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『初め』(小説)

「見よ。

  美しい枝、濃い陰をつくる森、
  その丈は高く、そのこずえは雲の中。

  水がそれを育て、湧き出る水がこれを高くした。
  幾筋もの川が、それが植わっている周りに流れ、
  その流れは野のすべての木々に送られた。

  その丈は野のどの木よりも高くなり、
  送られる豊かな水によって、
  小枝は茂り、大枝は伸びた。

  小枝には空のあらゆる鳥が巣を作り、
  大枝の下では野のあらゆる獣が子を産み、
  その木陰には多くの国々がみな住んだ。

  それは大きくなり、
  枝も伸びて美しかった。
  豊かな水にその根を下ろしていたからだ。」


目を覚ますとそこには世界があった。
青い空、白い雲、野と花と海が広がっていた。
天からは光が注ぎ、爽やかな風が髪を揺らした。

人は声を出すことができた。
はじめは言葉にもならぬ、呻きのような声。

また、その足で歩くことができた。
草原に一歩踏み出した時、心臓がドクンと動き身体は熱くなった。

周りに様々な生き物が集まってきた。
自分の身体とは全く違う形の生き物ばかり。

足は走ることができた。また跳ぶことができた。
自分が走り跳ぶと周りの生き物たちもついてきた。

沢山の音に包まれ、身体が自然に動いた。
脳の中に弾けるものを感じ、美しさに感動を覚えた。

しばらく経って、空腹を感じた
その時、腹に響く声があった。
「おまえの目に見えるものはすべて、おまえのもの。」
そこで、目に美しく見える実を、木からとって食べた。
甘さが全身を駆け巡って、快楽に溢れた。
満たされる思いの中、周りの生き物たちと分け合うことで、さらなる喜びを感じた。

おおよそ腹は満たされ、少し離れたところにある2本の木に気が付いた。
そのうちの一本は、とげとげしい赤で、妙に引き付けられた。

その実に手を伸ばし近づいた時。
腹に「やめよ!」という声が響いた。
「その実を食べると死ぬ。」
そう言われて人は従った。

その声は人を導いた。
やるべきことを教えた。
人はそのすべてに従い、従うことに喜びを覚えた。

声は人にその一帯を守らせた。
声は人に、地を耕し木々を育てる方法や、生き物たちの声を聞く方法を教えた。
その中で、人は言葉を覚えた。

みるみるうちに種は増え、食べるごとに新しい味を知った。
すべての生き物、草木は、この土から創られたことを知った。

人は、生き物たちの声を聞いた。
人にはすべての生き物の想いがわかった。
そこには、声との会話で使うような言葉はなかった。
感情のイメージが伝わるように通じた。
人の元にはあらゆる生き物が訪ねてきた。
そして声と共に名を決めて呼ぶと、その生き物は人に従った。
人はまだ、海や川の中の生き物を知らなかった。

生き物との労働の中で人はさみしさを覚えた。
人には話し相手がいなかった。
生き物たちとのコミュニケーションはあった。
が、彼らはあまり深く考えることはできない。
喜びや驚きを共有できるほどのものはいなかった。
話し相手といえば腹に響く声だが、目には見えず対等ではなかった。
助けが必要な時には現れるが、不必要なことを話すことはなかった。
そんな中で、人は眠った。

目を覚ますとそこには美しさがあった。
これまで見た世界の何よりも美しく感じた。

また、柔らかさと精巧さが詰め込まれたような自分よりも小さな存在に、喜びを覚えた。
そしてその存在が、自分の骨から創られたことを知り、もはや自分の一部のように愛しく感じた。
自分は男とし、それを女とした。

女は男の話を良く聞き、良く笑った。
驚き、感心し、良く男を褒めた。

常に男と共におり、男も女を喜ばせたいと様々なことをした。
亀に乗り川を下り、キリンの首を上り、象の上から地を見下ろした。
狼に乗り草原を駆け抜け、大鷲の背に乗り木の上の実を取りに行った。
そのすべてにおいて、一人の時より女と共にいる今の方が喜びを感じた。

