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【クイズもあるよ】吉田松陰の歩み #1 〜萩で学んだ20年〜

今回は、吉田松陰が歩んできた人生を少しずつ覗いていきたいと思います。よろしければ、少しお付き合いいただければと。

松陰を育てた「二人の叔父さん」

吉田松陰は1830年に萩城下の松本村というところで生まれました。幕末の志士あるあるですが、やっぱり下級武士の家に生まれます。

父は、杉百合之助。長男です。
次男の叔父の名は、吉田大助
三男の叔父の名は、玉木文之進。 

ここで問題です。

松陰が5歳の時に養子に入った人は誰でしょう?

正解は、、、次男の吉田大助です!
第一問正解、おめでとうございます!😆

杉家の次男として生まれた松陰は、5歳の時、子供がいなかった吉田大助から請われる形で吉田家の養子となり、姓を吉田と改めました。ちなみに幼名は虎之助だったので、吉田虎之助に変わります。

吉田家は、藩校明倫館山鹿流兵学師範を務めるお家柄。松陰も後に9歳の時に明倫館の兵学師範として教鞭を振るうようになります😳

ここで第二問です!

萩明倫館を舞台にした人気アニメのタイトルは?

ヒントは、1991年に土曜の夕方に放映されていた小山ゆう原作のアニメですが、、、

正解は、「おれは直角」です。
これはちょっと難しかったですかね?アラフォー世代は名前くらいは知ってるんじゃないでしょうか。

松陰、6歳で家督継ぐってよ

話が逸れましたが、元に戻すと、吉田大助の養子となり、兵学師範への道が開けるのですが、なんと養父が約1年後に他界してしまいます。。。これを受けて、松陰は、

6歳で吉田家の家督を継ぐ事に

なりました。このときに名前を、虎之助から大次郎へと改名します。これにより、本名は吉田大次郎となりましたが、通称 吉田寅次郎と呼ばれるようになります。

さて、ここで第三問です。

吉田寅次郎と名乗った理由とは次のうちどれ?
1)「男はつらいよ」のファンだったから
2)吉田大次郎というアカウントが既に登録されていたから
3)実は出題者も知らないで問題出してる

はい。大変申し訳ありませんが、よく分かっておりません。。ご存知の方いたら、コメントで教えていただけますと幸いです🥺

玉木文之進と乃木坂46

はてさて、6歳で家督を継いだ松陰ですが、このときすでに大変頭の良い天才少年だったと思われます。4歳で既に、四書五経(大学/中庸/論語/孟子, 易経/詩経/書経/礼記/春秋)を学んでいたとも言われています。

えーと、漢字が読めたって事かな?🙄💬
読まなくても理解してたって事かな?😳

そんな天才虎之助君でしたが、養父なき後も、もう一人の叔父さんに鍛えられて、すくすく・・・ガンガン成長したと思われます。

もう一人の叔父さん、そう、玉木文之進。結構、有名なんですよね。とりあえず有名ポイント3つ挙げてみると、こんな感じかなと👇

玉木文之進の有名ポイント3つ

① 松下村塾を創設した人
② 松陰に対する厳しいスパルタ教育
③ 乃木希典が住み込みで弟子入りした師匠

松下村塾って吉田松陰が作ったんじゃないの?

って思いがちですが、実は玉木文之進が創設した私塾で、吉田松陰もそこの塾生となりました。1842年に開校されていますが、世界的にはアヘン戦争で中国が大英帝国に負けた年です。ってことは当然、松下村塾でもこの脅威について語られたんですね!!と思いきや、幕府の情報操作によって、吉田松陰がこの事件を知ったのは1845年だったと言います。鎖国してたとは言え、そんなに情報入ってこない時代だったんだなと驚きです😳

松下村塾は、身分に分け隔てなく開かれていた私塾であった点が特徴的でした。藩校の明倫館は士族の身分の人のみが学ぶ事を許された学校でした。

そして、玉木文之進は、甥っ子である寅次郎に対しては、相当スパルタな教育だったようで、殴られることもしばしばだったと言います。講義中に蚊に刺されて顔を掻いただけで、

講義という公事のときに
顔を掻くという私事を優先するとは何事だ!

と言われてぶん殴られたというのも有名なエピソードです。厳し過ぎ!というか、もはや意味不明😨(ぶん殴られたかどうかは定かではない)

そして、③番目ですが、

玉木文之進がいなかったら
乃木坂46は存在しなかった

と言っても過言ではありません。なぜなら、乃木坂46の名前の由来となっている乃木坂の名前の由来となった乃木希典が弟子入りを懇願して、なんとか住み込みで学ばせてもらった人こそ、この玉木文之進だからです。

江戸時代には幽霊坂と呼ばれていた地を、大正元年に乃木希典の殉死を悼み、乃木坂に改名することになりましたが、玉木文之進が乃木希典を鍛えていなければ、乃木坂の名前の由来となるほどの活躍はなかったと思います。(たぶん🙄)

というわけで、玉木文之進という山鹿流兵学の免許皆伝を持った偉大な恐ろしい叔父さんによって鍛え上げられた吉田寅次郎は、先にも述べたように、9歳にして兵学師範として明倫館で教鞭を振るうようになりました。

これまでは、二人の偉大なる叔父さんについて触れてきましたが、他にも多大な影響を与えた人がいました。

偉大なる「二人の山田」

松下村塾で学びながら、徐々に西洋への関心を高めていった寅次郎。ここに大きな影響を与えた人物として、山田宇右衛門山田亦介がいます。この二人、共に山田姓ですが血縁関係はなさそうです。

幼くして吉田家の家督を継いだ寅次郎の後見人の1人であった山田宇右衛門は、16歳の寅次郎に坤輿図識(こんよずしき)という世界地図が書かれた本をもらい、地図の重要性と欧米列強の強さを認識させたと言われています。

また、当時、山鹿流兵学と人気を二分した長沼流兵学の師範だった山田亦介からは、長沼流兵学だけでなく、西洋事情や海防論を学び、世界から見たこの国の置かれている状況や、ほぼ無防備な海岸防備について教えてもらったようです。

ヤベェ・・・兵学学んでいる場合ちゃうわ

これによって、寅次郎の関心は海の外に向くようになり、17歳となった1846年には、海外情報に関して綴った『外夷小記』をまとめるほどに、グローバル視点🌏で考えるようになっていきました。

海から眺めた長州

20歳になった1849年には、藩の命により、海防に関する上書『水陸戦略』を提出し、それを受けて萩から下関までの北浦防備視察⚓️を行いました。

この視察によって、海上の防備が不十分であることを目の当たり😳にして、その視察から帰って間も無く、見聞を広めるための九州遊学を藩に申し出ました。これは、視察中の下関で、平戸藩の葉山佐内に従学することを薦められたことがきっかけと言われています。

その1年後、いよいよ長州を旅立ち、九州へ遊学して行くことになります✨

(次回へ続く)

いまさらですが、萩ってどこ?

中国地方から縁遠い人からすると、萩って地名は知っていても場所を知らない人も多いのではないかと思うので、一応場所だけ載せておきます。

参考文献