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好奇心は猫を殺すのか
はじめに
以前の記事「読書とムダ知識」でも取り上げた『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の著者・三宅香帆さんによれば、自分がいま求めている以外の情報は「ノイズ」だとみなす人が最近増えているという。だから「読書」というコスパ・タイパの悪い情報収集手法が敬遠され、求める検索ワードを入力すれば即座に必要な情報が得られるインターネットへの依存が高まっているのだと。
このような、眼前の課題にフォーカスして集中的に情報を収集する気持ちを「探究心」とするならば、その対極にあるのが、より拡散的・幅広に、自分がまだ知らないことを知りたいと思う気持ち、すなわち「好奇心」である。
ということで今回のテーマはこの「好奇心」。
日本人の好奇心薄い問題
少し古いデータではあるが、OECDが2012年に実施した「国際成人力調査(PIAAC)」によれば、「読解力」「数的思考力」「ITを活用した問題解決能力」の3スキルのうち、日本の成人(16〜65歳)は「読解力」と「数的思考力」において参加21カ国で第1位となっている。しかし、この調査では「新しいことを学ぶのは好きか」といういわゆる知的好奇心を問う質問もあるのだが、これについては日本は韓国に次いで参加国中で下から二番目に低かったという。
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小桐間 徳(2014)「国際成人力調査が示す日本及び諸外国の社会的アウトカムの特徴」より転載
教育社会学者の舞田敏彦さん(下記記事)はその理由について「未知のことを吸収しようという意欲が、なぜここまで低いのか。それは日本人が子ども時代に経験する学校教育に起因していると考えるのが自然だろう。内容がぎっしりつまった国定カリキュラム、生徒の興味・関心を度外視したつめこみ授業、テスト至上主義......。学習とは「外圧によって強制される苦行、嫌なことだ」と思い込まされる。これでは、自ら学ぼうという意欲を育て、それを成人後も継続させるのは困難だ。」としている。
舞田先生の指摘する教育システムの問題に加え、日本人の高齢化も「日本人の好奇心薄い問題」の背景にあるように思われる。
好奇心は基本的に情報が不足している(=知らないことが多い)状態で活発化する。だからよく「子どものような好奇心」と言われるように、子どもが好奇心旺盛なのは当然のことだ。しかし、オトナになるにつれて、知ってることが増えて知らないことが減っていくので、好奇心は次第に薄れてくる(上記ニューズウィーク記事中の図2のグラフ参照)。
加えて、オトナになると人にあれこれ質問することは格好悪いという意識も出てくる。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という格言があるが、こういう格言があること自体が「聞くのは恥」と思っている人が多いということの証しでもある。
ところで、日本人の平均年齢(平均寿命じゃないよ)は2020年国勢調査で47.6歳。なんと世界第二位なのだそうだ。ちなみに2000年は41.4歳だったので国民全体で20年間で6歳以上も歳を取ったことになる。要は日本国民全体のオトナ化がそれだけ進んでいるということで、そりゃ好奇心も薄れるというわけだ。
「全国こども電話相談室」の終わりが意味するもの
いまの若い人は知らないかもしれないけれど、その昔TBSラジオに「全国こども電話相談室」という人気番組があった。内容としては、子どもたちから送られてくるさまざまな疑問に高名な先生方が丁寧かつわかりやすく回答するというものなのだけど、これがなんと1964 年から 2008 年まで実に44年も続いた超・長寿・人気番組だったのだ。
「なぜ?なんで?どうして?」という子どもの旺盛な好奇心から繰り出される素朴な疑問ががなかなかに新鮮で、ときには回答者の先生方がたじたじとさせられることもあったりして、けっこうおもしろい番組だった。で、この「全国こども電話相談室」が終了したのが2008年のこと。
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の著者・三宅香帆さんは、情報収集のコスパ・タイパ重視傾向が強まって読書離れが進んだのが2000年代に入った頃からと述べているが、「全国子ども電話相談室」の終了時と(そして前回記事で取り上げた「トリビアの泉」の終了時とも)奇しくも時を同じくしている。どうやら2000年代に入って「好奇心」とか「ムダ知識」のようなものが流行らない時代に入ったと見ることができるのではないだろうか。
ムダ行動はほんとうにムダなのか?
