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ことばを喪失するということ、ことばを記録するということ : 映画『マルモイ ことばあつめ』によせて

2020年8月7日(金)に KBC シネマにて行われた映画『マルモイ ことばあつめ』公開記念スペシャル・トークショー「ことばを喪失するということ、ことばを記録するということ」(ゲスト:辻野裕紀、聞き手:田村元彦)における辻野裕紀の発話を文字化し、本稿のみ読んでも分かるような形に再構成したものである(『言語文化論究』46(九州大学大学院言語文化研究院)所収)。論文等に引用される場合には、下記のpdfをご使用ください:

https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/4377780/46_p057.pdf

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はじめに

映画『マルモイ ことばあつめ』は、日本統治下の朝鮮において、消えゆく朝鮮語を守るため、辞書作りに獅子奮迅した人々と、いわゆる「朝鮮語学会事件」をテーマにした物語であり、〈人間にとって言語とはいかなる存在か〉、〈ことばを失うとはどういうことか〉、〈ことばを記録するとはいかなる営みか〉などといった、ことばについての本質的な問いを私たちに突き付けてきます。自らのことばが他者によって侵襲的に殲滅されようとすること。蹂躙に抗い、死にゆくことばを命を賭して記録せんとすること。ことばは個人史の刻印である一方、ときに国家権力にいとも簡単に曝されうる政治的な存在でもあること。そしてそれによって齎される悲哀と瞋恚ーーことばをめぐるこうした根源的な問題を深く考えさせてくれる映画だと思います。

しかし、こうした命がけの辞書作りや、朝鮮語学会事件という受難は、私の知る限り、日本の大学の朝鮮語教育の現場ではほとんど言及されてきませんでした。勿論、一部の専門家の間で、歴史学的な文脈や政治学的な言説として語られることはあっても、朝鮮語を学ぶという、言語教育の場で積極的に触れられることはほぼ絶無であるように思います。個人的には、こうした歴史を抜きにして、朝鮮語教育や朝鮮語学習を考えることはできないと考えているのですが、残念ながら、そうはなっていないというのが現状のように見受けられます。そうした状況の中、朝鮮語学習者が弥増している当今にあって、『マルモイ』のような映画が、日本でも広く上映されて、こうした事件、出来事があったということが人口に膾炙するというのは、非常に意義深いことだと思います。言語を記号論的平面でのみ把捉しようとする伝統的な言語学や、言語を単なるコミュニケーションの道具へと矮小化する浅膚で牧歌的な言語教育学のフレームでは到底余蘊なく語り尽くせない、より深く、より人間的な問題群がこの映画には横たわっています。

映画としては、いろいろと印象深いところがあったのですが、ひとつだけ挙げるとすると、一番印象に残っているのは、最後の場面です。すなわち、パンスの息子のトクチンと娘のスニのところに、完成した朝鮮語辞典が届いて、そこに、亡き父親がハングルで書いた手紙が挟まれているシーンです。それを見て、コンテクストは違いますが、例えば、川崎・桜本の在日のハルモニたちの生活史を綴った『わたしもじだいのいちぶです』という本を思い出したりもして、文字が書けるということは本当に誇らしいことだとも思いました。また、文字が書けることによって、自身の死後も、子どもたちに手紙を反復的に読んでもらうことが可能になります。この意味において、エクリチュールというのは、人間の実存よりも大きいわけです。ウォルター・オングとか、ジャック・デリダといった思想家たちは、エクリチュールを「死」と結び付けて論じていたりもしますが、言語のオントロジカルな問題も含めて、諸々考えさせられるところがありました。この映画は事前に何度か観ましたが、最後のシーンでは、いつも落涙しそうになります。

キム・パンスとリュ・ジョンファン

あくまでも『マルモイ』はエンターテイメントとしての映画なので、ファクトとフィクションが混濁しているということは、一研究者として指摘しておきたいと思います。勿論、虚構が混在しているということは、『マルモイ』の映画としての価値や作品性を些かなりとも損なうものではないということも申し添えておきます。

例えば、とてもいいキャラクターなのですが、残念ながら、キム・パンスは架空の人物だと思われます。ただし、パンスのような、いわゆる文盲の人――朝鮮語では까막눈といいますが ――はあの当時、数多くいたはずです。例えば、1930年の朝鮮国勢調査によれば、朝鮮人のハングルの識字率はわずか約15%、仮名とハングルの双方が読めた人の割合は7%というデータがあります。そういったことを考慮すると、当時は、キム・パンスのような非識字者の方がむしろマジョリティだったと言えるかと思います。

