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マイお盆物語。ママと私のあちら側とこちら側。

今年もお盆がやってきた。

サマフェスみたいな口ぶりだが、ママが亡くなってからお盆は私にとって一大イベントになった。なので3年目の今年も私なりのお盆をやってみた。やってみたというくらい手探りでオリジナル。マイお盆。

まず8月13日のお迎え提灯。提灯を持ってお墓に行き、ローソクに火を灯し、家まで一緒に帰ってきた。と言っても車なので、車に乗る前に火は消して、家の前でまた火を灯すスタイル。

玄関の扉を開けて「帰ってきたよ」と声をかけて中に入る。ママの部屋にある私が作ったお仏壇、いや、オリジナル祭壇とでもいうのだろうか、その祭壇のローソクに火を移す。

これでようやくチェックイン。

話はちょっと横道にそれるが(いつものことだが)私はママが亡くなってからずっと仏壇を探している。仏壇屋を見つけてはあっちこっち見に行き、ネットでも探し続けている。けれどピンとくるものにまだ出会えていない。もし家に和室があったならば、お寺みたいにしたかったけれど、残念ながら家には和室はなく予算も限られていた。あるのはママの部屋だけ。ママの部屋は洋風でかわいいもので溢れているので、そこによくある仏壇をドンと置くというのは最初から私の選択肢にはなかった。かといって他の部屋には仏壇を置くスペースが全くない。嘘みたいなのだけれど、本当にないのだからしょうがない。

なので、私はママの部屋に合うモダン仏壇とかステージ型のミニ仏壇を中心に探し続けた。でもなかなかこれといったものは見つからなかった。もう自分で作るしかないと思ったけれど、工作なんて小学校以来したことないし、だいたい作って良いものなのかもわからなかった。もし『仏壇作りアドバイザー』とか『祭壇DIYコンサルタント』みたいな会社があったらお願いしてたと思う。悲しみをDIYを通して癒すみたいな、グリーフセラピーも兼ねるDIY。「無いならもう私が立ち上げるしかない」と真剣に考えるくらいあの時は追い詰められていた。

納骨の日がせまり焦った私は、あと少しで購入という所まで何度かいった。でも私の中の何かが「違う」と毎回訴えてきた。日にちだけがどんどん過ぎていった。一刻も早くこの『仏壇探し沼』から開放されたかった私は、とりあえず「仮だから」と自分に言い訳をして、家にあった空き缶や空き箱を組み合わせてひな壇みたいなものを作って、そこにちりめんの紫の布をかけて簡易的な仏壇のような祭壇をこしらえた。

一番上にはもちろん観音さま、その下にはママがずっと体に巻き付けていた小さな神様を3つ並べ、位牌を置き、ママが和紙に写して肌身離さず持っていたヨレヨレの写経、浅草観音で買った観音経と小さな般若心経、それにお守りなどを並べ、お花でいっぱいにした。

花と可愛いものが大好きなママの部屋とマッチしていて、友人からの評判も上々、なんだけど、やっぱり私の中にはずっと「仮」というのが頭にあって、今もまだ仏壇を探すのことをやめていない。全くあきらめが悪いというか、のんびりしてるというか、いい加減というか。もう3年だよ?

確かにこのスタイルは私の中でしっくりきているし「これはこれでいい」と思っている自分がいる。ただ布をめくった途端、何ともいえない感じになるのは否めない。空き箱と空き缶だからなぁ。その上に鎮座まします観音さまって、大丈夫なのか?やっぱり観音さまの所だけでも何とかせねば。まったくオリジナルにも程があるというもんだ。

話は変わるが、ママは生前、毎日お水と炊き立てのご飯をおじいちゃんとおばあちゃんにお供えしていた。と言ってもお仏壇ではなく、ママが和紙に書いた2人の戒名と写真の前に。私はずっと気に留めるでもなく、特に手を合わせるでもなくその前を通り過ぎていた。

