見出し画像

親友が亡くなってから、MVPを獲得して、ユニットリーダーになった話

13年間勤めた美容ディーラー・ミツイコーポレーションを4月30日付けで退社し、5月1日より別の業界のスタートアップ企業に転職する金丸(35)です。

本日は「キャリアの振り返り3部作」の中編、「マネジメント編」を書きます。
↓プロローグと上編はこちらから

親友の死

「同期23人中23番目の男」と呼ばれ、最後尾から捲りたて大逆転で新人賞を獲得した入社2年目の冬。

新人賞を受賞したことによって上司からの信頼を獲得し、名古屋を代表する大型サロンを担当させてもらった。

そのサロンは僕が就職活動で目の前が真っ暗になっている時に光を指す一言をくれ、美容業界に入るきっかけを与えてくれた美容師さんが勤めるサロンだ。

入社するきっかけを与えてくれたサロンを自分が担当することができるとは、何という運命だろうか。
そのサロンを担当した当時はまだお取引が少なかった為、いつかメインの取引ができることを目標にして僕はより一層仕事に熱を入れていた。

3年目にもなると仕事にも慣れ、売上も軌道に乗り、仕事量は増えどもプライベートとのバランスも取れるようになっていた。

仕事もプライベートも充実していたある日、自分の人生にとって大きな出来事が起きた。

それは入社3年目25歳の冬、2014年1月30日のこと。

仕事を終えた夜の帰り道、同期からメールが届く。
「家に帰って、車を停めて、家に入ったら、電話して欲しい。」

同期から連絡が来ることは日常だったので、いつも通り電話をする。

「お疲れー!どうしたー?」
普段と変わらない調子で電話をする僕に、同期の彼はいつもと違う様子で返す。

「○○が、命に関わる重大な事故にあった。」

事故にあったと言うのは親友でもある、同期だった。
彼とはただの同期という存在を超えていて、毎日の様に何でもない電話をしていたし、プライベートでもずっと遊んでいた親友の様な関係だった。

突然のことに頭は混乱し、言われていることが理解できなくて
「そうか、じゃあ明日仕事終わったら病院に行かなきゃだな。」
なんて言って電話を切った。

事故にあったというその彼は、明るくて元気で優しい、太陽の様な存在だった。
いつも周りに気を遣っていて、ちょっぴりお馬鹿なところも愛され、彼のことを悪く言う人は見たことがない。

そんな太陽の様な彼のことだから、大きな事故にあったと聞いても
「やっちまったよぉー」なんて笑っていて、「馬鹿だなぁ」と笑ってふざけ合ってる自分の姿しか想像ができなかった。

また、電話が鳴る。
別の同期からだ。

「おい、あいつなんかあったの?
あいつの携帯に電話したら、女の人が出て○○が生前お世話になった方ですか?って言われたんだけど。
なんか怖くなって電話切っちゃったよ」

さっきの同期から聞いた「命に関わる重大な事故」と言う言葉と、電話越しの話が、頭の中で組み合わさってしまう。
胸のざわつきが止まらない。

いてもたってもいられなくなって、自分を落ち着かせようとネットで彼の名を検索する。

何も出てこないことを期待していたのに、目の前には残酷な現実が突きつけられた。

その夜、ある出来事を思い出した。
それは、一週間前の出来事。

先輩の結婚式に参加した際、任されていた余興を上手く出来ず、酒に溺れて記憶が亡くなってしまった翌日のこと。
別の同期にその時の失態を指摘され、僕は怒って帰ってしまった。

その出来事を知った彼から僕の元へメールが届いた。

「カネちゃんは影響力があるから明るくて元気な時は周りを明るくするんだけど、元気がなかったり落ち込んだりしてる時は周りも一緒に元気がなくなっちゃうんだよ。
その影響力を良い方に活かして、周りの為にもいつも明るいカネちゃんでいようぜ。」

まるで、最後のやりとりになることが分かっていたかのような、彼から僕への最後のメッセージだった。

そんなことを思い返しているといつの間にか朝を迎え、現実でなければいいなと思いながら、いつも通り車を運転して出勤をする。
けれど、昨日突きつけられた現実が頭をよぎり、車を運転しながらも悔しさで涙が止まらない。