女の喜びは男にまっすぐに伝わり、疑うこともなかった。
女と交わす言葉が男の心を満たし、男の女のために行うことすべてが女を笑顔にし、その笑顔が男を笑顔にした。
その時、男と女は自分の顔を知らなかった。
ただ相手を見ていた。
そして腹の中からする声は女にも聞こえた。
「祝福あれ」

生き物たちの中には、人ほどではないが賢さをもつものもいた。
犬や猿の種類だ。そして蛇は最も賢かった。
それでも人と会話できるほどではなく、ましてや騙せるほどではなかった。

が、この日の蛇は違っていた。目はいつもよりも狡猾で、いつもより賢かった。
男であれば違いに気づいたであろうが、女は蛇を良く知らず、あまりに悪意に対して純粋だった。
そして蛇は、蛇に名前を与えた男には背けず、女のみが男を変えられることを知っていた。

「人はどの実も食べてはいけないのですか?」
蛇は、地を耕す男を見守っている女に近づいて、そう言った。

肩に乗るぐらいの小さな蛇だった。
女は微笑んで答えた。
「いいえ、そのようなことはありません。どれでも食べていいの。」
蛇は女を見つめている。女は言葉を続けた。
「ただ、あそこにある赤い木の実だけは触れることさえいけないのです。触れれば死ぬと、彼と共に在る声が言っています。」
蛇の目が光り、まだ彼女の言葉が終わらないうちにこう言った。
「それはうそだ! ほら、私は死んでいない。」
女は驚き、声が出なかった。

蛇は続けて、
「君も食べてみなさい。この実を食べると賢くなれるのだ。彼の中の声のように。」
そこで女は木のところに行った。行ってしまった。

男には蛇の声は聞こえていなかったので、女が少しの間、離れて行ったことは特に気に留めなかった。
その実のとげとげしい赤は彼女の目に美しく映り、そして彼女は実に触れた。

すると死ななかったことに驚き、蛇を信じた。
「食べなさい、ほら。大丈夫。ほら、少しだけ。」
女はついに食べてしまった。そしてすぐにそのことを恥じた。

その場から逃げようと思い振り向くと、男がこっちに向かってきていた。
「どうした?」
優しく語りかけるその男の声が、彼女を一層不安にさせた。

「これをあなたも食べてください!」
男は戸惑った。一目でその実は食べてはいけない実だとわかった。
そこに彼女の食べた跡があり、死んでいないことがわかり困惑した。
女は不安に駆り立てられ、何度も何度も男に食べることを要求した。
男は今まで完全に理解していた彼女の考えが、想いが、その時は見えなく、わからなくなっていた。
目からも手からも何も伝わってこなかった。
ただ顔は今にも泣きそうなほどに崩れ、そのことが無性に不安で、ついに男は女の願いに従うことを選んでしまった。

その実を食べた瞬間、男もまた恥じた。
そして後悔が男を襲った。
女に自分の気持ちを知られることを恐れ、裸をいちじくの葉を腰に巻いて隠した。
女を見ると同様に体を隠していた。
その日から生き物の声は理解できなくなり、腹からの声もなくなった。

それまで腹の声に背いたことはなかった。
腹の声が男に、初めの人としてアダムの名を与えたからである。
声に背いたことも、声を疑ったこともなかった。
声はいつも彼と共に在った。
声に従うことが喜びであり、その言葉を聞くことが楽しみだった。
そこには恐れも不安も誤解も焦りもなかった。

その日初めて人は声に背いた。
そむいた時に人は、「自分を隠す」ということを始めた。嘘の初まり。
声の主に自分を知られまいとした。

その時にはすでに、声は人から離れていた。
自分を隠し始めた人は、自分からも自分が見えなくなった。相手からどう見られるのかわからなくなった。
何を考え何をやりたいのか、どう生きればいいかがわからなくなった。
腹に聞いても声は居ない。声はもう何も教えてくれない。
良き支配がなくなり、人は不安を覚え、焦りを知った。

