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コロナ禍を機に新部署を立ち上げ、静岡に転勤し、東京に転勤した話

13年間勤めた美容ディーラー・ミツイコーポレーションを4月30日付けで退社し、5月1日より別の業界のスタートアップ企業に転職する金丸(35)です。

本日は「キャリアの振り返り3部作」の下編、「新部署立ち上げ編」を書きます。
↓プロローグ・上編・中編はこちらから

新しい部署を立ち上げたい

話は3年連続MVPを受賞し、ユニットリーダーを任された後に戻る。

リーダーを務めても払拭することのできないモヤモヤ、やり場のない熱意があり、僕は何かを求めて本を読む様になった

何冊も本を読む中で衝撃を走るほどの感銘を受けたのが、森岡毅氏の書籍「USJを劇的に変えた、たった一つの考え方」だった。

僕はこの本に出会って、初めて「マーケティング」と言う概念を知った。

これまで営業として「売る」ということしか考えてなかった僕が、「売れる必然を作る」というマーケティングの考え方を知った。

その「マーケティング」の魅力に惹かれ、自分も「マーケティング」を実践したいという思いが芽生えた。

まだ、この会社で誰もやったことのないことに挑戦したい。
そして、世界を大きく変えるような変化を起こしたい。

そう思い、僕は「マーケティング部署」の立ち上げを会社に提案した。

当時入社7年目の30歳。
営業職は部長・役員を目指してキャリアップしていくことが通例で、キャリアパス、ましてや新しい部署を立ち上げるなんてことは前例がなかった。

けれど、僕が次に情熱を注ぐのはこれしかないと思い、勇気を出して役員を部屋に呼び出した。
そして、新たな部署の立ち上げを提案する「キャリアプランシート」をもとに熱弁をした。