会社に着くと、上司が朝礼の場で彼が亡くなったことををみんなの前で発表する。
泣き崩れる人、嗚咽する人、驚きで立ち尽くす人、反応はそれぞれだ。

僕はと言うと、平然な振りをしていた。
きっと、周りの社員は僕の反応を気にしている。
彼と仲の良かった僕がどんな状態なのか心配していたのだろう。

僕は、そんな周りの心配を察して冷静に振る舞った。
同期のみんなはただただ悲しみ、勿論平然を保てない。
気がおかしくなる程の反応をしていた。

翌日、会社が手配したバスで、社員と共に彼の元へ向かった。
行きのバスの中でも周りがどう振る舞っていいか分からず沈黙をしている中、僕は率先して明るく振る舞った。

それは、彼が最後にくれたメールに書いてあったことが頭によぎっていたから。

お通夜で初めて彼と対面した時、誰にも見られないように下を向いてたくさん泣いた。

現実を受け止めたくなかったけど、僕が泣くのはここまでだ。

その後、葬式もあったが僕は泣かなかった。
僕はなるべく明るく振る舞い、みんなを少しでも元気に、前向きにしなければいけないと思っていた。

それが、親友である彼が最後に教えてくれた、僕の一番の使命だったから。

MVP三年連続受賞

僕は彼の死から二つのことを学んだ。
一つは、人の命はある日突然いとも簡単に失ってしまうことがあると言うこと。

僕は彼の死を現実として受け止めた時、「人って死ぬんだ」と思った。

僕はそれまでの人生の中で、若くして突然友人が死ぬと言うことを体験したことがなかった。
だから、「死」をそこまでリアルに感じられていなかった。

けれど、病気をしていなくても、若くても、ある日突然、命を失ってしまうことがあることを突きつけられた。
だから僕たちは1日1日を大切にし、悔いのないように過ごさなければいけない。
極端に言えば、明日死んでも悔いのない人生を送らなければいけない。

そしてもう一つは、「死ぬことに比べれば、大抵の辛いことは大したことがない」と言うこと。

僕はこの後の人生で、自分自身の痛みや辛いこと、そして周りの人の痛みや辛い出来事を味わうことになるだろう。
けれど、その痛みや辛いことは「生きている」からこそ味わえることである。

死んでしまってはその痛みや辛さを味わうこともできないし、死ぬことに比べればどうってことはない。

僕は、彼の死によって自分の人生観が変わった。

そして、彼からたくさんのことを教えてもらった僕は入社4年目を迎え、彼の分まで人生を精一杯生きようと決意をした。
全社員でたった1人しか獲ることが出来ないMVP(最優秀社員賞)をその年に受賞することが、「周りの為にいつも明るくいてよ」と言った彼への答えだと思い、MVPを獲ることを胸に誓った。