一方で、リュ・ジョンファンという人は、イ・グンノ(李克魯)という学者がモデルになっていると思われます。彼は、ある時期まで韓国ではあまり言及されてこなかった人で、韓国でも知らない人が多いので、「忘却の人」と称呼されることもありますが、それは、解放後に、北朝鮮に渡った学者だからです。韓国においては、南北分断後に越北 ――拉致ではなく、自らの意志で北朝鮮に渡ることを「越北(えつほく)」と言いますが ――した知識人については長らく言及を控えるということがありました。最近になってようやく徐々に知られるようになってきているかとは思いますけれども、彼は長い間韓国ではあまり認知されていなかった人です。イ・グンノ先生 ――北朝鮮では「リ・グンロ」と呼ばれますが ――は、北朝鮮の朝鮮科学院の指導的な人物のひとりで、文化語(北朝鮮の標準語)運動の中心的な人物でもありました。それから、我々は「60年文法」と呼んでいますが、1960年に出た『朝鮮語文法』という北朝鮮の重要な文法書の編纂にも関わった人です。つまり、解放後、北朝鮮に渡っても、朝鮮語という言語を大事にして、その研究と教育に尽力した人物です。もともとは言語学の専門家ではなく、若い時にはドイツに渡って、ベルリン大学の哲学科に学んだ秀才ですが、解放後の言語学者としての活躍を知ると、朝鮮語学会事件で、収監されただけでなく、拷問まで受けて、獄死した学者もいるだけに、感慨深いものがあります。因みに、映画では、イ・グンノ先生の父親は、親日派の偉い人という設定になっていますが、実際には、慶尚南道の農民でしたので、こうしたところも映画と史実は異なります。なお、劇中に「말은 민족의 정신이요 , 글은 민족의 생명입니다(ことばは民族の精神で、文字は民族の生命です)」という印象深いことばが出てくるのですが、これはイ・グンノ先生の実際の言辞だと言われています。

1930年代、1940年代の植民地朝鮮

映画の中で描かれているのは、1930年代から1940年代の植民地朝鮮です。設定としては、1940年代が舞台ということになっているようですが、辞書作りが活発に行われていたのは1930年代で、朝鮮語学会事件が起こるのは1942年ですので、1930年代から1940年代が背景になっていると言ったほうがより正確だと思います。

1930年代は、朝鮮の近代文学がきらきら輝いていた時代です。ちょうど先月、東京大学大学院での文学の集中講義でも話した内容ですが、朝鮮の近代文学の嚆矢は1900年代で、例えば、イ・インジク(李人稙)という作家が1906年に「血の涙」という小説を書きます。詩については、チェ・ナムソン(崔南善)という人が1908年に書いた「海から少年へ」という作品がその出発点とされています。その後、1920年前後には『創造』『廃墟』『白潮』といった、文学の三大同人誌が創刊されたり、1920年代にはプロレタリア文学が勃興したりもしますが、1930年代に入ると、純粋文学といわれる、「文学のための文学」というのが出てきます。それを主導したのが「九人会」という団体で、この名は、川端康成らが所属していた「十三人俱楽部」を手本にしたものだと言われています。そして、この九人会というのが錚々たる面々で、例えば、小説では、イ・テジュン(李泰俊)、パク・テウォン(朴泰遠)、イ・ヒョソク(李孝石)、キム・ユジョン(金裕貞)、詩では、チョン・ジヨン(鄭芝溶)、イ・サン(李箱)などといった文学者たちがいました。このへんのことは詳しく話しますと、文学史の講義みたいになってしまいますので、これ以上は差し控えますが、朝鮮文学史に名を残している、こうした綺羅星のような書き手たちが1930年代に活躍していたというのは特筆すべきことです。東亜日報社による、ヴ・ナロード運動が展開されるのも1930年代前半で、いわゆる懸賞小説の中に優れた文学作品が出てきたのもこの時期です。因みに、映画に関連づけると、パク・テウォンという小説家は、『パラサイト』で日本でもよく知られるポン・ジュノ(奉俊昊)監督の祖父にあたる人です。

このように、1930年代は、朝鮮文学がいわば黄金期を迎えた時期でしたが、その黄金期は、日中戦争以降、1930年代後半から加速度的に激化する、朝鮮総督府のいわゆる「朝鮮語抹殺政策」によって終焉を迎えることになります。象徴的なのは、1938年の第3次朝鮮教育令です。これは内鮮一体の皇民化政策の一環として、内地と朝鮮の学校制度を同じくするという内容のもので、それまで「普通学校」と呼ばれていた朝鮮人の学校も、日本人の学校と同様に「小学校」と呼ばれるようになるわけですが、それに伴って、それまで必修だった朝鮮語科目が随意科目となり、爾来、事実上、朝鮮語科目が学校教育の場から消えていくことになります。