すると、その役員はYesともNoとも言わず
「じゃあ、来年のコンテストのリーダーをやってみようか」と言った。

コンテストのリーダーと、その先

“コンテスト”というのは、美容師さんがカットやメイクなどのデザインを競い合うイベントのことだ。

創業当時から行っている、会社の代名詞のような企画である。
名古屋では開催8年目を迎え、東海地区最大のコンテストにまでなっていた。

会社の重要なイベントを営業職であり、まだ30歳の僕が任される。

「これは試されている。」

このイベントの成功の先に、新たな部署の立ち上げが待っている。
そう頭の中で算盤を弾き、僕はリーダーを引き受けた。

入社史上、最大の大失敗

僕は、またとないチャンスに胸が熱くなっていた。

モヤモヤして何かを求めて読んだ本から得た知識。
「マーケティング」を実践する場がようやく訪れたからだ。

僕はまず、同期3人で最少のチームを組んだ。
人数が少なければ少ないほど誰にも邪魔をされず、意思決定を早くでき、スピード感を持って実行できると考えたからだ。

そして、成果を他の誰かにお手柄として盗られたくないと思ったからだ。

僕は、これまで「こうあるべき」と思われていたコンテストを大きく変えた。

本から学んだフレームワークにのっとり、戦況分析をし、目的と目標を明確にし、戦略と戦術を立てて実行をした。

これまで「不」となっていた要素を排除し、新たな取り組みをたくさん始めた。

目標は「歴代最多の出場申し込みを得る」こと。
僕は自信しかなかった。

しかし、実際に申し込みが始まると期待に反してエントリーは増えていかない。
予想外の結果に焦り、次々と施策を打つ。

しかし、施策を打てども打てどもエントリーは増えない。
結果は、「歴代最少の申し込み」に終わった。
勝負は惨敗だ。

しかも、コンテストを運営するには多額の費用がかかる。
新しいことをどんどん始めて出費が増えたのに対し、申し込みが少なかったことにより、多額の赤字が出た。

その赤字により「コンテストは今年で中止」と言われるまでの大きな事態になってしまった。

とんでもないことをやってしまった。
最悪の結果だ。
責任が大きくのしかかる。

この時の大失敗により、僕に対する社内の風向きは一気に変わった。

それまで新人賞を獲得し、MVPを3年連続受賞、ユニット賞も受賞していた僕は社内で一目置かれていた。

その頃は誰も僕には意見をしなくなっていたし、僕は周りに意見を求めることもせず、自分の選択が全てだと思っていた。
完全に「調子に乗っていた」

しかし、流れは一夜にして変わる。

ある時を境に、僕は社内で一目置かれる存在から、社内で関わってはいけない人間になった。

これまで黙認されていたことが通らなくなり、提案は棄却され、周りからは人が離れていった。
声を上げても僕の声はもう届かない。
その状況は、中々改善することはできないと徐々に実感していく。

入社してからそんなことは始めてだった。
改めて、とんでもないことをやってしまったんだと思い知る。

そして、営業の世界は「結果によって天国にも地獄にもなる」ということを痛感した。

結果を出している時は多めに見てくれるが、結果が出なくなった瞬間に見向きもされなくなる。

僕はこの時に初めて、営業の地獄を味わった。

コロナ禍に突入

その後も声が届かない、もどかしい日々を過ごしながら、粛々とインプットだけは続けていた。

悔しさをぶつけるように、ひたすらいろんな本を読んだり、ラジオを聴いたり、オンラインサロンに入会して、情報を入れ続けていた。

暗闇の中、見えるか見えないかも分からない光を目指して。

すると突然、転機が訪れる。
-2020年 新型コロナウイルス感染拡大

人類史上初めての出来事である。
世の中は不安に襲われ、緊急事態宣言、ステイホームなど、前例のない対応を迫られた。

僕が勤めている会社も難しい状況の中で判断を余儀なくされ、「在社勤務」という措置をとった。

それは会社には出社して、お客様の元へは訪問せず、会社にいながら価値を届け、売上を上げることを意味する。

休業や、在宅勤務などの措置を取る会社が多い中で異例の対応だった。
社員も初めてのことでどうしていいかわからず、不安や不満を感じている人も多くいた。

この時、周りが混乱している姿を目にして、僕には光が差した。

変化を余儀なくされてきた、逆境に強い世代である。
こういう時にこそ強さを発揮できる。

そして、正直に言えば自分の劣勢をひっくり返すチャンスだと思った。

自分にはもう失うものはないし、勇気を持って果敢に攻めるしかない。

そんなことを思って、僕は僅かに差す光に向かって立ち上がった。

リアルからオンラインへのシフト

その時に掲げた戦略は「この状況下で、顧客に価値を届け続ける」こと。

戦術は「これまでリアルでやっていたことを、オンラインに置き換える」こと。
つまり、オンラインでこれまで通りの営業を行うということだ。

緊急事態宣言が発令されようが、世間が在宅勤務になろうが、営業している美容室はあった。
そして、美容師さんたちも不安を抱え、正解が分からない中で現場に立っていた。

僕たちが手を止めるわけにはいけない。
お店に訪問できなくとも、こんな時だからこそやり方を変えて、役に立てることを考えるべきだと思った。

しかし、会社はこれまでリアルを大切にしてきたので、オンラインのノウハウは一切ない。
専門部署もない。

誰もやらないなら、誰かがやるのを待つのではなく、自分がやるしかない。

そう思い、一気にコロナ禍のロードマップを描いて指し示した。

情報発信はLINE公式アカウント。
一対一のコミュニケーションはLINE。
エンタメはYouTube。
アポイントはzoom。
セミナーはウェビナー。

リアルをオンラインに置き換えて価値を届ける戦術。
それは会社の判断で大きく変化させるのではなく、あくまで自分起点の変化だ。

予算も与えられていない。
当時、会社にオンラインのツールは導入されていない。

早い対応が求められる中で、僕は毎日帰りに本を買って、家に帰って本を読み、提案書を作成して会社に提案する、というサイクルを回し、一つずつオンラインツールを会社に導入していった。