以前の記事「読書とムダ知識」でも指摘したように、書店の数は減少の一途を辿っている。リアルな「本」は情報収集についてコスパ・タイパが悪すぎるからだという。しかし、リアルな書店(や図書館)にもそれなりの良さがある。書店(や図書館)の書棚の間をぶらぶら歩いているうちに、ふと面白そうなタイトルの本を見つけて手にとってみたりするのは案外楽しい。
それは、紙の新聞をパラパラとめくっていて、文芸欄や家庭欄といったふだんあまり関心の高くないページやあるいは広告の中にも「お?」と目を惹かれる見出しに遭遇したりする、あの感覚だ。
この感覚はまち歩きの際にも通じるもので、特に目的を定めることもなく街をぶらぶら歩いて、適当に路地や脇道に入り込んだりしたときに、「ほお、こんなところにこんな店が…」とか「へえ、ここからだとこんな感じに景色が見えるんだ…」といった小さな発見に心がウキウキすることがある。 こうした「ぶらぶら歩き」というか「寄り道」系の行動も、コスパやタイパの観点から見ればムダ行動の極みで、Google Mapsで最短経路を検索してそれに従って歩くべきなのだろう。
しかし、このような一見するとムダな行動(リアルな書店や図書館で書棚をみて歩いたり、新聞や雑誌をパラパラと斜め読みしたり、街をあてもなくぶらついたりする…)をコスパ・タイパの名のもとに否定することがはたして正しいことなのだろうか。
好奇心が「バカの壁」を壊す
現代は情報洪水・情報爆発の時代である。お腹が膨れると食欲が失せるのと同じで、身の回りに処理しきれないほどの情報が溢れている今の世の中、ものごとに好奇心を抱くどころか、逆に自分のまわりに壁を築いて、自分が知りたくもない情報は「ノイズ」として扱い、受け入れないという人も少なくない。養老孟司先生が言うところの「バカの壁」というやつだ。
しかし、情報爆発の一方で、現代は不確実性の時代でもある。VUCAの時代と言われる今日、変化のスピードは速くなり、しかも複雑化している。つまり「わからないこと」はむしろ従来以上に増えているのだ。わからないことをわかろうとするためには、「なぜ?なんで?どうして?」と問いを立てなければならない。なぜなら、現象の背後にある原因や構造を理解しない限り、私たちはただ現象に振り回されるだけだからだ。それでは問題の解決、さらには変化の先取りなど望むべくもない。バカの壁を立ててその内側にこもっている場合ではないはずだ。
その「バカの壁」を壊すために必要な武器は、「好奇心」と好奇心に基づく「ムダ行動(を通じたムダ知識の収集)」なのではないだろうか。
好奇心はほんとうに猫を殺すのか
なお、余談ではあるが、イギリスのことわざに「好奇心は猫を殺す(Curiosity killed the cat)」というものがあるそうだ。同じくイギリスには「Cat has nine lives.」(猫に九生あり・猫は9つの命を持っている/猫は容易には死なない)ということわざがあり、そんな猫ですら、持ち前の好奇心が原因で命を落とす事がある、という意味。転じて、『過剰な好奇心は身を滅ぼす』と他人を戒めるために使われることもある(Wikipediaから引用)。
しかし、この「好奇心は猫を殺す」ということわざには続きがあるという説がある。それは「But satisfaction brought it back.」というもので、直訳すると「満足感を得て生き返った」とでも訳すのだろうか。
要は「好奇心は身を滅ぼす」とは限らない、ということだ(、と思いたい)。
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