1939年には創氏改名が公布され、翌年から実施されます。一般的に言って、例えば、移民の場合は、「母国語」は失っても、最後のアイデンティティの拠り所、ルーツの痕跡として、名前だけはいつまでも残るというのが常ですが、日本の植民地下にあった朝鮮人たちは、他者によって固有の名前が剥奪されることになります。贅言を要さないことですが、名前というのはその人の存在そのものです。したがって、言い換えれば、名前を奪うということは、その存在を消すということでもあります。社会学や文化人類学の世界でしばしば言われることを私なりにパラフレーズすると、私たちの存在というのは、〈個としての自分〉と〈国家に承認された自分〉という、二重性= duality を帯びています。ベネディクト・アンダーソンが言うように、たとえネーションステート=国民国家が「想像の共同体」だとしても、私たちはいつしか国家というものを内面化している。より厳密に言えば、そういうふうに仕向けられているわけです。これは一種の〈社会化〉と言ってもいいかと思いますが、例えば、私たちは、子どもが生まれたら、必ず名前と共に役所に届ける。そのことによって、その子どもの存在が社会的に承認され、同一性が担保されることになるわけです。そして、子どもは、次第に名前と自分という存在を同一視するようになっていきます。言語学的に言えば、固有名詞というのは、類概念ではなく、入れ換え不可能な唯一のものを指示する語であって、名前とは、その人の存在の唯一無二性を支えるものでもあります。ところが、その同一性が暴力的に蹂躙される場合がある。その典型が創氏改名であって、これは、朝鮮人の同一性を踏み拉いて、引き裂くという点において、容認し難い暴力だったと言えるでしょう。映画の中に、スニの「나 이제 가네야마래요. 난 김순희 좋은데(わたしカネヤマだって。わたしはキムスニがいいのに)」という台詞が出てきますが、あの時代には、恒常性が侵襲的に破壊された、いわば「無数のスニたち」が至るところにいたんだろうなあと想像すると、胸が痛みます。

創氏改名が始まった1940年には、『朝鮮日報』『東亜日報』という朝鮮語の新聞が総督府の圧力によって廃刊に追い込まれることになります。さらに、1941年には、「国民学校令」によって、国語(日本語)は、修身、国史、地理と一緒に「国民科」という科目に編入され、日本語という言語科目も政治的な色をより濃くしていきます。そして、そうした流れの中で起きるのが、いわゆる「朝鮮語学会事件」です。

朝鮮語学会と朝鮮語学会事件

朝鮮語学会事件についてお話しする前に、まず、朝鮮語学会の前史について触れておきたいと思います。朝鮮語学会というのは、現在の「ハングル学会」の前身にあたるもので、もともと1908年にチュ・シギョン(周時経)という言語学者 ――チュ・シギョンという名前は映画にも実名で出てきますが――が組織した「国語研究学会」という団体を母体に1921年に作られた「朝鮮語研究会」という学術団体を発展させた学会です。朝鮮語研究会は、チュ・シギョンの門下生であったクォン・ドッキュ(權悳奎)、チャン・ジヨン(張志暎)ら、チュ・シギョンの学統を受け継いだ集まり ――彼らを〈ポスト周時経学派〉と呼ぶこともありますが ――で、この研究会の規則の第2条には「本会は、朝鮮語の正確な法理を研究することを目的とす」と書かれています。

なお、チュ・シギョンという学者は、朝鮮語の研究者であれば誰もが知っている非常に有名な人物で、一般には「ハングル」という名称を考案したことでも知られています。ご存じの通り、ハングルという文字体系は15世紀中葉に創制されるわけですが、チュ・シギョンが「ハングル」 ――直訳すると「大いなる文字」という意味ですけれども ――と名付ける前は「訓民正音」とか「正音」などと呼ばれていました。

朝鮮語研究会は、1927年には『ハングル』というタイトルの同人誌を刊行し、1929年には各界の有志108人が発起人となって、「朝鮮語辞典編纂会」を立ち上げます。この活動が、まさに映画の中で描かれているものです。1931年には「朝鮮語学会」という名に改称して、会則も改められるわけですが、映画の登場人物のリュ・ジョンファン、すなわち、イ・グンノがドイツ留学から帰ってきて、この会の中心的な人物として頭角を現したことも、学会の雰囲気を変えたのだろうと思います。

そして、1942年から43年にかけていよいよ「朝鮮語学会事件」が起きます。皇民化政策の「国語常用」 ――要するに「日本語常用」ということですが ――に反発した、今の北朝鮮の咸鏡南道の永生高等女学校の女子生徒の日記の記述に端を発し、まず、同学校の教員でかつ朝鮮語学会の会員であったチョン・テジン(丁泰鎭)という人物が1942年9月に検挙されます。10月にはその弾圧が朝鮮語学会にまで及んで、イ・グンノ、チェ・ヒョンベ(崔鉉培)、イ・ヒスン(李熙昇)といった言語学者たちが治安維持法違反で検挙されて、裁判に付されます。同じく、検挙され、投獄されたイ・ユンジェ(李允宰)、ハン・ジン(韓澄)といった学者たちは、先ほども申し上げましたが、拷問のために獄死することになります。こうして、都合33名の朝鮮語学会の会員が次々と検挙、投獄されることになった事件が朝鮮語学会事件です。朝鮮語学会の後身であるハングル学会の方々は、この出来事を「朝鮮語学会受難」と呼んでいます。これは、いわゆる「朝鮮語抹殺政策」の中でも特に大きな事件で、記憶にとどめておくべきものだと思います。