例えば、オンラインセミナー。
これまでリアルで行っていたセミナーをオンラインで届けたいと思った。

それは、何の設備もなく、パソコンのインカメラ・内蔵マイクでただzoomで話すだけのことをオンラインセミナーと呼んでいたところから始まった。

「もう少し映像を綺麗にしたい」「音声をクリアにしたい」「人が動いている姿を見せたい」。
そんな要望をどうやったら叶えられるか一つずつ調べていき、会社に提案をし、改善を繰り返していった。

オンラインセミナーは特にコロナ禍の代名詞となり、2年間で600本以上配信してきた。

会社としても正解が分からず、どのように動けばいいか分からない状況だったので、その時には信頼が地の底まで落ちていた僕の提案でも通りやすくなっていた。

誰1人置いていかない

そして、僕はコロナ禍の時に最も気をつけていたことがある。
それは「誰1人置いていかない」ということだ。

コンテストで過去最多申し込みを目標にしながら、過去最少の申し込みという大惨敗に終わった理由。

それを僕は、「人を見ていなかったから」だと反省した。

僕は「マーケティング」に捉われ、戦略と戦術にこだわった結果、全く人を見ていなかった。

実際にお客様に提案をして、申し込みをもらう営業。
申し込みをして、コンテストに参加するお客様。

当たり前のことなのに、頭でばかりで考えて、人を見ることが抜けてしまっていて、大惨敗という結果を招いた。

だから、次にもしチャンスがあればその時は「誰1人置いていかない」ようにしようと決めていた。

「マーケティング思考」を元に、戦略を決めて正しい方向に導く。
そして、最も大切なことは戦術を実行する「人を動かす」こと。
いや、「自ら人が動く」「自発的に動き出す」ようにすることだ。

だから、今回は戦略を明確に決めて方向を指し示した上で、戦術の実行に関しては僕は一歩引いた。
戦術を実行する人が成功するように道を作ることに専念をした。

戦術を実行し、成果を上げた人は、世界をほんの少しだけ自分の手で変えたという手触りを覚える。

困難の状況の中で、社会に役立てたという手触りが快感になって、周りを巻き込みながら前に進んでいく。

名古屋から始まったその渦は、静岡・北陸・大阪・東京とエリアを超えて大きくなっていく。
そして、気づけば社員全員が同じ方向に向かっていた。

その時、最前線に僕はいない。
最前線にいるのは社員のみんなで、僕は渦の真ん中でその渦が消えないよう、渦が大きくなるように動いていた。

「マーケティング」において、最後に実行するのは“人”だ。
僕はこの時に、自分一人では決してできることのない、人を巻き込んだ時の大きな力を感じた。

戦略や戦術は元より、社員一人一人が使命感を持ち、自ら動いた結果、コロナ禍という逆境で、会社の歴史上最高の売上を記録した。

僕はようやく長い暗闇を抜け、みんなで光を掴み、大失敗を払拭することができたのだった。

新部署設立・静岡本社転勤

コロナ禍を機にその後も業績は順調に推移していた2022年の6月。
遂に、その時が訪れる。

役員に呼ばれ、「新部署の立ち上げ」を言い渡された。
僕にその言葉を告げたのは、僕が呼び出して新部署の提案をし、コンテストのリーダーをやらないかと言ってきた役員だ。

4年越しに願いが叶った。
コンテストは大惨敗に終わり、目標は遠のいていたが、コロナ禍の僕の動きを認めてくれた結果だった。

しかし、続いて出てきたのは予期せぬ言葉だった。

「静岡本社に転勤で。」

新部署立ち上げの条件は、本社へ転勤をすること。
転勤は全く頭になく、晴天の霹靂だった。

僕が作りたいと言っていた新たな部署は、全社を動かすマーケティング部署だ。
役員が在籍している本社に身を置くことは当然と言えるだろうが、本社に転勤するなんてことは考えてもいなかった。

