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20240611 イラストエッセイ「私家版パンセ」 0014 ピラミッド型の社会と民主的共同体

 権威主義国家と民主国家の対立、ということが昨今、よく言われるようになりました。
 けれどもこれは新しいことではなく、この二つの社会の類型は古代からありました。
 権威主義国家は、ピラミッド型社会と呼ぶこともできます。これは、より強いものがより弱いものを支配することを繰り返して、最終的に一人の支配者の元に社会秩序が安定するというものです。
 古代から近代まで、ずっとこの型の社会が主流でした。一見すると、下の者が辛くていやだなーと思うかも知れませんが、下の人はより下の人を支配するので、結局辛いのは一番下のひとだけということになり、ほとんどの人はさほど辛くないのです。
 この社会では、一人の支配者の意思が物事を決めます。古代においては、この支配者が神になります。この社会に暮らす人間に求められる美徳は従順です。つねに上の者の意向を忖度する能力が必要になります。意志決定は迅速ですが、支配者が気まぐれな場合、何が正しいのかが明確でないために、「不作為」(なにもしないこと)が処世術になります。そして何より、この社会では、支配する優れた人間と、支配される劣った人間がいるということを前提とします。
 一方、古代イスラエルの共同体や、ギリシャのポリスでは、他を圧倒する強者がなかったために、共同体を構成する人々の平等を担保する法律(律法)が社会を支配するようになりました。旧約聖書では、この律法が神になっていることが見て取れます。古代社会では、この型の社会は極めて例外的な、偶発的なものでした。
 この社会において物事は弁論によって決せられますので、雄弁が美徳になります。人間間に支配、被支配の関係が生まれることを嫌うので、基本的に法は弱い立場の者を守るための働きをすることになります。たとえば、旧約聖書では週に一日仕事を休め、という律法がありますが、これは休んでも良いという権利ではなく、労働者を休ませなければならないという、義務の意味合いなのでした。そのようにしておかないと、いつのまにか強者が弱者を支配する関係性が発展して、すぐにピラミッドが生まれてしまうからです。
 この型の社会では、気まぐれな支配者ではなく、成文化された法律が正義を明らかにするので、自由な一人一人が自分で判断して行動できるので社会に活力が生まれます。一方、物事を決するのに時間がかかり、しばしば意思決定の議論が紛糾することになります。そして何より、たとえ能力の差はあっても、貧富の差があったとしても、人間は一人一人平等の権利と価値、つまり人権を持つことが前提となります。

 日本は民主主義の国だということを前提にお話ししますが、それでも日本は伝統的にピラミッド型の社会でした。ですからピラミッド型社会に見られる、従順や不作為(出る杭は打たれる)のようなものがたくさん残っています。
 ぼくは教師でしたけれども、周りのクラス運営や部活動の指導の場は、ほとんどが先生を頂点とするピラミッド型の社会だったと思います。ぼくは何とか民主的な共同体にしたいなって努力しましたけれど、大変でした。
 一つだけ言えることは、子供たちは大人が言ったことではなく、していることを見て育つということです。
 クラス運営の場合、放っておくとすぐにクラスはピラミッド型の社会になります。
 これは日本に限らず、民主的社会の方が例外的なもの、つまり人間の本性に反するものなので、これを維持するには不断の努力が必要なのです。





私家版パンセとは

 ぼくは5年間のサラリーマン生活と、30年間の教師生活を送りました。
 その30年間、子供たちが元気になれるような言葉はないかなと考え続けて来ました。
 そんな風にして考えた小さな思考の断片をご紹介します。
 これらの言葉がほんの少しでも誰かの力になれたら幸いです。


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