ママが入院していきなり私は変わった。おじいちゃんとおばあちゃんに手を合わす日々に変わった。お水と炊きたてのご飯を、ママの代わりにお供えすることにしたのは当然だろう。

お水は問題なかった。お茶だってビールだってあげた。しかし、『炊きたて』のご飯は、私にはハードルが高かった。というのも毎日お米を炊く習慣が私にはなかった。私は食べるときに冷凍ご飯をチンするスタイルだったから。なので、入院中のママにすぐ電話で聞いた。

「ご飯は冷凍チンでもいい?」

ママはすぐさま、早口言葉みたいに言ってきた。

「炊き立て炊き立て」

「そうだよね、やっぱり」

聞くまでもないと思っていたが、これは私にとってはなかなか決意がいることだった。しかし亡くなった人にとって『煙は一番のごちそう』という話を聞いたことがあるし、とにかく今は神頼み、おじいちゃんおばあちゃん頼みなのだから、ご飯如きでグダグダ言ってる場合じゃない。私は毎日お米を1合炊いた。もちろん早炊きで。

入院して17日後、ママが亡くなった。あの頃の記憶は飛び飛びで曖昧だが、毎日ご飯を炊いた事だけは覚えている。あの時、おもしろ口調で言ってきたママの「炊きたて炊きたて」という言葉がずっと耳の奥に残っていて、私は毎日『炊きたて』を頑張った。というか、あの頃はそのためだけにベッドから起き上がっていた気がする。ご飯炊かなくちゃ、お花の水変えなくちゃ、お線香あげなくちゃって。なんたって時はコロナ禍、私にはたっぷりと悲しみに浸れる時間があった。溺れるほどたっぷり。

しかしあれから3年、今や『炊きたてのご飯』はかなりいい加減になった。今は月命日や誕生日、命日やお盆などのスペシャルな日か、私の冷凍ご飯がなくなったタイミングでお米を炊く時だけ。はぁ。でも大雑把といい加減なのは昔からだから、みんな大目に見てくれているはず。今はお線香と、お水と、お花と、お菓子、そしてビールで許してもらっている。

お盆3年目の私は、1年目から比べたら慣れたもので、盆棚まがいの祭壇を、なすやきゅうり、ほおづきで飾り、おはぎを買い、果物やお花をお供えしてママをお迎えした。そして今年は、ちゃんとお膳も出した。また一歩、進歩した。

お盆の初日、田舎の本家に顔を出した。ずっとお盆を仕切っていた本家のおじちゃんは去年亡くなりもういない。おばちゃんも病気なのでお盆どころではない。子供たちはもう家を出て久しいし、今年はどうするのだろうと思っていたら、外にでている従兄妹が当たり前の様にお盆を代わりにやっていた。

生まれてからずっと見てきているからだろうか、それなりにちゃんと盆棚が出来ていた。私が「すごいじゃん」と言うと、従姉妹のお姉ちゃんが教えてくれた。

「亡くなる前年にさ、お父さん元気だったんだけど、なんか勘が働いて、盆棚の写真を何枚か撮っていたんだよね」


その写真を頼りにやってみたのだという。両サイドにはちゃんと竹が立っていた。精霊馬のなすときゅうり、灯籠も2つ。花や供物もバッチリだった。ほおづきが棚の上にクリスマスのイルミネーションっぽく飾られていて、可愛らしくもある。完璧だった。今まで全く興味がない素振りだったのに。

おばあちゃんから、おじちゃんへ、そして従兄妹へ、バトンは繋がれていたみたいだ。

甲子園を見ながらのビール。
蚊取り線香とお線香の混じった香り。
何をするでもない時間。

いつものお盆がそこにあった。

帰り際、従兄妹のお兄ちゃんが「明日のお膳どうしよう」と頼りなく呟いた。明日はお兄ちゃんと病気のおばちゃんだけの日。そしてお兄ちゃんは料理が得意ではなかった。

妹が言った。

「とにかくお兄ちゃん、ポイントは5つだから」

お兄ちゃんは間髪入れずに言った。

「2つは菓子パンだな」

私は「なんと斬新な」と思って吹いた。去年亡くなったおじちゃんと、103歳であの世に行ったおばあちゃんが笑いながら言っていた。

「まったくしょうがねぇなぁー」

なので今年は私もお膳をやることにした。とにかく5つ。小皿を5つ用意してお盆に載せ、お膳を用意した。お箸の向きもバッチリ。なかなかちゃんとしていて気分がいい。大満足。