朝・昼・晩、休日。
とにかくひたすらに、がむしゃらに働いた。

体力的、精神的に辛いと感じる瞬間もあったがその度に「死ぬことに比べればこんなのはちっとも大したことない」と思えて、無我夢中で頑張ることができた。

結果、入社4年目の時に史上最速でMVPを受賞することができた。
勿論、この賞は彼のお陰であり、彼の為の賞。
2人で獲った賞である。

受賞のスピーチの際にお客様の前で彼の名前を出した時、初めて自分の肩の荷が下りた。

そして僕は勢いそのままに、前人未到・史上初の三年連続MVPを受賞することができた。

燃え尽き症候群

三年連続MVPを受賞した年の最終月。
僕は、当時の月間売上最高記録を記録した。

新人の頃とは違い、もう誰にも何も言わせないほどの結果を出していた。

しかし、月間最高売上を記録した後に味わったのは達成感ではなく虚しさだった。

「自分が目指していたものってこんなものだったのか。」

23人中23番目の男と呼ばれ、先輩に毎日の様に怒られ、馬鹿にされ、見返してやると言う思いで目指していた場所は、たどり着いてみるとあまりにも呆気なかった。

全く嬉しくない。
それは、なぜか。

達成したことを一緒に喜んでくれる人が誰もいなかったからだ。

僕は一心不乱に目標に向かい、来る日も来る日も仕事をしていた。
会社にもほとんど行かずにお客様のもとへ足を運び、周りのことは目に入っていなかった。

「一体、なんのためにやってきたのだろうか」

僕はMVP三年連続受賞・単月最高売上と言う営業No.1の記録を残した後、完全に燃え尽きてしまった。

ユニット賞受賞、しかし・・・

営業としての仕事に燃え尽きてしまい、やる気を失っていた頃。
タイミング良く、「ユニット制」と言う新たな制度が始まった。

それまでの「個人で予算を持ち、個人で活動をして、個人で評価される」と言う個人制度から打って変わり、「チームで予算を持ち、チームで活動をして、チームで評価される」と言うチーム制度だ。

当時の同業界ではチームで予算を持つことは珍しく、前例のない大きな変革だった。

僕は、ユニット制度開始に伴ってチームのリーダーである「ユニットリーダー」に選出された。
まだ入社5年目、27歳の頃だった。

初めてリーダーとして、自分のチームを持つ。
個人で営業をやり遂げて燃え尽きていた頃、チームのリーダーに選ばれたことで新たな意欲が湧いてきた。

しかし、まだ若く、やる気と熱意が空回りしていた。

チームとしての活動は月一のミーティング程度で、個人の営業の集合体。
結局僕は、チームの目標を達成するために一人で数字を無理やり上げて、目標を達成させることぐらいしかできなかった。

それでも初年度は、数字を評価されてユニット賞を受賞することができた。
しかし、心の中では全く喜べていない。

「これは、チームとは言えない。」

チームと言うには程遠いと一番分かっていたのは自分だった。
そして、僕はチームとしての達成感を感じられずまたもや虚しさを感じていた。

チームから人が離れていく

ユニットリーダーを務めても、ユニット賞を受賞してもまだモヤモヤは消えない。
そのモヤモヤを払拭したくて、僕は何かを求め、ひたすら本を読んでいた。

その時に感銘を受けたのが、森岡毅氏の書籍「USJを劇的に変えたたった一つのこと」だった。

僕はこの本に出会って、初めて「マーケティング」と言う概念を知った。
「マーケティング」の魅力に惹かれて、自分も仕事で「マーケティング」実践をしたいという思いが芽生えた。

僕はこの時、「マーケティング部署を立ち上げたい」と言う新たな目標ができた。(部署を作る話については次のnoteで)
そして、それまで個人の集合体でしかなかったチームを、リーダーとして戦略で引っ張ることに方向転換をした。

僕は本に影響をされ、本で学んだ「マーケティング」「戦略」をチームに落とし込もうとした。

それが正解だと疑わず、感情ではなく「論理」でチームを引っ張ろうとした。

すると、チームのメンバーが1人、また1人と減っていった。

それでも、自分がやっていることが間違っているとは思えず、ただただチームを正論で引っ張ろうとした。

後ろを振り返る。
営業でNo.1を獲得した時と同じだ。
自分のチームには一緒に喜んでくれる人は誰もいなかった。

その時、僕のチームに残されていたのは新人の2人だけだった。

どん底からの這い上がり

新人賞を獲得し、MVPを三年連続受賞し、売上もNO.1になった僕に、怖いものはなかった。
上司にも堂々と意見をする様になっていたし、周りの気持ちを考えずに正論を押し付ける様になっていた。

けれど、調子に乗る僕と反比例するようにチームは結果を出せなくなっていき、どんどん周りの信頼を失い、人が離れていった。

僕が何かを発言しても、誰の耳にも届かない。
自分の存在を証明しようと吠え続けても、会社からの信頼を失った者の意見は認められなかった。

チームも最少人数になり、会社で孤立した僕は、リーダーとして失格の烙印を押された様なものだった。

僕はまたどん底に陥った。
営業として頂点に登ったものの、調子に乗り、転落した人を、周りはもう気にかけていない。

新人2人と僕だけの、たった3人のチーム。

僕はこの時、リーダーとして再びどん底を味わい
「誰からも興味を持たれていない、調子に乗って終わったと思われてるリーダーのチーム。ここから見返してやろう。」と言う気持ちになっていた。

