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闘病経験から得たもの/指定難病「オスラー病」とは?

私は18歳の大学浪人時から5年間に渡り、闘病を続けてきました。本日はその時の体験から得たものや私の発症している難病であるオスラー病の紹介をしていきたいと思います。

本日の発信する内容が1人でも多く方への励みになれば幸いです。また、闘病体験記を本に纏めて、多くの方に読んで頂くのが夢なので、今回の振り返る時間が持てたことにも本当に感謝です。

①闘病の履歴

大学浪人時の18歳の時に脳動静脈瘻が見つかり、大学病院でオスラー病(指定難病)と診断されました。当初、めまいの頻度が多くなっていたので、街の病院を受診したのがきっかけです。その後の5年間で8回塞栓術をし、1回開頭手術をしました。(18歳から23歳まで)

病気が発覚

私は人生で入院したこともなく元気なスポーツ少年だったので、病気が見つかった時はとてもショックでした。何故自分が病気なのか、それなりに真っ当に生きてきたはずなのにここで死ぬのか、と病気を受け入れることができませんでした。

一体この先どうなってしまうのだろうとすごく悩み、自暴自棄になった時もあります。当時、浪人生だったこともあり元気に大学に通っている友人と比較して落ち込んだり、自分の運命を恨んだりもしました。

闘病開始

そうして始まった闘病生活ですが、大学浪人時には計3回の脳血管カテーテル手術をしました。予備校に通っている友達には負けたくない、こんな病気を持っているからこそ自分は何か特別なんだ、と言い聞かせて毎日頑張っていました。予備校の授業中に脳出血で倒れたらどうしようと思っていたこともありますし、模擬試験の最中に気分が悪くなったりしたこともありましたが精一杯やり抜きました。

2回目の手術の後遺症で髪の毛が抜け落ちてしまい、ニット帽を被って予備校に通っていたこともあります。当時の予備校の2チャンネルには「ニット帽を被っている奴がいる」と叩かれていたこともありましたが、自分の選んだ道を正解にするために必死に勉強をしていました。

そうして3回目の手術も終わり、勉強に専念することができ、無事に第一志望の慶應義塾大学経済学部に合格をすることができました。他の志望校はほとんど落ちましたので、本当に奇跡としか言いようがありません。

酒井先生

(今も大切にしている予備校の恩師からのメッセージです)

大学生活との両立

こうして始まった大学生活ですが、一年生の頃の夏休みを利用して入院と手術を繰り返しました。他の同級生はサークルの夏合宿などに行って青春を謳歌している中、自分は通い慣れた病院で入院する生活がとても悔しかったです。私は所謂大学デビューというものを体験したことがないので、慶應に通っていても、合コンやナンパ等とは縁のない生活を送っていました。今となっては少なからず自身の劣等感になっているのかも知れません。

大学三年生になる春休みには、大阪の病院に検査をしに行ったり、夏休みには初めての病院で手術を重ねるなど色々な経験をして、時には絶望を味わいながらもたくさんの方々に支えられて生活を乗り越えることができました。闘病と学業を並行できたのは、大学の同期を始め、周りの支えが合ったからだと思います。

ゼミ

(大学三年時のゼミの発表です)

15時間にも及ぶ大手術

そうして大学四年生になる時に一度休学をして、脳の開頭手術をしました。15時間にも及ぶ手術で生死の境を彷徨いました。お医者さんの懸命な努力と奇跡的な幸運によって何不自由なく生還することができ、本当に感謝しています。

その後リハビリを重ね、日常生活を送ることができるまでに回復しました。最初は立つことも歩くこともできず、手の痺れにも悩まされましたが、コツコツとリハビリを継続していくことで出来なかったことが出来るようになるという成功体験を得る経験にもなったと思います。(母親や看護師さんにお風呂に入れてもらったのは今思うと恥ずかしすぎましたが、具合が悪すぎてその時は何も感じませんでした。。)

入院

(退院祝いに母親と病院最上階のレストランに行きました)

突然始まった闘病生活でしたが、5年間で計9回の手術を経て完治に至ることができました。当時はできると思っていなかった社会復帰もすることができ、毎日楽しく生きています。

