに、自分のいのちの名前すらわかっていないこと。ただの人間だということを突きつける。見えていなかった、見ようとしていなかった都合の悪い真実を突きつけられるからこそ、大人たちは銭婆を恐れるのです。

千尋がそれを突きつけられたところで、何も思いません。いのちの名前を識ることができるようになった彼女は、自分は何者でもなく、ただ「千尋」であるとわかっているのですから。

恐れのない千尋を通じて銭婆を見たからこそ、私たちにも銭婆が恐ろしく見えなかったんですね。ありがとう千尋。シラフで銭婆と対面したら多分立ち直れなくなってた。

そんな簡単に、人は何者かになんてなれません。だからこそ、なった人は名が残るのです。誰彼構わず名が残ったら、教科書が広辞苑みたいになってしまいます。何者かになれないからこそ、せめて自分として在れるよう、胸を張って前に進み続けるしかありません。

そうやって進み続けた人たちの中で、そこからさらにほんの一握りの人だけが何者かになれるのでしょう。千尋がどうなるかはわかりませんが、何者かになりたかったカオナシには、彼女がそんなほんの一握りの人に見えたのでしょう。だからこそ千尋を求めた。食らえば、何者かになれると信じた。結果はお察しです。そんな彼は銭婆のもとに残ります。自分のいのちの名前を識るために。

いのちの名前を識ることができる銭婆。識ることができるようになった千尋。銭婆は数十年後の千尋の姿なのかもしれません。


歩む道を決めるのは自分自身。

銭婆と言えば、湯婆婆。湯婆婆と言えば、銭婆。

宝石や豪華な調度品に塗れた湯婆婆と、対照的に質素な生活空間の銭婆。けれどもまったく同じ姿。

幼い頃は間違い探しだと思っていました。どこかに違いがあるはず!まったくおんなじ姿なんておかしいもん!と。残念、まっっったく同じです。

少なくとも「全く同じかどうか」という問いには意味がなさそうです。作品を観ている人にぱっと「同じじゃん。」と思わせられればそれでもう十分なのでしょう。

彼女らはお互いが別の未来の自分なのかもしれません。どんな姿であっても、自分の選択次第で全く違う道を行くことができる。見た目や生まれ育った環境などはあくまでも判断材料に過ぎず、未来を決めるのは全て自分の責任による自分の決定。

他人に委ね、他人のせいにして生きれば確かに楽なのでしょう。けれども「らく」と読めば「たのしい」とは読めません。「らく」の道の先には、きっと後悔が待っています。終わりの時にまで「こんなことになったのは誰かのせいだ」なんて考えることになったら、それこそ死んでも死に切れません。

後悔のない死などあり得ません。だからこそ歩む道くらいは自分で決め、後悔のないように生き、「あれもこれもできなかったなー!でもあれとそれはやったからまいっかー!」とせめて妥協できるような、そんな終わりになるよう祈る。私たちにできるのはこれくらいです。


人は独りでは生きていけない。

印象深すぎる銭婆の組紐のシーンはそれはもう格別に印象的です。ところで印象って「インドの象」って意味にも取れますね。象という陸上最大の動物、それに名を冠すインドという本場。これ以上ないくらいの衝撃って感じが全面に出てる秀逸な言葉ですね。

「みんなで紡いだ糸をあみこんであるからね。」そう言ってキラキラ光る組紐をくれた銭婆。

みんなで縁を紡ぎ、それがさらに集まり、世界という巨大な織物は作られていきます。人は独りでは生きていけない。誰かとの関係性の中でしか生きていけないのです。望む望まないにかかわらず。

千尋もこの世界で出会った人との縁を大切に紡いできたからこそ、今ここにいるのです。この組紐はその象徴ですね。かけがえのない宝物の具現化です。

そしてこの具現化した縁をもって千尋はついにひとを救うのです。そう、暁の空の中、ハクに乗って油屋に戻るあのシーン。

千尋の言葉で、ハクはいのちの名前を取り戻すことができました。あんなにぶうたれた顔で車に揺られ、お母さんにしがみついていた、与えられ流され救われるばかりだった千尋が、ハクを救ったのです。これぞザ・成長。

神をも救った千尋が両親を救うなんてもはや造作もないこと。豚の中に両親がいないことをあっさり見破り、千尋は元の世界に戻ることになったのでした。なんかもうもはや千尋が神では?経験は人を神にする。


「一度あったことは忘れないものさ。思い出せないだけで。」

さて、ラストスパートです。ついにみんなとのお別れのときが来ました。

「またどこかで会える?」と聞く千尋に「うん、きっと」と返すハク。きっとこの後ハクは湯婆婆に八つ裂きにされ、あの少年の姿は失われるのでしょう。けれどもハクが「きっと『会える』」と言ったから、あの二人はまた再び会えるんです。なんてったってハクは神さまなんですから。

姿が失われても、信仰が失われない限り、彼は在り続ける。例えその信仰が思い出されなくても。

何事もなかったかのように立つ両親と、何事もなかったかのように再会する千尋。その姿はすっかり元の怯えた姿です。けれども彼女は思い出せなくても、忘れてはいません。

「一度あったことは忘れないものさ。思い出せないだけで。」

元に戻ったように見えるけれど、その髪にはみんなの縁、そして銭婆の名言が光っています。

ありますよね。気づいたらずっとあるもの。いつから使っているのかわからないけど、なんとなく捨てられないもの。あの組紐はきっとそんなものです。

千尋はこの先、いのちの名前の通り、千もの事柄を尋ねる。思い出せない根底の記憶とともに、さまざまな出来事に興味を持ちその命を燃やすのでしょう。

そして人生という道の終着点において、何気なく見ていたテレビで流れてくる一つのニュース。「暗渠となっていたコハク川が再開発で再び在りし日の姿を取り戻した。」理由はわからないけど、愛おしいほど懐かしい。千尋はキラキラ光る組紐のストラップがついた杖をつきながら電車を乗り継ぎ、コハク川に向かいます。

水面を眺める千尋にかけられる声。「やっぱりまた会えたね。」あたりを見回しますが誰もいません。けれども千尋にはそれが誰なのか、はっきりとわかりました。千尋はあの日々を思い出しながら、いつまでも川のせせらぎの音に身を委ね続けるのでした。


おわりに

月並みな言葉になってしまいますが、ジブリ作品は本当に考えさせられます。それを映画館という場で見たときの没入感はハンパじゃありません。一つ一つのシーンが意味を持っていることを改めて見せつけられました。ジブリが名作と言われる理由を、映画館で観ることで初めて心から実感できた気がします。

知っていると思っていたことでも、角度や環境を変えるとまた違うものが見えるんですね。これからも「千と千尋の神隠し」という作品を追いかけ続けたいです。そうしてるうちにカオナシに群がる従業員たちが持ってる食べ物とか釜爺のボイラーとかよくわからないものについてまで語り出す日が来るかもしれません。


リバイバル上映自体、および「映画を映画館で観る」ということの感想についてもこちらで書いております。併せてご覧いただけると嬉しいです。


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