人の心と頭は離れてしまった。
知って欲しいと隠したいが自分の中で闘う。
不安が安心を求めさせ、相手の上に立つことを求めさせた。
良くなりたいという欲が、良く見せたいという良くが出てきた。
「得」を覚え、「損」を覚えた。

男と女の関係も変わった。
今までは、「相手が自分をどう思っているか。」ということは考えたことがなかった。
しかし、その思いに常に悩まされることになった。
そして恐れや不安を相手に見られないように、必死に隠した。

自分がどうすればいいのかわからなくなったと同時に、相手がどうしてほしいのかもわからなくなった。
理解できないことに、恐れや不安はさらに増し、満たされない思いが苛立ちになった。

それでも男は女のために地を耕し、喜ばせようとした。
女もまた、男の隣にいて助けることを続けた。
しかし、お互いはお互いを心の中で蔑んだ。
壁ができてしまった。
女は従うことで、男は従わせることで支配しようとした。
女は甘え要求することで、男は提供することで支配しようとした。

人が孤独になった後、しばらくして、二人に近づいてくる足音がした。
二人は隠れた。ふいに恐れを感じた。

声が地に響いた。
「どこにいる。」
声は、以前まで腹の中から聞こえていた声だった。

二人は恐れつつ声の方に出ていった。
しかし、その姿を見ることはできなかった。
光に包まれていた。

男は言った。
「ここです。裸だったので隠れたのです。」
声は言った。声は一帯に響き、腹の底まで響いた。
「なぜそれを隠すのか。お前は私に背いたのか。」

男は大いに恐れ、とっさに女を指さし、
「彼女です! あなたの創られた彼女が先に食べ、私にも食べさせたのです!」
と、言った。

言葉を放った瞬間に、男はハッと我に返り、心には後悔と悲しみが溢れた。
そして声が女の方に向いた。
女はすでに泣き崩れていた。
自分のしたことの意味を知ったからである。
声は女に言った。
「なんということをしたのだ。」
女は震えた声で言った。
「へ、蛇です! 蛇が私をだましたのです!」

そこで、声は蛇を呼び寄せ、蛇を呪った。
そしてそのあとに女に向かって言った。
「お前は子を産むために大いに苦しむようになる。そしてお前は夫を恋い慕うが、夫はお前を従わせる。」
その後、男に向かって言った。
「お前はこのことでこの先、妻を軽んじる。また、大地は呪われ、お前は食を得るために苦しまなければならない。働くことが苦しみになるだろう。そして塵に帰ることになる。」

そしてその後、男は女をエバと名付けた。

その後、人はしばらく立ち上がれなかった。
声を、自分の主として神と呼んだ。
もう人とは共には居ないからだ。

神は人への裁きの後、人のために2匹の鹿を殺し着物を造ってくれた。
人はそれを着せられ、人はその恥を隠された。
その血によって神に赦され再び近くなったことを知った。

二人は園を去った。
神が命じたからだ。
悪を知った二人がこれ以上、園にいることは良くないことだった。

アダムとエバは園の外の土地を耕し生きた。
そして子供を産んだ。
二人はその子供を名付けた。


[創世記 1:29,30]
神は仰せられた。
「見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる。
また、生きるいのちのある、地のすべての獣、空のすべての鳥、地の上を這うすべてのもののために、すべての緑の草を食物として与える。」
すると、そのようになった。

[創世記 2:15,16,17,18,19]
神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。神である主は人に命じられた。
「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
また、神である主は言われた。
「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」
神である主は、その土地の土で、あらゆる野の獣とあらゆる空の鳥を形造って、人のところに連れて来られた。人がそれを何と呼ぶかをご覧になるためであった。人がそれを呼ぶと、何であれ、それがその生き物の名となった。

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