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…だなんて言えないことばかり

東京・お台場からゆりかもめや地下鉄に乗って帰る時、なぜか聴きたくなる曲がある。

別段、心が抉れてしまいそうな失恋にあったわけではない。まずここ数年恥ずかしながら、大なり小なり恋愛自体することなどまったくなかった。

ここ直近で、1〜2年に1回のペースでZeppダイバーシティや東京ビッグサイトに訪れる機会がコンスタンスにある。
それも今日、片方の会場にて年に一度のビッグイベントが行われており、私はそこに足を運んでいたのである。

数年前に初めて一人でお台場へと踏み入れた当時は、それこそ人一倍も抵抗があってなおかつ勇気もかなり必要だった。

それが今となっては、まるで「おひとり様です」なんて文言の書かれたプラカードを堂々と首にぶら下げているかのように、平然と人混みの中に割って入っていっている。

そこに単独で入り込んでいく中で、不安というものは感じていない。今となっては、使い慣れたスマホが私たちの生活に根強く張っている分がある。
とんだアクシデントに見舞われたとしても、その場で自分の知識で浮かばないものを調べさえすれば、あっという間に解決できるものだ。

それをいえば、世の中はますます便利になっていくのを実感できるものである。
だが、どれだけスマホやPCを通じてだだっ広いネットの世界で「人との接し方」などを調べようにも、私は自分にとって最もらしい答えを得ることができないのだ。

無論、GoogleやYahoo!などをはじめとした検索エンジンで、それに付随した単語を組み合わせて調べさえすれば、やがて自分の求めていたものに辿り着けるはずである。

けれどそれらのサイトで取り入れたとしていざ自らの口で発しようとするも、その借り物だけで自分をうまく取り繕うとするにも、どこか自分の言葉ではないもしくは自分ではないような違和感を少なくとも覚えてしまっている。

自分がこの場において、たどり着かせるべき結論がまばらな状態であることに気づいていないのだ。自分をうまく表現するにも、相手の表現を汲み取るにも。

なぜ今まで、言葉のキャッチボールが苦手だからという単純な理由でパスしてきたのだろうと、己を責めずにはいられなくなってしまう。

そう考えた時に私にとって、自分の人生が尽きるまでまとわり続ける永遠の課題なのかもしれないと思うのであった。

最近になってはいくらかあの頃よりかは人と話せるようにはなったものの、もしかしたらそれは単に仮面なるものを一時凌ぎとしてやり過ごす一つの手だと、そう自分を疑わざるを得ないものである。

もしかしたら「好き」とか「会いたい」だとかいう言葉を、下手したら人前で口にすることなど、この先一度もないかもしれない。
だなんてことをiriの「言えない」を、ひとときの余韻に浸かって帯びた熱を無理やり覚ますように繰り返し聴きながら、その場所を後にするのだった。


最後までお読みいただきありがとうございました。 またお会いできる日を楽しみにしています!