因みに、植民地期の朝鮮において、朝鮮語学会が唯一の朝鮮語関連の学会だったかというと実はそうではありません。もうひとつ「朝鮮語学研究会」という重要な学会がありました。これは啓明倶楽部という団体から出発したもので、1931年にパク・スンビン(朴勝彬)という学者が組織します。パク・スンビンは、日本の中央大学を出ていて、法律家でもありました。この学会も、ユン・チホ(尹致昊)、チ・ソギョン(池錫永)、チェ・ナムソンといった当時の代表的な知識人たちが関わっており、学術的に朝鮮語学会と対立して、激しい論争を展開したりすることもありました。今の韓国においては、いろいろな理由で、あまり高くは評価されておらず、朝鮮語学会に比べると存在感は薄いのですが、例えば、日本の朝鮮語教育で当たり前のように使われている「存在詞」、「指定詞」といった品詞分類の用語は、もともとパク・スンビンが使っていた用語です。

ところで、しばしば誤解されているので、ひとこと付け加えますが、「朝鮮語抹殺政策」といっても、1930年代末以降、すべての場面において、朝鮮語の使用が禁止されたわけではありません。朝鮮語の使用が禁止された場所は、主に学校と官公署で、また、総督府が弾圧しようとしていた、あるいは実際に弾圧した対象は、朝鮮語学会事件が典型ですが、主に学識のある知識人階層の人々でした。したがって、映画でも描かれていますが、街の中には1940年代でも依然としてハングルで書かれた看板が溢れていました。また、家庭内ではおそらく朝鮮語が使われていたでしょうし、あらゆる場面から朝鮮語が消えたわけではなかったと思われます。1943年末に日本語を解した朝鮮人は約22%だったというデータがあることからも分かる通り、総督府も完膚無きまで「朝鮮語抹殺政策」を徹底することはできなかったわけです。そういったこともあって、総督府は、朝鮮語の機関紙『毎日新報』を1940年代になっても刊行し続け、京城第2放送では朝鮮語の放送を行なっていました。

また、学問的に重要なのは、京城帝国大学 ――1924年に設立された研究教育機関で、現在のソウル大学校の前身ですが ――の教授だった小倉進平、そして、助教授だった河野六郎という言語学者の存在です。このおふたりの朝鮮語研究の業績は偉大にして汗牛充棟で、今でも韓国や日本の言語学者に至大な影響を与え続けています。例えば、1944年に刊行された小倉進平の『朝鮮語方言の研究』という著作がありますが、これは1911年から約20年にわたって普通学校の生徒をインフォーマントとして行なった方言調査の成果で、なんと朝鮮半島全体を対象とした研究なんですね。20世紀前半の、まだおのおのの方言が標準語の影響を受ける前の調査で、しかも現在では調査が困難な北朝鮮の様々な地域の方言も含まれる、たいへん貴重な資料です。近年、私の尊敬する恩師でもある、東京大学の福井玲先生が、この小倉進平先生の調査結果を言語地図化するという仕事をされていて、その地図を用いて、朝鮮語の方言全体のありようを分析するということを福井先生とその学生さんたちが行なっています。こうしたことは、「植民地支配」という文脈では、忘れられがちなのですが、植民地期の朝鮮語、あるいは言語学を考える上では重要で、看過してはいけないと思います。

辞書作りをめぐって:非暴力の命がけの抗い

次に、『マルモイ』という辞書についても語らないといけないのですが、「マルモイ」というのは、直訳すると朝鮮語で「ことばあつめ」というような意味です。映画のタイトルでも、「マルモイ」の横に「ことばあつめ」と付されています。「語彙集」と訳してもいいのですが、「マルモイ」という語は、朝鮮語の固有語 ――「固有語」とは、漢字語や外来語ではなく、もともと朝鮮語にあったと考えられている単語で、日本語の「やまとことば」に相当するものです ――なので、「ことばあつめ」と訳したほうがより原語の語感に忠実かと思います。一般的に用いられている名詞ではありません。もともとは、先にも名前を出したチェ・ナムソンという学者が1910年に朝鮮の古典の整理や保存、刊行などのために設立した「朝鮮光文会」という学術団体で、チュ・シギョン、クォン・ドッキュ、イ・ギュヨン(李奎榮)、キム・ドゥボン(金枓奉)といった方々が編纂し始めた、朝鮮で最初の国語辞典でした。ところが、チュ・シギョン先生の死去などによって、途中で作業が終わってしまいます。具体的には、ㄱの갹줄まで、英語でいえば、ABC のA の段階で、作業が終わってしまっている。この意味で『マルモイ』というのは、いわば「未完の書」なんですね。その未完の原稿は、その後、啓明倶楽部に引き継がれますが、辞書編纂作業はあまり捗らず、先ほども言及しましたが、1929年10月に、朝鮮語研究会の支持者を中心に「朝鮮語辞典編纂会」が発足します。そこから、辞書作りが少しずつ進められていくわけですが、これが難航するわけです。その原因のひとつには、財政難という経済的な困難もあったのですが、それに加えて、より原理的な問題が横たわっていました。端的に申し上げて、辞書というのは、作ろうと思って、いきなり作れるわけではありません。これはどんな言語の辞書を作る場合にも言えることだと思いますが、辞書を作るには、その前提として、大きくふたつの重要な作業があります。ひとつは「正書法の確立」、もうひとつは「標準語の制定」です。