②そこから得たもの

病気を通して日常に感謝する心や、人を思いやる心が育まれていきました。

闘病経験ではたくさん落ち込んだりしましたが、この経験を通して前向きに考えることができるようにも変わっていったと思います。

特に感じたことは、病気が治ってからが自分の人生ではなく闘病中の日々も大切な人生だということです。この気付きから、やりたいと思ったことは状況が整うのを待つのではなく、積極的にやった方が良いと感じるようになりました。明日を待っていても自分の命があるか分からないので、たとえ絶望の中にいてもできることをやっていくしかないのだと学びました。この経験があるからこそ少し生き急いでいる自分がいるようにも感じているこの頃です。

また、外部的な状況は変わらなくても、自分の意識の持ちようによって目の前の世界が変わっていくということも学びました。今となっては、闘病期間は病気という目の前の変えることのできない現実をどう捉えるかの訓練だったと思っています。様々な自己啓発本でも書かれている内容ですが、自分が体験してみることによってかなり鮮明に実感することができました。

それらはもちろん、医療関係者の皆さん・家族・友人・予備校の先生や大学の教授らの支えがあったからこそだと思っています。この場を借りて感謝したいです。今後は自身の闘病の経験を発信していくことで少しでも誰かの役に立てたらと思っております。自分がこのような大きな経験をしても今なお生かされている意味を考えている毎日です。

病気が発覚してから今年で10年が経ち、記憶は色あせていきますが、当時感じたことや自分の使命はぶらさずに今後も生きていこうと思います。

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③指定難病オスラー病とは?

ここで簡単にオスラー病の紹介をしたいと思います。

別名、遺伝性出血性毛細血管拡張症とも言われており、全身の毛細血管に異常が起こるとされている、常染色体優勢の遺伝性の疾患です。

繰り返す鼻血が特徴的で、私の場合はオスラー病が原因となって脳動静脈瘻を発症していました。簡単に言うと、先天的に脳の血管奇形があり、放っておくと脳出血で死に至るという状態でした。

私の場合は脳の血管奇形でしたが、肺や腸の血管奇形から出血を繰り返している患者さんもいるような状況です。

まだ医師にもあまり認知されていない難病の為、患者会を始めとした様々な啓蒙活動を進めている段階です。特に症状が多岐に渡るので、課を跨いでの診察に苦労しているような現状があるということを聞いています。

そんな中、昨年日テレのテレビ番組である”ザ!世界仰天ニュース”にてオスラー病が取り上げられました。私と同様にオスラー病を発病しながらもアイドル活動を頑張っている方の特集でした。

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ハンディキャップを抱えていても夢に向かって努力していく姿には、感動を頂き、自分も何かやらなくてはという使命感に燃えています。(下記に彼女が活動している「三姿舞」のリンクを貼っておきますので是非御覧下さい)

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(実際に放映された時の画像です)

様々な難病がある中で、オスラー病を取り上げてくださったことにも感謝しています。今後とも認知が広がり、社会的な理解が少しでも進むと良いなと思っています。

難病情報センター オスラー病
http://www.nanbyou.or.jp/entry/4351
特定非営利活動法人 日本オスラー病患者会
https://www.hht.jpn.com/
三姿舞​(千葉県流山市出身の本当の三姉妹によるダンスボーカルユニット)
https://www.holyisland.me/sanshimai-about

④現在の活動/将来の目標

現在は脳動静脈瘻は完治し、毎日元気に暮らしています。

また自身の人生をより良いものにしていこうと色々と挑戦しているところです。やはり自分の中の核となっているのは闘病の経験であり、そこから奇跡的に生還したことだと思っています。

だからこそ上記でも書いたように、自分には何らかの使命があるのだと信じています。

まだ将来的に何ができるのかは分かりませんが、多くの人に影響力を持って、何か励ましを与えていく人間になりたいと思っています。

詳しくは下記の記事を読んでもらえると有り難いです。


纏め

今回は闘病の経験を振り返るとともに、オスラー病の情報を共有しました。

最初の手術から10年が経過し、自分の中でも当時の記憶が曖昧になっている部分がありますが、これからも自分の原動力として振り返る時間を取っていきたいなと思わされました。

これから10年後はどんな未来を歩んでいるか今からワクワクしています。

ここまで読んで頂き、ありがとうございました!!

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