その気持ちは「23番目」と言われたあの時と同じだ。
リーダーとしてどん底まで落ちた僕は、もう一度立ち上がった。

人を動かす

僕はその日からとにかく、リーダーシップに関する本を読んだ。
戦略だけではなく、コーチング、マネジメントなど、「人を動かす」にはどうしたらいいかと言うことをひたすら勉強し、考えた。

「人を動かす」には、戦略やテクニックだけじゃない。
成果という背中を見せるだけでもいけない。

1対1で、心と心で、ぶつかり合う。

苦手だったけれど僕は泥臭く、人と真剣に向き合うことにした。

すると、僕のチームは1人が輝き出し、それに呼応するように人が増えていった。

「雨が降ったから営業に行きたくない」
「なんで私の気持ちが分からないんですか」

新人からそんな言葉を投げかけられることもあった。
今までの僕だったらそんな意見は聞かずに、自分で結果を出すことに集中していただろう。

けれど、一人一人に真剣に向き合い、なぜその様に思うのか聞いた。
時には真剣に叱らなければいけない時もあった。

悔しさや、悲しさから涙を流す社員を前にして、心を鬼にして叱らなければいけない瞬間もあった。

リーダーとして辛い瞬間もあったけれど、真剣に向き合えばメンバーは壁を乗り越え、大きな成長を見せてくれる。
僕はそう信じていたし、そう実感することができた。

僕は、社員が自分の可能性を超えて成長するその瞬間がとても嬉しかった。

そして、会社からも「金丸のチームに配属されると輝く」と認められたことにより、1人また1人と増え、10人のチームになった。

僕は10人のチームが結成された時に宣言をした。

「このチームでユニット賞を獲りに行く。」

ユニットとしての戦略

ユニットリーダーとして最後の年になると覚悟していたその年、僕は本気で「リーダー」と言う仕事に向き合った。

まずは、「ユニット賞を獲る」と言う明確な目標(who)を宣言すること。

そして、徹底的に競合である他のチームを分析(ALT)した。
エリア・人数・担当サロンなど、チームによって状況は様々だ。

その中で、自分のチームがどうやって他のチームと差別化するか。
僕のチームの最大のリソースは、「10人」のメンバーであり、全社最多人数のチーム。

この10人のリソースを生かすべく、「1ユニット最高売上を記録する」と言うことを戦略(what)として宣言した。

「達成率(%)」で戦うと、人数の多い僕のチームは負けてしまう可能性が高い。
だからそこには触れずに、トータルの売上金額でのみ戦うことを「選択」した。

その為の戦術は、「一人ひとりの個性を生かすこと」
弱みを補うのではなく、強みを生かすことのみを考え、実践した。

そして、リーダーの僕自身の戦術(how)

・365日フィードバック
・月一ミーティング、月一面談
・同行、アポイント、ミーティング同席

とにかく、365日・1年中チームについて考えて、メンバーとの接点量を増やした。
メンバーには1日の振り返りを送ってもらい、僕は各メンバーに対して毎日のPDCAを回すフィードバックを送った。

自分を除く9人のメンバーにそれぞれ1人ずつフィードバックを送っていたので、9回×週5回×月4回×年12回=2,160回

僕は1人も漏らさず、1年間フィードバックを送り続けた。

そんな想いに呼応するかの様に、メンバーはそれぞれ自分の強みを活かし、チャレンジをする様になった。

結果として、一致団結をしたチームは「年間7億円」と言う1ユニット過去最高の売上を記録した。
その数字は、1支社にも匹敵する数字だ。

そして、僕たちのチームは「ユニット賞」を受賞した。

新人賞を獲得した時よりも、MVPを3年連続で受賞した時よりも、ユニット制度ができてユニット賞を受賞した時よりも、何よりも嬉しい賞だった。

それは、自分1人の賞ではなく本当の意味でチームで受賞した賞だったから。
後ろを振り返れば、共に喜んでくれる人が9人もいた。

僕はこの時、初めて本当の意味でリーダーになることができた。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?