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ショートショート。のようなもの#11『おでんのおっちゃん』

「やったぁ!きたきた!」
 
 今年も、おでんのいい香りがする湯気を立てながら、おっちゃんは歩いてきた。
 みんな寝静まった、夜の町中を、外灯に照らされながら、のっそのっそと、こっちへ歩いてくる。屋台なんかは引かずに、下駄の乾いた音だけをカラコロ…カラコロ…と、微かに響かせながら。
 白い湯気が、冷たい北風にのってぼくの鼻先まで運ばれてきた。
 ぼくはのお腹は、思わずぐぅーっと鳴った─。

 毎年、冬になると、ぼくたちの町へやってくる“おでんのおっちゃん”。
 町のみんなが、お腹をすかせているぼくたちに、お腹がいっぱいになるまでおでんを食べさせてくれる。
 だから、ぼくたちは、そのおっちゃんのことを“おでんのおっちゃん”と呼んでいた。
 でも、そのおでんを食べるのは、ぼくたち子どもだけだ。大人たちは、みんな「みっともない。汚らしい。食べちゃダメ」と言って食べないのだ。ぼくの母ちゃんは別だけど…。

「おっちゃん!味がしゅんでるやつちょうだい!」
 ぼくは、淵の欠けたお椀を思いっきり差し出した。
「はいよ~」と、しゃがれた声でそう答えると、おっちゃんはいつものように、深くへっこんだ鎖骨の溝から、大根や玉子、牛すじなんかを取り出すとお椀の中へ入れてくれた。
 そして、ゆっくりとお玉を鎖骨の溝へ沈めると、今度はあつあつの出汁を注いでくれた。
 仕上げに、左の鼻の穴を指で押さえて「ふーんっ!」と鳴らし、右の鼻の穴からからしを噴射してお椀の端に添えてくれた。
 おいしそうなおでんの出来上がりだ。
 それを覗き込んだぼくの顔は、やわらかくて温かいいい香りがする湯気に包み込まれた。
 ぼくは思わず、笑顔がこぼれた。

「ねぇ、おっちゃん。おっちゃんは、なんで鎖骨でおでんを作ってるの?」
「まぁ、おいしなるからやな」
「なんで、おいしくなるの?」
「おむすびみたいなもんや。」
「おむすび?」
「そう、なんでかわからんけど、お母ちゃんの手ぇで握ったおむすびは、うまいやろ?お店で売ってるやつよりも。結局、人肌やな。温もり。特に冬は、この人肌の温もりっちゅうもんが恋しなるやろ?せやから、この人肌の温もりで、おでんをおいししてくれよるんやろな。しらんけど」
「でも、熱くないの?鎖骨の溝にあつあつの出汁が入ってるんだよね?」
「そら熱いよ。ベローンっと皮もめくれるしな。せやけど、夏になったらかき氷で冷やすしそれまでの我慢や。それに、ボンみたいに、うれしそうにおでんを食べてくれるとうれしいからな」
「そっか。…じゃあ、やっぱりおっちゃんのおでんはおいしいんだね。」
「ん?『おいしいんだね』って、いつも食べとるやろ?」
「…いや、実は、…ぼく、食べたことないんだ。」
「せやけど、いつもうれしそうに走りながら持って帰ってくれてるがな」
「…あれは、母ちゃんに食べさせてるんだ」
「え?お母ちゃんに?…ほな、ボンは食べてへんのんかいな?」
「母ちゃんが病気で、ずっと寝たきりなんだ。だから、母ちゃんのために持って帰って、食べさせてあげてるんだ。そしたら、母ちゃん、いつも少しの間は元気になるから」
「…そっか。よっしゃ!ほな、今日はボンにも食べさせたるわ!さっき渡したのは、お母ちゃんに持って帰ったったらええ。ボンは、ここで腹いっぱい食て帰れ」
 そう言うとおじさんは、お腹いっぱいになるまで鎖骨の溝からおでんを出して、食べさせてくれた。
 はじめて食べたおっちゃんのおでんは、びっくりするほどおいしかった。
 ぼくは、口の周りを出汁でべちょべちょにしながら、たくさんのおでんをほおばった。
 食べても食べても、次から次へと具が出てくるのはすごく不思議だったけれど、そんなことはどうでもよかった。

 ふと気がつくと、同い年くらいの子どもがいっぱい集まってきて輪になって、みんなで、口をほくほくさせて白い湯気を出しながら、おでんをほおばっていた。
 真冬だというのに、みんな、半袖半ズボン。
 だけど、不思議とちっとも寒さは感じなかった。

 急に、ぼくの隣にいた女の子が、ぼくのお椀に手を伸ばしてきて「ちょうだーい」と言って、大根を掴んだ。
 今なら、これがおかずの交換みたいなことだとわかるけど、友だちがいなかったぼくは、こういうときはどうすればいいのかわからなかった。
 でも、その子の無邪気な笑顔に誘われるように、ぼくもその子のお椀に手を伸ばして、たっぷりと出汁のしゅんだ玉子をもらった。
 何度もつかみ損ねて、出汁がぺちゃぺちゃ跳ねるのを見て、ぼくたちはアハハッと笑い合った。
 それにつられて、周りのみんなもアハハッと笑っていた。
 “おでんのおっちゃん”も幸せそうに肩を揺らせていた。
 鎖骨の溝から、出汁がこぼれないように気をつけながら─。

 その後、何年かして、ぼくが中学を卒業するころには、“食品衛生法”とかいうのが、厳しくなり、“おでんのおっちゃん”を見かけることはなくなった。

 あのとき一緒におでんを食べた友だちとも、それ以来、会うことはなかった。そして、この町の冬は、前より一層寒くなった─。

*******

「と、まぁ、あのときのことが未だに忘れられずに、大人になった今でも、僕は、おでんを食べるときは、一旦、鎖骨の溝へよそってしまうんですよ。おいしくなるんじゃないかな~って思って。アハハッ。ほんとですよ!信じてくださいよ~」
 僕は、初めて入ったカウンターだけの小さな立ち食いおでん屋さんで、熱燗を呑みながら、大将にそう漏らした。

 次の瞬間。僕の、隣にいた女性が「ちょうだーい」と言いながら、僕のお椀に手を伸ばしてきたかと思うと…
アハハッと笑って、大根を掴んだ。

 ハッとして振り向くと。その女性は、鎖骨辺りに、たっぷりと出汁がしゅんだ玉子を乗せてこっちを見つめていた。

「…ひょっとして、あのときの子ちゃうか?」
 そう口を開いた大将の鼻の穴からは、たらーんと、からしが垂れていた。
 

                 ~Fin~

 

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