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エッセイ|なのはな心療内科


菜の花。
暖かな春に咲く鮮やかな黄色の可愛い花。
その名前に引き寄せられるように選んだ病院だった。


久しぶりに外へ出る決意をした日。
春はもうとっくに過ぎていて、夏も超えて、秋も十分に深まった頃だった。
ようやく自分が少し壊れてしまっていることを自覚し、病院に行くことを決めた。


_ 当時、私は自宅から歩いて数分の歯科医院で働いていた。男性歯科医一人と衛生士の先輩と私だけの小さな医院だった。
事件のあった日、先輩は休みをとっていて、その日の勤務は先生と私の二人だけだった。

完全予約制だったので駆け込みでやってくる患者は稀で、この日の夕方の予約は入っていなかった。

午後の診療が始まり何度か電話が鳴った。
男性の声で、夕方は何時と何時が空いているのか?という問い合わせがあり、私は、「16時以降は空いております。」と伝えた。でもその電話は予約を入れるわけではなく、すぐに切れてしまった。

そのまま16時を過ぎて、もう患者も来ないだろうと、軽く診察室の掃除を始めていた。
いつものように床にモップかけていた、その時だった。

バンっと入口のドアが勢いよく開いて、黒ずくめの男が二人入ってきた。
うおー!と叫びながら飛び込んできて、一人の小柄な男は私を羽交締めにした。私は声も出ない。もう一人の坊主頭にメガネをかけた男は、奥のバックルームに走っていき鉢合わせた先生と何か口論しているようだった。

私を押さえていた男は、羽交締めを外し、後ろから片手で私の目を隠した。素手だった。もう片方の手で私の右手首を押さえた。たいして力は入っていない。逃げようと思えば逃げられたかもしれない。でもそうしなかった。背後の男が耳元で「ナニモシナイ、ナニモシナイ、ウゴクナ」と囁いていたからだ。小さなナイフのようなものを持っていたが、私に突きつけたりはしなかった。

私は黙って男に従った。男がぴったりと私の背中に張り付いている。そのまま受付に誘導され、レジを開けた。お金をすべて男に渡した。
それからバックルームへと移動し、その途中の床に倒れている先生の姿がちらりと見えた。
倒れた先生はタオルで目隠しをされ、右手からは血液が流れていた。私は息を飲んだ。先生はびくとも動いていない。この時、初めて私は死を覚悟した。

バックルームから出てきた男が倒れた先生に話しかけている。どうやら先生のクレジットカードの暗証番号を聞き出しているようだった。私はホッとした。先生は生きている。
カード番号をメモした男は、医院を出ていった。お金を下ろしにいったようだ。すぐ近くにはコンビニがある。

私はバックルームの椅子に座らされ、細いロープで椅子に縛りつけられた。
男の手がやっと私の目から離れ、代わりにタオルで目隠しをされた。しかし、ロープも目隠しのタオルもどちらも弛んでいて、すぐに外せることは明確だった。もしかしたらこの男は、こんなことしたくはなかったのかもしれない。ふとそんな思いがよぎった。

お金を下ろした男が戻ってくると、すぐに二人は出ていった。

自分のロープをスッとほどいて先生のところへ駆け寄ると、先生も同じロープで縛られていた。
ブルブルと震えてる手をなんとか動かして先生のロープをほどく。
先生の傷口をタオルできつくしばって止血する。それから警察に電話をした。
その後、すぐに警察が来て現場検証みたいなことが行われ、何人もの刑事に話を聞かれた。何度も何度も同じことを繰り返し聞かれ、それに対して同じことを答え続けるということを永遠に繰り返した。外はもう濃い闇に包まれていて時計を見ると、23時をまわっていた。

私はもうくたくただった。一刻も早く帰りたかった。救急車も来て先生が病院へ運ばれるのを見送り、だんだんと私も頭痛と立ちくらみが酷くなってきて、吐き気に襲われ、その場にしゃがみ込んだ。
後日、警察署へ行くことを約束して家に帰らせてもらった。


長い一日だった。
小説やテレビドラマの中での話だと思っていたことが、自分の身に起こったのだ。
正直、今でも信じられない。

まだあの男の気配が私の背中に残っている。
乾いた手の感触、カタコトの日本語、べたついた頭皮の匂い、落ち着きのない鼓動。

私は恐怖に怯えながらも、あの時どこか冷静な自分もいたような気がして…不思議な感覚をおぼえていた。


_ まだ太陽が高い時間。
バスに乗って病院へと向かった。

事件以来、私は外に出ることが怖くなり、家に一人でいることもできなくなってしまった。
仕事も辞めた。常に消えない恐怖心が私の背中にべっとりとペンキのように塗られている。うまく拭き取ることができず、数ヶ月間ただ何もせずに引きこもっていた。

バス停から歩いて5分ほどの場所にその病院はあった。たった5分ではあったが、まるで何時間も歩いたような疲労感に襲われた。なるべく人のいない道を選び、人とすれ違うことのないように。
全身の神経と細胞が、震えていた。
「大丈夫。大丈夫。」と必死に自分に声をかけ続けながら歩いた。


「なのはな」だなんて。小さく呟く。
今日この病院へ来た意味など、まるでなかった。

「PTSD ですね。お薬を出しますので。なくなったらまた来てください。」

最初に渡された問診票に、私は30分以上かけて今自分が心を痛めている理由を丁寧に書き綴った。
それをちゃんと読んだのかさえもわからない。一方的ないくつかの質問に答えただけで診察は終了した。
少し色の入った銀縁のメガネをかけた50代くらいの女医だった。数分の診察中も私の目を見て話すことは一度もなかった。カルテをパソコンに打ち込むのが精一杯だったようだ。

薬局で薬をもらい、来た時のように人混みを避け、数歩歩いては振り返り、また数歩歩いては振り返り。そうやってやっとの思いで家に帰ってきた。

どくんどくんどくん。重く波打つ鼓動が静まるのを待って、カバンから薬と診察券を取り出した。そしてそのままゴミ箱へ捨てた。
二度と行くことはないだろうから。

PTSD とかそんなことはどうでもよかった。私はもっと話を聞いてほしかった。怖かったね。よく頑張ったね。と、背中をさすって欲しかっただけだった。


_ あの事件の日から10年以上が過ぎ、もう心が痛くなることはなくなった。
相変わらず人混みは苦手だし、一人きりの留守番は怖いし、夜道をひとりで歩くこともできない。けれど、それでも、わたしの心はもう元気だった。いつまでも壊れたままではいられないから。


先日、偶然あの心療内科があった場所を通った。もう病院はなく、おしゃれなカフェに変わっていた。


つくづく思うのは、わたしの人生には幻のような出来事がたくさん落ちているのだなと思った。
確かにそこにあったはずなのに、いつの間にかその姿を消してしまっている。


ひっ掻いたら血が滲んでしまうような、小さな傷跡だけを残して。


この人生を選んだのはわたし


#エッセイ
#PTSD
#トラウマ

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