はて?去年とその前の年はどうしていたんだっけ?ママの好きな物を勝手に色々並べてた気がするが、記憶がない。

ただ1つだけはっきり覚えている事がある。絶対に忘れられないママからのサイン。

ママが亡くなって1年目のお盆。何もかも初めての私は、分からないことばかりだったので検索をしまくり、にわか知識を寄せ集め、慌てて準備をした。「新盆」という言葉もその時初めて知った。新盆は「白紋天」と呼ばれる白い提灯が必要だとか、迎え火には「おがら」が必要だとか「炮烙」とか「まこも」とか知らない単語ばかり。まるで新しい学問を勉強するみたいだった。小さい頃からおばあちゃん家のお盆を見てきていたけれど『見る』と『やる』とじゃ大違いだった。

それに正直なところ、気持ちがついていけてなかった。私はどうしてもママがお墓にいるとは思えなかった。

だって、いるなら大好きだった自分の部屋か、大好きだったデパートか、よく行ったスーパーか、行ってみたかった海外に決まってる。間違っても田舎の寂しい墓地じゃない。

車でお墓に向かいながら、まだ私は言っていた。

「迎えに行くも何も、どう考えてもママはママの部屋にいると思うんだよね」

でも私はちゃんとしたかった。できるだけちゃんと。ママは信心深い人だったし、仏教の人だったから。亡くなった時、観音経と般若心経の写経がいろいろな所から出てきたし、小さなお経をずっと体に巻いていた。絶対にママを助けてくれていたのが仏教だったし、観音さまだったから、私はやっぱりちゃんとやりたかった。でもそれ以上に、私が救われたかった。何かすることで心に空いた空洞を、急に襲ってくる荒涼感を、ぺちゃんこになってしまいそうな自分を支えたかった。

手を動かすこと、体を動かすこと。

あの時の私が辛うじて「生活」出来ていたのは、お盆や法要、お仏壇に毎日手を合わせるなどの昔からの風習があったからだと思う。何か型があり、それをなぞり形にすることは、私を無言で慰め、力になり、支えてくれた。

ずっと何も分からずただ眺めていたお盆。田舎くさい行事だなと思っていたこともあった。見向きもしなかったことさえあった。そんな時はいつも「お墓参りとかって、要は気持ちだよね」としたり顔で言っていた。今は分かる。「気持ち」と言っていたあの時の私に『気持ち』なんか全く無かった。

あの頃の私は恋に仕事に忙しく、世界の中心は『私』だったのでお墓参りなど入る隙がなかった。しかし、私のそんな態度とは関係なくお盆は脈々と続いていた。おばあちゃんが、おじちゃんやおばちゃんが毎年大事に守ってくれていた。大切な人を亡くして初めて、私はお盆の意味を知った。

