見出し画像

突如舞い降りた精神安定剤

数年前のある日の夕方、当時勤めていた会社で一時期だけ社内便の仕事を任されていた私は、配達先の千葉から外環道や首都高を経由して、本社のある東京に戻ろうとする途中だった。

平日夕方、都内の高速道路に渋滞は付き物で、その日の渋滞は特に酷いものだった。普段なら混雑していても10km/hあるかないかぐらいの速度で動くはずが、今日に至っては微動だにせず、完全に鮨詰め状態を喰らってしまった。

「ツイてない、これじゃ今日も定時帰社はお預けだな」

ナビが案内する到着予定時刻は、おおよそ6時ごろを示している。一応念の為、会社には到着時間の旨の一報を入れておいた。伝え終わると一つ、溜め息がこぼれ落ちた。

連日残業続きだったうえ、今日も今日とて重たい荷物を出し入れする作業の繰り返しに、私の身体はあちこち悲鳴を上げていた。
あと一日働けば休みが待っているのに、肝心な体力はもうすでに底をつく寸前だった。こんな状態で、明日をどうやって乗り切ればいいのだろうか。

八方塞がりで途方に暮れ、また一つ溜め息がこぼれ落ちようとしたところ、突如ラジオから一つの美しい音楽が流れ、思わず耳を傾けた。

私の好きなグルーヴ感に、煌びやかなサウンドが入り込む。ヴォーカルは中性的な女性っぽい声で、日本人なのかわからないまま「feel」かまたは「get down」しか聞き取れない歌詞らしきものがビートを刻むように繰り返されていく。

そして間奏に入る寸前で、ピアノが歌い始めた。それと同時に、渋滞の列が徐々に動き始めた。

次第に車は速度を上げ、真っ赤に燃え尽きた夕日が沈んでいく方角に向け、ビルとビルの間を次々と駆け抜けて行く。一人車走らす首都高。今の私は、私しか知らないゾーンに包まれている。

しかしそれも束の間、私の心を解き放っていたその音楽は、途中で急に交通情報という音声に切り替わってしまった。

一瞬の出来事だった。無事に戻っては帰る支度を済ませ、タイムカードを切って会社を後にした頃には、それまで抱えていた疲れが嘘のように吹っ飛んでいた。

それよりも余韻がまだ残ったままで、あの時流れていた曲はなんだったのか、とにかくもう一度聴きたくてしょうがなかった。

家に帰るとすぐさま題名を探ろうと、J-WAVEのウェブサイトからオンエア情報を遡って調べてみた。そして、その時に耳にした時間帯の曲名とアーティストにはこう記されていた。

「Let It Flow - Kan Sano」

翌日、仕事帰りに最寄りの駅近くにあるタワーレコードに寄り、収録されているアルバムを購入し、家に帰ってはひたすらヘビーローテーションし続けた。
体感としては大袈裟かもしれないが、三日ほど飯がなくても困らないほどに。

あれから数年経った今でも、Let It Flowを聴くたびにあの情景が思い浮かび上がる。それと同時に、突然溢れ出しては心に染み付いていた怒りや哀しみなどといった負の感情が、ゆっくりと剥がれていくような感覚になる。

それは私の心と身体が擦り切れる寸前で、まるで空から降りてきた、どんな薬よりも効き目があり、なにより一番信頼できる精神安定剤だ。
もしそれに副作用があるとするなら、半永久的にリピートしてしまう、ということを敢えて補足しておこう。



この記事が参加している募集

思い出の曲

最後までお読みいただきありがとうございました。 またお会いできる日を楽しみにしています!