しかし、4年越しにようやく掴んだチャンスである。

僕は妻の反対を押し切り、まだ幼い子供を置いて、本社に転勤することを決断した。

初めての単身赴任

家族を名古屋に置いての転勤。
つまり、それは単身赴任することを意味する。

結婚するまで実家で過ごし、結婚を機に実家を出たので、僕はこれまでの人生で一人暮らしをした経験がなかった。

33歳にして、初めての一人暮らしだ。

ご飯の炊き方も、洗濯機の使い方からアイロンの掛け方まで何も分からない。

見ず知らずの土地で、自分一人では何もできない状態から僕の初めての一人暮らしは始まった。

月曜日の始発で名古屋から静岡に向かい、金曜日の夜に静岡から名古屋に帰ってくる生活が始まった。

デジタルブランディング-本社編-

その年の冬の全体会議にて、辞令が言い渡された。

「デジタルブランディング」。
それが新しい部署の名前だ

名付けたのは役員の人たちだ。
僕は「マーケティング」という名前になることを期待していたが、役員の人たちの願いもあって「デジタルブランディング」という名前になった。

僕は全てを名古屋に置いてきた。
今まで積み上げてきた売上、長年担当して信頼関係を構築してきたお客様、そして共に働いた部下たち。

僕は静岡に来て、何もないところから始まった。
あるのは部署の名前だけで、仕事はまだ何もない。

「パソコンに年代ごとに社員と名前が表示されるようにして欲しい。」
本社に赴任して最初にした仕事は、社長から要望されたPCのスクリーンセーバーの画面の作成。

新部署を立ち上げたものの、待ってても仕事は降ってこない。
なぜなら、明確な役割があったわけではなく、誰も僕が何をやりたいかは知らないからだ。

何もなくなった僕は、ゼロから全てを作らなくてはいけない。
何もしなければ誰の役にも立てず、このまま忘れ去られてしまうかもしれない。

そんな不安を払拭するためにも、僕は初心に戻ってどんどん仕事を取りに行った。
ダブついているなと感じたところに顔を出して、どんどん仕事を巻き取った。

特に、本社に在籍している役員の人たちのボトルネックになっている仕事は進んでやった。

政策発表会用の原稿作成、スライド作成、動画作成。
全社企画で行っているセミナーの配信サポートに付き添った全国出張。

これまで営業の時にはやってこなかった仕事に挑戦して、「ライティング」や「動画編集」など新たなスキルも身についた。

どんどん仕事を巻き取っていたので、やることはたくさんあった。

しかし、本社に赴任をして半年ごろが経った時にあることが頭の中をよぎる。

「自分がやりたいことって、これだったのだろうか?」

役員の仕事を巻き取り、役員からの信頼は高まった。
役員のやりたいことを吸い上げて形にし、社員に落とし込んでいくことが主な仕事になっていた。

家族からの反対を押し切り静岡に単身赴任をして、何も仕事がないところから始まり、やることはたくさんある。
役員から評価されていることを肌身で感じる。

けれど、僕がやりたかった「マーケティング」とは「役員と社員の橋渡し役」だったのだろうか。
お客様の元へ足を運ばず、一週間の大半を会社内で過ごす日々を送る中でモヤモヤしていた。

