見出し画像

「言語」は、もっとも身近な仏門。

夏目漱石は、一時期、英語の教師だった。
「I love you」を「月が綺麗ですね、と訳せ」と言った話が有名である。

僕の勝手なイメージだが、日本人は彼のこの逸話が非常に好きだ。少しでも夏目漱石の話題が出たら、「漱石が月をうんぬんカンヌン」と言い始める人が必ず居る。
しかし、この逸話は後世に作られた創作である可能性が高い。なぜなら、漱石がこのように言い放った、という文言はどこにも残ってないし、彼を知る人物も「漱石がそう言っているのを見たことがない」のだそう。
また、この逸話の「月が綺麗ですね」の文言には多彩なバリエーションがあって、一体何が本当なのか、わからないような事態になっている。
まぁ、真偽の程は置いておこう。
もし現実にそのように誰かが訳していたとしても、意訳の範疇ではある。僕個人の意見だけ言っておくと、「おいおい」という感じ。

ただ、仮に漱石が本当にそう意訳していたとして、漱石が伝えたかったことは、やはり「誰かを好きだという気持ちは、安易に言葉にはできない」ということではないか。
母国語の他に外国語を扱うことができる人間にとって、「外国語をいかに母国語に翻訳するか」という壁に、必ずぶつかると思う。正直、これはかなりの苦労というか、哲学だろう。
それが趣味であっても、これを通して学べることはとても多いように思う。

意外と見落としがちだが、そもそも「考える」という行為は、「言語」が無くてはできない。
また、一つ一つの言葉には意味があり、厳密では無いにせよ、僕たちはその意味をなんとなく理解している。そのなんとなくの意味で他者とコミュニケーションをとったり、自分の中で自分と会話をしたり、思考をしたりする。
誰かに対する感情も、その人の印象も、全て自分が知っている言葉で定着させる。
もちろん、まだ自分の中で言葉になる前、始めは対象への「ぼんやりとした感覚」だろう。しかし、そのぼんやりとした霧のような感じは、頭の中で即座に「言葉」として形作られる。
僕たちの意識は、その言葉を捉える。その段階でやっと、「自分はこう思っているのか」と自覚する。時には、「腑に落ちる感覚」を得て安心したりする。
そこまで、まるで自動操縦化のように、脳内では流れるように作業が行われている。その間、ほんの1秒も要さないのではないか。

「感じる」と「思う」は違う。「感じる」まではその一瞬の流れだが、「思う」の段階までくれば、能動的だと言えるだろう。「感じる」はまだぼんやりとした感覚だが、「思う」はほぼ言語化が完了した、頭の中の言葉だ。
人間は、こんな些細な感覚や心の機微においても、どこかに着地しなければ不安になる生き物だ。抽象的な感覚も大切だが、具体的に言葉で「こうだ」と知っておかないと、どうも居心地が悪くなる。試験の結果を待っている時のような、ソワソワした感じを少しでも無くしたい。
そして、一度でも言葉で定着させてしまうと、もう2度とそれに対する「印象」を変えない。その方が安全だからだ。
僕がよく言うことだけど、人間はコンピュータのようにいつも自分を点検しているわけではない。
一度、こうだと思ってしまったものを、改めて洗い直したり、考え直すことはほとんど無いだろう。
言語学者にせよ、趣味で母国語や外国語を学んでいる人にせよ、言葉に対する造詣が深い人は、この機会に恵まれることが多いはずだ。読書をする人も、比較的そうだと思う。言葉の意味を厳密に考える機会が多い。

ここから先は

1,088字
10分もかからず読める。つまり、なんか読書した気になれます。「気になれる」ということが大切。この世の全ては「錯覚」ですからね。

最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?