グルメに執心、ご就寝

今回はアボカドだったか。
ラテックス-フルーツ症候群は初めてだな。
そうつぶやいてゆっくりとスプーンを置いた。
サーモンとアボカドと玉ねぎを使ったタルタルサラダが、物憂げに紺色のボウルに残るばかりだった。
男は中身をキッチンのゴミ箱に投げ込むと、テーブルの上の煙草をとってベランダへ出た。

乳白色の空からわずかに光が差し、かろうじて街に朝であることを告げていた。
煙草に火が付き、薄煙がゆっくり空気に溶け込んでゆく。
「その出来事」は彼にとって珍しいことではあまりない。
この前も馬肉と、ポテトチップスと、平目がやられた。
それくらいならまだいい。
去年は子供のときから大好物だったコーヒー牛乳がやられた。
規則性はなく、1ヶ月間何も発見されなかったこともあれば、20日間連続で発見されたこともあった。


「具体的には、きみの身体に何が起こるの」

「とにかく身体がそれを拒絶する。
腹をくだすときもあれば、嘔吐のときもある。
蕁麻疹が出たり、呼吸が苦しくなったことも。
いちばん苦々しいのは、旅行先でそれを食べて気絶して、目覚めたら帰国日だったことだ」

「去りゆく食べ物に未練はないの。
それとも残った食べ物に愛情が増す?」

皮肉だな、と言って彼は笑った。
はなから人間の消化器官は外界に干渉し、取り込み、分解して、世に置き去りにするだけの管でしかない。
それをいまさら拒絶するだなんて。
彼女はナポリタンをフォークでくるくる巻きながら、続けた。

「私たちは食べているものでできている、なんて言うけど、本当に私たちはそれを食べているのかしら。
食べているものがもつ意味を摂取している可能性もあるんじゃない」

「だとしたら僕が毎日壁が押し寄せてきていつか押しつぶされるように、食べられるものが減っていくのを怯えているのは、日々何らかの意味を消去しているってことかい」

「そうともいえる」

そうともいえない、と彼女は小さく言った。
そんな理不尽を許した覚えはない、という答えはジントニックと一緒に流し込んだ。
彼女の黒い髪はぴたりと頭皮に張り付いていて、バーのささやかな照明にぬらぬら光っている。
まさか会社のマドンナがここでこんな姿で自分と会話しているとは、他の人は夢にも思うまい。

「きみのナポリタンには何か意味があるのかい」

「お母さんが小さい頃よく作ってくれたの。
もう他界して味わうことはできないけれど、マスターのナポリタンがその味にとても似ている」

男は彼女に悟られないよう小さく咳をした。
美しさは、背中と首筋のあたりから漂うほの暗い匂いを覆い隠すことはできない。

「だから私はここで考え続けているの。
これまで散々フレンチやイタリアンや、美味しい料理をたらふく食べてきたのに、行き着く先がこんなまがいものの、記憶にもほとんど残ってない麺を延々と食べないといけないのかって」

「それがきみに迫る壁か」

「違うわ、永遠の祝福は、もはや呪いと同義なのよ」

彼女は猫のように目尻にためたやにをとろうともせず、はくはくと食べ続ける。

世界中に流行した祝福は、彼にかかっている病とはまったく種を異にするものだった。
生涯でもっとも愛した食物を、永遠に食べ続ける。
食欲は従来よりも減るが、それ以外は口にすることができない。排泄もできない。身体を衛生的にしたり、恋をしたり、買い物をする欲も徐々になくなっていく。
彼の同僚は、その祝福にかかった後、ゆっくりと腐りながら仕事の引き継ぎを行い、そしてどこかへ消えていった。


あのバーで出会って以来、彼女とは顔を合わせていなかった。
もう潮時かもしれない、とビール缶に煙草の灰を落とす。
ふと、ベランダから目をやると、ふらふらとどこかへ行く人々が目に入った。
お腹を満たし、思い出を満たし、乳白色の朝からガラス色の最果ての地と向かっていく。
それはゾンビと呼ぶにはあまりにも平和で、死と呼ぶにはあまりにも片付けられた行進だった。

彼は作る。日曜日のナポリタンを。
ケチャップがまだ食べられることを祈りながら。

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