そんな疑念が湧いていたある時、運命の声がかかった。

東京への出張

疑念を湧きながら社内で仕事をしている姿が気になったのだろう。
名古屋時代の上司が、会議で本社に来た際に僕の姿を見て声をかけてくれた。

「今度、東京でこういうセミナーを開催するので受けに来ない?」

この言葉を機に、僕の人生は大きく針を動かした。

東京に足を運び、「経営者」と呼ばれる人たちと直接話をする機会を何度も頂いた。

そこで「経営者」の人たちから出てくる言葉に衝撃を受けた。
僕が知っている世界とは違う。

「東京」という環境は、他の環境に比べてあまりにもスピードが速い。

僕の知っている世界は「東京」からしたら既に過去だ。

「東京」という日本の中心であり、人口が最も多く、競争の激しい環境だからこそ、経営者の人たちは生き残るために必死に学び、動いていた。

そして、東京には自分と同世代や、自分より若い経営者がたくさんいて、結果を出していた。
東京では、もう僕の年齢は若くはない。

「東京」という市場にあまりにも違いを突きつけられて、焦り、ショックを受けていた。

「ずっと外に出ずに会社にいて、役員と社員の橋渡しをし、役員に褒められて満足している」

どこかでこのままじゃいけないと気づいていたのに、その思いに蓋をして、平穏な日々を過ごしていた。

僕は「東京」に思いっきりビンタをされて目を覚ました。

「自分の人生、このまま終わるわけにはいかない。」

そして、決意をした。
「東京に行こう。」

東京への転勤希望

僕は元々、名古屋で生まれ、名古屋で育ち、名古屋という環境が全てだった。

名古屋支社に配属され、他のエリアの話を聞いても「他は他」と言った調子で全く耳を貸さなかった。

けれど、静岡に転勤をし、東京を見たことで、「環境」によってこんなにも違いがあるということに気付かされた。

「売れる必然を作る」マーケティングをする為には、一番の激戦区から生まれる最新の情報・取り組み・人を知ることは欠かせない。

僕は、「東京に行かなければいけない」と使命感に駆られた。

とは言っても、静岡に転勤をしてきてまだ一年も経っていない。
それなのに、部署を立ち上げたいと言った後に、今度は東京に行きたいなんて言ったら何て言われるか分からない。

けれど、東京に行きたい気持ちは抑えきれず、僕は再び東京転勤を希望するキャリアプランシートを作成して役員を呼び出した。

例によって、新部署の立ち上げを提案し、新部署立ち上げ&転勤を言い渡されたあの役員だ。

恐る恐る東京に行きたいことを伝えると、その役員の反応は意外なものだった。

「バレたかー。」

静岡で仕事をしながら東京のお客さんに触れたことで、遅かれ早かれ僕が東京に行きたいと言い出すのは分かっていた、ということだった。

その役員の言葉に自信をもらい、いろんな人の後押しもあって僕の東京転勤は一気に決まった。

静岡に転勤してからわずか一年後、2023年の冬から僕は東京に身を移す。

東京での仕事

僕は、「役員と社員の橋渡し」の仕事を全部置いてきた。
それは事実上、会社に反旗を翻したことにもなる。

東京転勤を認めてくれた役員もいたが、反対している役員がいることも分かっていた。

それでも僕は、今の自分にしかできないことをしたかった。

それは、役員と社員の橋渡し役でもなく、役員に評価される為の仕事でもない。

誰よりもお客様と接して、お客様から様々なことを教えてらもらい、他の誰かの悩みを解決するために発信をすることだ。

僕は東京に来てからたくさんの人たちと出会った。
経営者の方は僕の知らない人をつないでくださり、いろんなことを教えてくれた。

そして、僕はそのご縁を形にするためにエリアを跨いで様々な企画をした。

「美容室経営者から経営者へ」をテーマにした「ミツイオーナーズクラブ」

メーカーさんとの「共催セミナー」

美容室経営者のためのビジネスメディア「GAME CHANGE」

そして、自分自身で有料のセミナーも開催した。

僕は、東京に身を移してからの一年で自分でも驚くほどに成長ができた。

環境によって人はこんなにも変わるんだと自分自身で実感したほどだ。

東京に来ていなかったら僕はこんなことをやっていないし、思いついてさえいなかった。

東京に来ていなかった自分はもう想像ができない。

僕はミツイコーポレーションに入社して、営業からユニットリーダーを経て、新たな部署を立ち上げ、静岡に転勤し、東京に転勤をした。

若くして裁量も持たせてもらったし、そのお陰でいろんなことを経験させてもらった。

その反面、その過程には失うものもたくさんあった。

3編に渡ってお届けしてきた、僕の13年間のキャリアの振り返りはここで幕を閉じる。

最後に、僕が身をもって学んだ言葉で締めくくろうと思う。

「No pain, No gain」。
-痛みなくして、何かを得ることはできない-


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