まず、ある単語をどう表記するか、その形態を一意的に決定するのは実はなかなか難しいんですね。日本語の場合は、かなり簡単なほうですが、それでも、例えば、「王様」を「おうさま」と書くのか「おおさま」と書くのか、「氷」を「こうり」と書くのか「こおり」と書くのか、「地面」の「地」を「じ」と書くのか「ぢ」と書くのかなど、問題になり得るものもいろいろあるわけで、一貫性のある合理的な原則を立てて、表記を統一しないと辞書は作れません。そして、朝鮮語は、日本語と違って、学んでみたことがある方はお分かりだと思いますが、共時的=シンクロニックなレベルでの音の交替が非常に激しい言語です。専門的に言えば、morphophonological、つまり、形態音韻論的なレベルでの音の交替がたいへん複雑と言えます。そういう言語を文字化するのは非常に困難で、ひとつのことばでも、様々な綴り方の可能性があり得ます。実際、15世紀中葉にハングルが作られて以来、いろいろな表記法が試みられてはきましたが、衆目の一致を見た正書法は存在しませんでした。この映画の時代にも、朝鮮総督府による綴字法があるにはありましたが、実際の教育現場においては全面的な支持は得られておらず、朝鮮の人たちが自らの手できちんとした正書法を作るということをしようとしたわけです。繰り返しますが、辞書を作るには、基本形として語形をひとつに定める必要があって、統一された正書法の確立がまずは絶対的に必要なのです。そこで、朝鮮語学会は、1933年に『ハングル正書法統一案』というのを出します。

次に、標準語の査定作業です。映画の中でも方言を集めたり、それを基に標準語を定めたりする様子が描かれていますが、これも辞書を作るためには必須の作業です。実際には、映画のように、全国の刑務所の仲間たちを集めてきて方言を収集するというようなことはしていないのですが、いろいろな方言話者が集まって議論するということはしています。具体的に言うと、「標準語査定委員会」というのを設置して、京城(現在のソウル)や京城周辺の京畿道地域の出身者、咸鏡道、平安道、黄海道、江原道、忠清道、全羅道、慶尚道といった様々な地域の出身者が委員に選出され、会議を複数回経て、最終的に1936年10月に『査定した朝鮮語標準語集』というものが刊行されます。

ご存じの通り、朝鮮半島というのは南北に長いですよね。そういったこともあって、元来、方言差も著しく、しかも、南北分断後、70年ほどの歳月を閲しているにもかかわらず、今でも韓国と北朝鮮で互いにことばがほぼ通じるのは、この1930年代という時代に、朝鮮語学会が正書法と標準語を定めておいたからだとも言われます。もしも、このような、学術的かつ根気を要する地道な作業が遂行されていなければ、現在の南北の言語差はもっと大きくなっていて、互いの精神的な径庭もさらに大きなものになっていたのではないかと推察されます。そういった意味で、朝鮮語学会が辞書編纂以前の課題として行なったふたつの作業、すなわち、正書法と標準語の確定という作業は、今日的な観点から見ても、非常に意義深いものだったと言えます。

このような形で、正書法と標準語がしっかりと確定され、辞書作りの地盤が固められた上で、1936年から、辞書編纂の動きがいよいよ具体化していきます。しかし、先ほども申し上げたように、1930年代の終わりごろからいわゆる「朝鮮語抹殺政策」が猖獗を極めていきますので、映画の中でも描かれているとおり、こうした一連の営みは、単に記号論的な平面で行なわれたものではなく、死にゆく朝鮮語をいかに規範化して、記録していくかという、自らの存在を賭した、非暴力の命がけの抗いでもあったわけです。

言語論的に言えば、言語というのは、人間の存在そのものであって、朝鮮語を喪失するということは、すなわち〈わたし〉が死ぬということなんですね。勿論、朝鮮語の喪失は、「祖国の国語を失う」という、国家ないし自身の身体のメタファーとしてのパトリのことばを失うということでもあって、「朝鮮語抹殺政策」を難ずる文脈では「国」という概念が前景化することが多いのですが、それ以上に、母語を失うということは、何よりもこの〈わたし〉が死ぬということなんです。授業でもよく言うのですが、ことばには個人史が刻印されています。例えば、なぜ私が日本語を話せるようになったのかという問題があります。それは、幼いころに、両親や周りの人たちがたくさん日本語で話しかけてくれたからなんですね。そうした存在を、社会学などでは〈重要なる他者= significant others〉と言いますが、ことばというのは、そういう母性的な愛を想起させるもので、かけがえのない朧気な記憶と、愛されてきた証左が、鮮明に刻まれています。映画に即して言えば、スニが朝鮮語を失うということは、例えば、お父さんのパンスやお兄さんのトクチンとの関係性や追憶を支えてきた代替不能な媒質を喪失するということです。「朝鮮語抹殺政策」というのは、朝鮮の人たちのそうした大切なもの――朝鮮語とそれに支えられた個人史 ――を、外部からやってきた闖入者が強制的に殲滅しようとしていた、ということです。そして、言語的基盤の崩壊はある種のアノミーを齎します。こうした言語の喪失の持つ意味合いというのは、勿論、朝鮮語に限った話ではなく、アイヌ語でもギリヤーク語でも、あるいは、バスク語でもアラゴン語でも同断ですが、コンテクストは全然違っていても、ユニバーサルな問題として、正面から考えてみるということが重要だと愚考します。「言語の消滅」とか「危機言語」という問題については、デイヴィッド・クリスタルやニコラス・エヴァンズといった言語学者たちの著作を参照していただければと思いますが、世界で現在、2500ぐらいの言語が消滅の危機に瀕していると言われています。

