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子どもの「創造」するメンタルモデルを伸ばしたいのです

 子どもが自分の未来を創造する…これは、多くの人が望んでいること(のはず)ですが、子どもが多くの時間を過ごす学校は、本当に子どもが自分の未来、自分が生きる社会の未来を創造する経験を積める場所になっているのでしょうか。

 もっというと、そもそも「創造」という行為が、どれだけ学校の中で可能なのでしょうか。



1 学校で、子どもが「創造する」場は多くない

 

 そもそも、「創造」とはどのような行為を指すのでしょうか。

 この「創造」を理解する上で、とても整理されていたのが、最近発売された太刀川英輔『進化思考―生き残るコンセプトをつくる「変異と適応」』(海士の風 2021)です。

 

 例えば、「創造」における「変異」は、次の9パターンに整理できるとしています。

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 太刀川英輔『進化思考―生き残るコンセプトをつくる「変異と適応」』(海士の風 2021)p85より引用


 
 具体例も書かれていて、「創造」における「変異」は、確かにこの9パターンで説明がつくのではないかと感じました。
 

 例えば、書籍から引用すれば、カレーうどんや車椅子などはとてもわかりやすい「融合」です。自動車は、馬の「欠損」した馬車であり、馬がエンジンに「交換」された馬車といえます。スーパーマーケットは商店が大きく「変量」したもの、dysonは、扇風機の羽根をいわば「欠損」させ、羽のない扇風機を開発しました。

 

 おそらく、今もこれから先も、このような「創造」は、世の中をより良くしていくでしょうし、誰もが大なり小なり、日々「創造」しているかと思います。

 
 では、この9パターンを「創造」の具体とした場合、学校ではどの程度、子どもが「創造」する場面があるのでしょうか。



 自分は小学校勤務が(それなりにですが)長いので、小学校で考えてみました。
 


 算数や理科…解き方や実験計画・考察の中で、「交換」したり「融合」したりはあるかと思いますが、あくまで教材の中に限定されることが多いです。


 国語や社会…自分の生活に結びつける学習ならば、学習内容を「創造」的に扱っている感じがします。知識を反復的に身につけている場合は、そうでもなさそうです。


 図画工作…テーマや教材によりますが、絵を描くにしろ造形するにしろ、割と「創造」が見て取れそうです。


…あまり「創造」が前面に出ている感じはしません^^;



2 多くの教科は「自由度」を保障しにくい

 

 学習指導要領によって、各教科の目標や学習内容の大枠が定められています。


 また、準拠した教科書を使用しています。


 つまり、多くの教科については、子どもが試行錯誤して「創造」することをあまり許容していません。


 「いや、○○には~~といった創造的な学習が考えられますよ」という声が聞こえてきそうですが、目標や内容を定めてしまっている点で、それ以外は目標から逸れた学習とされてしまいます。


 資質・能力ベースとはいいつつ、現状の教科や内容にセクション分けされている状態では、セクションを超えるような「創造」は、時間的余裕のなさや、集団で同じ内容を学習していること等から、あまり良しとはされません。


 これは、子どもが生活する上での選択肢の少なさ、ひいては「自由度」の少なさにもつながるかと思います。



3 基礎がなければ「創造」できない?

 

 「いやいや、基礎的な知識や技能がなければ、創造なんてできないでしょ」という意見もあるかと思います。

 確かにその通りなんです。

 
 クリエイティブディレクターの水野学さんが、著書で「センスは本人の努力による知識の集積」という表現をされています。

(六本木未来大学『0→1(ゼロトゥワン)を生み出す発想の極意』日本経済新聞出版2018 pp.13-43)

 


 例えば、映画のセンスがある人は、映画が好きで好きで、人よりものすごい量の映画を観ているはず、と述べています。


 また、これは自分の解釈ですが、例えばあまり経験がないのに、あるスポーツが上手な人も「センスがある」とされます。これは、それに類似した動きの経験が豊富だったり、イメージが蓄積されていたりするものだと考えられます。



 つまり、「創造」するセンスの源には、知識が不可欠です。


 ただ、「本人の努力による」という点でどうでしょう?


 「やらされている」ものにそれほど努力はできないように思います。

 また、この「努力」も、他者は努力と見るかもしれませんが、当の本人はやりたいことをやっているだけというのはよく耳にします。

 

 現状の学校制度では、制度がフィットしている子にとっては良いのですが、そうでない子にとっては、「創造」につながるセンスは積み重ねられにくいように感じます。




4 学校で、子どもが「創造する」場は多くない…多くしたい


 こうなると、教科で目標や内容が定められている中で、「創造」する経験を積むことが少なくなる…ということは、「創造」しようとするメンタルモデル(人間が無自覚のうちに持っている、思い込みや価値観)自体を失いかねません。

 すごくざっくり言えば、言われたことをやるだけの子になってしまうということです。

 

 総合的な学習の時間や特別活動などでは、「創造」的な学習がしやすいです。しかしながら、1週間のほんの1~2割程度です。


 「創造」しようとするメンタルモデルが、失われる、もしくは培われていないというのは、社会にとって、何より子どもたちにとって損失だと、自分は考えます。


 体系化された知識はインターネット等で手軽に収集できるようになりました。

 「創造」しようとする場面を設定しつづければ、子どもは無自覚でも努力し、知識を収集するでしょう。


 もっともっと「創造」するような学習や活動が増えていくことで、より明るい未来につながると考えています。



5 終わりに

 かなりざっくり書いてしまい、何だか内容が薄いような濃いようなという文章になってしまいました笑

 

最後までお読みいただきありがとうございました^^ 


気になること等ある方は、ぜひコメント欄にお願いします☆


 


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