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#022 ないものは何か。

今日は、私の田舎の話。

私は、地方の人口5万人くらいの小さな町で育ちました。全国に先駆けて、高齢化、いわゆる過疎が始まり、時代が進むについて、子どもの数は、いや、人口全体が減っています。都会に比べて、色々なモノがない、と言われます。確かに、物質的に「ない」ものはたくさんあります。コンビニは私が高校を卒業するくらいまで無かったし、映画館も小学校にあがる前は市内に2つか、3つありましたが、高校卒業する頃には0になってたと思います。便利さを追求する上で、「足りない」ものがたくさんあるのは事実ですし、それに満足できずに都会に出ていく若者が多いのもまた事実です。

逆に、「ある」ものは何でしょうか。それはきっと「モノ」ではなく、「コト」でしょう。私の子どもたちは、東京で生まれ、生活していますが、私の実家に行くと、裏庭でカブトムシや蝶々などの昆虫捕りができたり、海で素潜りができたり、イノシシやキジを見かけたり、川遊びしたり、自然を満喫するコトについては事足りてます。そして、有り余る時間。私の育った町は、余暇に充てる平均時間が全国一位だそうです。人工的な娯楽施設が少ないために、有り余る時間が「ある」のです。都会で、馬車馬になっている人たちの束の間の余暇を楽しむには、うってつけ!です。が、そこに住むとなると、、、

さて、今日の本題に移ります。今日は、「ある」ではなく、「ない」の話でした。私がずっと思っていて、ようやく分かった「ない」ものは、実は「ない」ではなく、「いない」でした。人がいないのです、どんな人がいないのか、『具体』と『抽象』を結び付ける人がいないのです。先日、日帰りで実家に帰ったときに、母と姉家族とゴハンを食べに行きました、高3になる姪っ子が高校卒業したら、県外の大学に行って、そのまま、帰らない、帰るつもりはない、と言うので、なぜそう考えたのか?と話を聞いていると、私が中高生のときに考えていたことと同じことを話していました。

日常の出来事や体験した話、聞いた話を自分の中にInputしたときに、周りにそれは、『つまり』こういうことだ、と言ってくれる人が「いない」。物事を抽象化して、理解することで、人は知識や思考を深められます。また、本やネット、他者の話から得た知識を、『例えば』こういうことだ、と言ってくれる人が「いない」。知識を具体的な事例に置き換えてみることで、より理解は進みます。この「抽象」⇔「具体」の行き来をすることで、人の思考力が深まることは、私の経験上、コンサルファームで働いたときにも、ビジネススクールに通っていたときにも、大学で建築を学んでいたときにも、そう感じました。中高生のときに、ここまで整理して理解できていませんでしたが、自分のいる世界の閉そく感を感じ、何か喉元に詰まっている感じするのはなぜだろう、と日々考えていた記憶が蘇ります。なぜ、田舎の町で、抽象⇔具体を結び付ける人がいないのか、身の回りで起きる事象を「抽象」⇔「具体」するほど、身の回りが複雑ではないからです。田舎の町は、ほぼ同じような思想を持ち、ほぼ同じような生活をしている人たちの集まりなので、抽象化して、根本的な違いを把握する必要がないからです。それに比べて、東京をはじめとした日本の大都市、LAや香港のような海外都市は人種や宗教、生活レベルが違う人たちで形作られた都市です、相互理解を進めるために、抽象⇔具体の作業を行うことが必然的に求められていると考えています。

私の育った町は、今、人が育つ町として地域としての個性を出そうとしています。俯瞰した目で、「ない」もの、「いない」人を見つけて、それを持つ人を創造してほしいと願うばかりです。

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