話がやや脱線しましたが、朝鮮語学会は、こうした逆境にも屈せず、辞書原稿を何とか完成させ、1942年春には、大同出版社というところで組版に取り掛かることになります。そうしたさなか、その年の秋に朝鮮語学会事件が起きて、辞書原稿や関係書類がすべて押収されてしまい、同時に辞書作りに関わっていた人たちも検挙されたため、刊行目前だったにもかかわらず、最後の最後で頓挫してしまうことになります。幸い、解放後に、辞書の原稿が発見されて、刊行に至りますが、映画とは細部が違います。映画の中では、辞書が1冊の書物にまとめられているように見えますが、実際には段階的に出版されて、全6巻、1947年から1957年にかけて、順に出されていきます。1巻と2巻は『조선말 큰 사전(朝鮮語大辞典)』という書名でしたが、3巻以降は単に『큰 사전(大辞典)』という名で刊行されます。

なお、朝鮮語学会は、1949年に「ハングル学会」と名称を変えて、いまなお健在で、朝鮮語学の主要な学会のひとつとして、活動を続けています。ハングル学会は、学術大会を開催したり、学会誌を出したりするだけではなく、漢字を用いずに、ハングルだけで朝鮮語を表記する綴り方 ――これを「ハングル専用」と言いますが ――を慫慂してきた団体でもあります。また、チュ・シギョン先生やチェ・ヒョンベ先生は、固有語の言語学用語を作った人で、例えば、形態素を늣씨、音声学を소리갈と言ったりしていますが、その学統を引き継いで、ハングル学会では今でも固有語の言語学用語をよく使っています。日本語学では、奥田靖雄先生をイデオローグとする「言語学研究会」というグループが、「アスペクト」を「すがた」と呼んだりするなど、やまとことばの言語学用語を用いたりもしていますが、それと少し似ているようにも思います。

『マルモイ』の「それから」

近現代史における日本語と朝鮮語の関係を考えてみると、日本語は帝国、宗主国の言語、朝鮮語は植民地の言語で、そこには位階差、非対称性が歴としてありました。植民地期の朝鮮の書き手たちはみな日本語を通して「近代」という概念や近代的な概念群、そして「文学」を学んで受容していきます。したがって、植民地期の朝鮮の小説家や詩人たちは、まずは日本語で創作して、あるいは日本語で思考して、それを朝鮮語に翻訳するということをしていたわけです。実際、例えば、イ・インジク、イ・グァンス(李光洙)、キム・ドンイン(金東仁)、チュ・ヨハン(朱耀翰)といった、近代朝鮮の代表的な文学者たちの処女作は日本語で書かれたものでした。このことは、日常的な皮膚感覚の言語は別として、彼らの知的な思考は日本語に統べられていたということを意味します。例えば、キム・ドンインはのちに、「なつかしい」、「~にちがいなかった」などといった日本語的な表現を朝鮮語にどう翻訳すればいいか、個々の日本語にそれぞれ当てはまる朝鮮語を得るのに多くの時間を費やした、というようなことを、回想録の中で述懐しています。そして、このような形で朝鮮の近代文学が作られていくので、当然のことながら、日本語の影響を朝鮮語が強く受けていくわけです。こうした朝鮮文学のありようを、プロレタリア文学者で、解放後、北朝鮮に渡ったイム・ファ(林和)という人は、〈移植文学〉と呼んでいます。

こうした事実を背景として、1945年に朝鮮が日本から解放されても、朝鮮人、とりわけ知識人階層は、日本語から解放されることはありませんでした。つまり、日本からの解放は、日本語からの解放を意味しなかったということです。ひとたび身体化されたことばは、それがたとえ厭忌すべき侵略者の言語だとしても、そう簡単に剥がすことはできません。日本語は、彼らの思考や感情を統制するドミナントなことばとして内面化され続けていくわけです。このことは「国家の解放と言語からの解放にはタイムラグがある」と定式化してもいいでしょう。百たび強調されなければならない事実だと思います。映画では、朝鮮が日本による植民地支配から解放され、辞書も刊行されて、ある意味では、美しい大団円を迎えますが、時代の「それから」、あるいは『マルモイ』の「それから」について、私たちはポストコロニアル的な視座から、謙虚に、理性的に、思考を傾けなければなりません。例えば、1950年代に活躍したアプレゲール ――〈6・25世代〉とも言いますが ――の作家たちは、言語形成期が植民地時代であったため、解放後、朝鮮語を学び直して、自身の言語体系を改鋳しながら、創作せざるを得ませんでした。つまり、彼らは常に日本語と対峙しながら書いていたわけです。したがって、彼らの朝鮮語の文体は生硬だと指摘されたりもします。現象面では朝鮮語による表現であっても、そこには日本語が恒常的に通奏低音として伏流していたと言ってもいいでしょう。また、キム・スヨン(金洙暎)というアンガージュマン文学の詩人は、「独立後二十年、初めて日本語から韓国語への翻訳の疲れを感じずに文章を書く」というようなことを書いていたそうです。こうしたことからも、朝鮮が日本から独立しても、その後長らく日本語が揺曳していて、彼らはその呪縛を生きていたのだということが分かります。

