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#063 庭師のしごと。

東大生は、小さい時に親に勉強しなさいと言われたことがない、と答えているアンケートやTV取材をよく目にする。

たぶん、本当のことなんだろう、と思う。絶対に、小さい頃から勉強していただろうし、小さいときはやりたくないこともあっただろうに。
たぶん、親が、子どもが何年後、何十年後かにそう答えるように、うまく道すじをつけて、子ども本人が自分自身の選択として、自らの意思として、その道を選択したように導いたのだろう、と思う。

草花を育てるとき、水のあげ方や日の当て方によって、成長が違うように、それは野に咲く花であっても、その土地の気象条件によって、成長が違う。結局のところ、万物が成長するためには、環境条件によるところが大きいことを考えると、子どもの成長環境も親が思うままに作った箱庭の中ということだと思う。

それが悪いことなのではなく、親が明確な意思を持って行ったことでも、意図せずそうなったとしても、どちらでも良いが、親の視野が狭ければ、結果として、子どもの育つ箱庭は狭い、ということだけだと考える。

同じ東大生であっても、勉強も、遊びも、たくさんのことを体験できる広い大地で成長した子と、寝ても覚めてもまずは勉強、机と椅子がすべてだった子とでは、その先の、さらなる将来に待ち受けている成長はきっと大きく異なるのだろう、と思う。

さて、具体的に、我が家はどうか、というと、ご多分に漏れず、我が家でも、父と母の意図が大きく反映される子育てになっている。それが子育てのだから、当たり前のことなのだが。それを親の意図であることを全面に押し出さない感じが、東大生の親たちと似たようなところはあると思う。かたや、公園でサッカーを教えている父が一生懸命に子を指導するが、子の飲み込みが悪いと、烈火のごとく怒りまくる光景とは大違いである。

我が家でも、子どもの将来像、どんな大人になって欲しいか、についての議論は活発に行われている。ただ、それは子どもの将来の収入や性格、運動能力のような一般的に話されているような話だけではないし、話の主眼は、生涯をともにしたいと女性に思われるような男になる、この人と一緒になって良かったわと思われるような男になる、こんなお父さんで誇らしいと思われるような男になる。そのために彼らはどんな能力が身につくべきか、それはどのような体験から身に付けさせることできるか、ということについて話し合われてきた。

お気づきかもしれないが、父母が思う子ども達の将来は、誰かとともに生活していることが前提にある。言ってみれば、それが私たちの「しあわせ」の価値観なのだろう、それをある意味、子どもに押し付けている。彼らが将来独身であってもそれはそれでよい。でも、彼らが自分の意思として、自由恋愛を楽しみ、伴侶をみつけ、家族を築く、そのための大きな箱庭を作ることが私たちの仕事だと私は考えている。

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