そうそう。忘れられない思い出。

新盆のときのことだ。

お墓で火を灯し、ぶら提灯に乗せて家に帰ってきた。といっても車移動なので、車の中ではローソクを消し、家の前でおがらで火を起こし、もう一度提灯に火を灯す。

右手に火の灯った提灯をぶら下げ、玄関を開けた。家のにおいがする。

私はママに言った。

「帰ってきたよ」

その時だった。

提灯がしなった。

ローソクが入った傘の部分がグンと、下に引っ張られた。

柄がしなる。

ドンと、手に重さが伝った。

その時まで私は、新盆をやってるだけ、風習をただなぞっているだけで、行為そのものを信じていなかった。

でも、違っていた。
全然違っていた。

「ママ凄い」と思った。

どれだけ頑張ってくれたんだろうか。

それまでも、ママはあれやこれやと姿を変えて、私の前に現れてくれていたけれど、重さを直に感じたのは初めてだった。

お盆は遠い昔お釈迦様から始まり、推古天皇が盂蘭盆会を執り行ったのが始まりと言うが、令和の私がまだそのお盆をしていて、そして癒されている。お盆を繋いで育み、それを風習にしていった先人達。人間の知恵は計り知れない。私がお盆の凄さに気づくまで半世紀。全くノーマークだった。私ってやっぱり何も見てないし、観えてない。ブラインドスポットだらけだ。
トホホ。

大切な誰かを失った時、想うだけ、手を合わせるだけでは、悲しみから先へなかなか進むことはできない。昔の人はよく知っていたんだなぁ。身体を動かすこと、手を動かすこと、それがとてもよく『効く』ということを。

皆様、ありがとう。

お盆を意識してやるようになって私は気づいたことがある。この世界は死者と生者に分けられているわけじゃない。両方どっちも一緒に暮らしている。あたりまえみたいにゆったりと。私にはそうみえる。

普段何も考えずに生活していると、見えている世界が全て、自分が全てになってしまう。気がつけば、自分の気持ちばかりを見つめ自己憐憫に陥っていたりする。だからなかなか全体が見えてこないし、気づけない。

こっちの世界のことすらなかなか俯瞰して見れないのだから、死者の世界は余計に観れないし気づけない。それに死んだ人達って無口でシャイだし、とにかく地味な存在だから。見るもの聞くものに飛びついて右往左往してる私には、中々観えてこない。

でも、亡くなった人たちに想いを馳せて世界を見てみると、あちら側もこちら側もない、まあるいひとつの世界が私を包んでくれる。なんともゆったりとした気持ちになって、なんとなくこの世界の本当の姿に触れられたような、一部になったような感じがして、自然と謙虚になっていく。小賢しい私が消える。お盆とママの命日がある8月は、私にとってそういう気持ちを思い出す月になった。

日にち薬とはよく言ったものだ。ママの死から3年、今年の命日の私は去年までとは違った。いきなり悲しみに襲われ石になる事がなかった。多分、お盆や命日、毎日手を合わせることで、死者と生者、あちら側とこちら側を何度も何度も行ったり来たりしてるうちに、私の中でその境界線が段々と曖昧になっていき、いつしか無くなっていったからだと思う。

まあるいひとつの世界を感じる事ができるようになって初めて、私はママの生も死も受け入れられた。

最近の私は、ママの死をそれぞれあるべき所に仕舞うことができるようになってきた、ような気がしている。とりあえず洗濯機の中にいるような混沌からは抜け出せたみたいでホッとしている。私には3年必要だったみたい。


お盆の偉大さをしみじみ感じた夏。

今年も、提灯はしならなかった。

ママが渾身の力を使って提灯をしならせてくれた新盆以来、しなっていない。毎年期待しちゃう分残念ではあるが、これもママからのサインだと受け止めている。

『安心している』というサイン。

ママが亡くなってからの私はふらふらで、だらしなくてよれよれで、見るに堪えなかったはずだ。だからママはものすごくわかりやすいサインを私にたくさん送ってくれた。

その1つが新盆の提灯。

私はママが逝く前に「心配しないで、私は大丈夫だから」と言った。約束した。だけど全然大丈夫じゃなかった。

それはもう気が気でなかったと思う。あちら側から気を揉み心配するママがはっきり浮かぶもん。

そりゃあ出てきちゃうよね。

生きてる時も死んでからも、
本当に心配かける娘だよ、私は。

ごめん。
そして、いつもありがとう。

これからは本当に大丈夫だから。
ママ、心配しないで。

でもたまには出てきてね。
あちら側からこちら側に。

まあるいひとつの世界。

同じ世界の住人なんだから、
ひょいっと気軽に現れてよね。

よろしくね、ママ。



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