言語は「単なるコミュニケーションのツール」だとよく言われます。「単なる道具なんだから、通じればいいんだ」とか、「それより中身が大事だ」とか、大学の言語教育の現場でさえ、そうしたいわゆる〈言語道具観〉、〈言語道具視観〉に毒された言説を耳にします。私はこうした言語道具観をいろいろなところで批判してきましたが、まさにこうした〈日本からの解放〉と〈日本語からの解放〉が全く別のレイヤーに属する問題であるという歴然とした事実は、言語が単なるツールではなく、人間の存在の根幹に関わるものであるということを如実に示しています。グロリア・アンサルドゥーアという、いわゆるチカーナで、英語とスペイン語のあわいに生きたフェミニストがいましたが、彼女はこう言っています。「私とは、私のことば、なのだ。私のことばに自信をもてるようになるまでは、私は自分に自信を持つことができない」 ――これは含蓄に富んだ言辞です。ことばとは自分自身であり、そのことばを愛でることができるかどうかということが、自身を肯定するための鍵鑰になるということです。そして、その「私のことば」というのが、侵略者のことばであったとき、果たして自分自身を心から愛せるだろうかという問題に、私たちは逢着します。このように思考を巡らすとき、ことばを強制するということは、その人自身の存在への肯定感をも脅かすという点において、許しがたい暴力だと言えるでしょう。歴史的なコンテクストは違いますが、アンサルドゥーアのことばというのは、植民地期を経験した朝鮮半島の方々や在日コリアンの方々の思いにも通ずるところがあるのではないかと私は察します。

一般的に言って、母語は、選ぶことができません。例えば、私は気づいたときには既に日本語母語話者として「在った」んですね。ジャック・ラカン風に言えば、いつしか〈象徴界〉が出現していた。このことを私は〈選択不能な恣意性〉と呼んでいます。ハイデガーの「被投性」ということばを借りれば、私たちの母語は「被投性を帯びた存在」と言ってもいいかもしれません。しかし、他者から言語をアーティフィシャルな形で強制されたとき、そうした言語の本態的なありようは、自ずと歪められることになります。

在日コリアンのキム・ソクポム(金石範)という作家さんがいます。ご存じの方も多いと思いますが、済州島出身のご両親のもとに大阪で生まれた在日二世で、いわゆる4・3事件を描いた『火山島』という作品でよく知られる方です。この方は『新編「在日」の思想』(講談社文芸文庫)という本の中で、「日本語の持つ民族的形式の機能が、朝鮮人の私を束縛する」とし、「その束縛は、民族語である日本語そのものの機能(論理的側面)と、日本語が過去の支配者、われわれの言語を含めて民族的なものの収奪者のことばであったという倫理的側面が一体となったものだ」と述べています。「論理」と「倫理」の双方から束縛されている ――これは深いことばです。キム・ソクポムさんの世代の在日の書き手たちというのは、こうした二重の負の感情を抱きながら、あるいは場合によっては、アンビバレントな思いを持ちながら、日本語と向き合ってきたということです。これは作家に限られた話ではありません。そして、今の在日コリアンの多くは、「日本生まれ、日本語育ち」の世代ですので、母国語の朝鮮語はほとんどできず、日本語のみを有しているという方が圧倒的に多いでしょう。勿論「言語は国家のものではなく、個に属するものである」という、言語論の極めて基本的なテーゼに照らせば、特段珍しいことではないのですが、ジャック・デリダ風に言えば、「たった一つの、私のものではない言葉」をどう生きるかという、植民地支配が齎したこの論件は、いまなお今日的な問題として、私たちに鋭く迫ってきます。

最後に、福岡という地で映画『マルモイ』について語る上で、どうしても触れずにはいられない人がいます。詩人のユン・ドンジュ(尹東柱)のことです。彼もまた『マルモイ』の時代を生きた人でした。彼ほど至純で廉直高潔なイメージの詩人も他にはなかなか思いつきません。数年前に映画にもなりましたので、ご存じの方も多いと思いますが、ユン・ドンジュは、韓国で最も愛されている詩人のひとりで、素晴らしい詩を朝鮮語でたくさん書いていました。しかし、同志社大学に留学中だった1943年の夏に独立運動の嫌疑で特高警察に検挙されます。そして、その後、福岡刑務所北3舎で27才という若さで殞命します。私自身、文学にも興味があるというのと、福岡で朝鮮語教育に関わっているということもあって、ユン・ドンジュについては、人一倍強い関心を持っていますが、何度も申し上げているように、1930年代末から1940年代前半という時代は、朝鮮語が特に危機に曝された時期でした。1930年代の半ばぐらいまでは、日本の植民地下にありながら、朝鮮語で文学作品が陸続と生み出されていましたが、1940年代になりますと、時局柄、もう朝鮮語で文芸活動をすること自体が困難になるわけです。実際、ユン・ドンジュも1941年に、今の延世大学校にあたる延禧専門学校の卒業記念として自選詩集を出そうとしましたが、結局、果たすことができませんでした。このようなことから、1940年代という時代は、文学史上、朝鮮文学の「暗黒期」と称されることがありますが、公にはできなくとも、こっそりと朝鮮語で詩や散文を書き続けたユン・ドンジュの存在によって、「暗黒期」であったこの1940年代が、朝鮮文学の「空白期」にはなりませんでした。文芸評論家のペク・チョル(白鉄)という方は、ユン・ドンジュのことを「暗黒期の空の星」と呼んでいて、これはユン・ドンジュの詩集である『空と風と星と詩』に因んでいるのだと思いますが、ユン・ドンジュはまさにこの「暗黒期の空の星」だったと私も思います。彼は、最終的に、福岡刑務所で非業の死を遂げるわけですが、今際の際に「なにやらわからぬことを大声で叫んだ」と言われています。それを聞いた日本人看守は朝鮮語が分からなかったので、彼が最後に何を叫んだのか、何を言いたかったのか、謎のままです。何年か前に出た、キム・エラン(金愛爛)という作家さんの作品に「沈黙の未来」という短編(『外は夏』所収)があって、これは喪失を描いた、いわゆる「セウォル号以降文学」と呼ばれるジャンルのひとつですが、その中に「死の直前、宙に向かって意味不明の言葉を吐き散らしたある者の絶望」という表現が出てきます。これはおそらくユン・ドンジュのことではないかと勝手に思っていますが、それはともかく、ユン・ドンジュに興味がある人にとっては、彼が最後にどういうことばを発してこの世を去ったのか、ぜひ知りたいわけです。しかし、それは叶いません。このエピソードは、言語論的にはとても重要で、要するに、ことばは人と人とを繋ぐものでもあるけれども、人と人とを引き裂くものでもあるということを如実に示しているんですね。人間は、ことばが異なるがゆえに、ことばが理解できないがゆえに、いとも簡単に、無残にも引き裂かれてしまう。私たちは、ユン・ドンジュの詩によって、ユン・ドンジュと繋がり、ユン・ドンジュの最期のことばによって、ユン・ドンジュと引き裂かれています。こうしたことからも分明な通り、ことばは単なるニュートラルなツールなどではありません。人間の実存や、時に生き死ににも直結する残酷なものです。

いろいろと話してきましたが、「マルモイ問題」というのは、決して過去の物語ではなく、ある意味では、同時代的な、アクチュアルな問題だとも思っています。先ほど『マルモイ』の「それから」について、私たちは思考を傾けなければならないと申し上げましたが、それは単に言語や文学の問題だけではありません。話はやや飛躍しますが、例えば、ヘイトスピーチひとつとっても、日本社会の排他性が顕現していて、そこには剣呑な雰囲気が漂っています。ヘイトスピーチほど過激ではなくとも、私たちが日常生活で目睹する、他と異なることを許さない、多様性の蹂躙は、社会の彩りを喪失させ、世界をモノトナスなものへと変えていきます。こうした社会は非常に生きにくく、その帰趨が危ういものであることは絮言するまでもありません。あるいは、昨今の COVID 問題においても、医療従事者や感染者への差別的な言説やデマゴギックなことばが跳梁跋扈していて、社会の不寛容さが露呈しています。カール・ポパーは「寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に対して不寛容であらねばならない」と喝破していますが、逆に、不寛容さがあたかも正義であるかのようなエートスが瀰漫しているようにも感じられます。『マルモイ』の時代というのは、単一の思路、単一のイデオロギーが掣肘されることなく社会全体を専一的に支配していた圧伏の時代でした。アディーチェのことばを援用すれば、「シングルストーリー」が浸潤していた時代だったとも言えるかもしれません。そして、まさにいまも単純で分かりやすいものが求められている時代、精神医学的に言えば、認知的成熟度の低さ、ネガティブ・ケイパビリティの低さが顕になっている時代であって、これはあながち牽強付会ではないと思います。理性的に振る舞うためには、複素性に耐えるということが必要なわけですが、それがなかなか難しくなっているのが今という時代なのではないかと、自戒の念を込めて、思ったりもしています。

長くなりましたが、『マルモイ ことばあつめ』という映画は、こうした形で、様々なパースペクティブから眺めてみることによって、いろいろなことを考えることができる作品で、そうした思考の断片をこの場でみなさまとともにすることができて、とても嬉しく思います。以上です。

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