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【ショートストーリー】いつか王子様が【3200字】
鍋の中で、煮込まれたトマトがぐずぐずとその形を崩していく。
木のへらでそれを更に崩そうと、私はその塊を追う。力を入れて上からへらで潰そうとすると、するり、と意思を持っているかのように逃げられる。そんな動作を何度か繰り返しているときだった。
「ねえ、どうするか決まった?」
苛々としたような母の声。振り向かなくても分かる。彼女は怒っている。その感情を受け止める自信がない私は、視線を鍋の中に落としたまま、返事を返した。
「そんな簡単に決められるものじゃないでしょう」
「それはそうだけど…もう時間がないのよ。料理なんかしている場合じゃないでしょう」
「ずっとやりたくてもできなかったの。材料だってやっと揃ったんだから…」
私がそう言うと、母は意外にも黙りこくった。
ぐつ、という鍋の中の音が、二人しかいないキッチンの空気を少しだけ変える。
「会ってみればいいじゃない。向こうは乗り気なんだから。とんとん拍子に進むわよ」
「…私、ほんとは乗り気じゃないの」
何よそれ、という母の言葉は殆ど悲鳴に近かった。
「あんた、一回はいいよ、って言ったじゃない。だから私、大野さんにお願いしたのよ」
「その時は言ったけど…やっぱり、違うと思う」
鍋の中の野菜が、殆どその輪郭をなくし、とろみのある赤い液体へと姿を変える。
「あのねキョウコ…」
「お母さんが私のこと考えて、話を持ってきてくれたことは分かるよ。でもね、私、やっぱり…」
「いい加減にしなさい!」
後ろから刺すような言葉に、ようやく私は振り返る。母は泣いていた。この人が泣いているのを見るの、いつぶりだっけ。顔を歪める彼女とは対照的に、私はそんなことを考えてしまう。
とぷとぷ、という沸騰した音と焦げたにおいで、鍋の火力が強すぎたことを悟った。私は母からの視線から逃げるように、慌てて室内の喚起を促すスイッチを押して、キッチンの窓を少し開ける。
「あんた、このままじゃ…独身のままじゃ、死んじゃうかもしれないのよ」
私は返事をせず、窓から見える街に目をこらした。25階建てのマンションの最上階にある私たちの部屋からは、街の様子がよく見える。
昨日よりも大きな地割れが、私が生まれた街を更に分断していた。
地球がおかしくなっている。
そんなニュースを聞いても、どうせ影響があるのは100年後だとか200年後、300年後のことだろう。大体の人間は、自分が生きている間に影響があるぐらいのことが起こっているなんて、夢にも思っていないだろう。私もそのタイプの人間だった。
大学を卒業して、希望している業界に何とか就職できた。仕事は楽しかった。やればやるほど、成果がでることも自分の性に合っていた。毎日遅くまで仕事をして、朝早く出社する。それでも良かった。のめり込むものがある幸福。周りは結婚や子育てを初めても、私は仕事に没頭していた。
科学の発達で、平均寿命が延び、妊娠や出産も医療の力を借りれば、高齢の初産でもリスクはそれほど高くなくなった。その一方で、価値観の多様化が更に進み、独身のままで一生を終える選択をする人も増えた。
そうなってくると、独り身用の老人福祉施設はビジネスチャンスだ。ここ20年~30年程でかなり充実していて、人気の施設は早い人で30代から入所予約をしているらしい。
無理して結婚なんてしなくていい。
もう、それが当たり前になった時代に私は生きていた。
母は「婚活」というものをして、父と出会い、私を授かった。「結婚まで結構大変だったんだから。今はいい時代かもね」と笑いながら話す母の話を聞きながら、私はその時代に生まれなくて良かったな、と思う。
それが一変したのは、数か月前。
『国民の皆様へのお願い』
首相から、国民に向けた10分間のメッセージ。それは何度も何度も繰り返し放送された。最初は悪いジョークだと憤っていた善良な国民も、各国で同じようなメッセージが配信されているということ、そして、世界各国で様々な災害が立て続けに起こる現状を目にするにつれ、信じられずにはいられなくなった。
『大変驚かれることとは思いますが、この地球が、あと数年後に人類が住むことのできない星になるという予測が、残念ながら現実のものとなってしまいました。このままでは人類は滅亡してしまいます。』
この後の言葉を、私は映像で、文字で、何度も繰り返し飲み込んだ。
『ただし、対策は考えてあります。我々は秘密裏に、世界各国で共同して地球と似た環境の惑星を発見し、人類が居住できるよう、設備を整えてまいりました。人類が徐々にそちらへ移住し、更に生命活動を存続できるよう、既に計画は進み、実行まであと少しというところまで来ているのです』
『ただ一つ、国民の皆様にお願いがございます。それは、全国民の皆様を新たな惑星に移住するためには、一回の移動では到底無理であるということ。そして、その移動につきましては…』
窓の外から、女性の叫ぶような泣き声が聞こえた。度重なる災害で、今までの社会生活は粉々になった。惑星への移住が可能なほど発達した科学も、その基盤となる地球自体が崩れていけば、それに十分に太刀打ちできるほどのものではなかった。
そもそも、そうした科学技術の恩恵は、経済的に恵まれた人々がその殆どを享受しており、貧富の格差や社会の分断は、より深刻になっている。
「結婚して子供が生まれたら、移住の優先順位が上がるの。私は移住できなくても、あんたは絶対、生きなきゃ」
泣きそうな母が私にすがりつく。私はその肩をぽんぽん、と優しくたたいた。
「分かってるよ、お母さん…私、結婚しないなんて、一言も言ってないでしょう」
「えっ?」
「私、お見合いっていう、前時代の古い方法だけは嫌なの」
母が信じられない、という顔で私を見た。
政府の移住計画を発表してから、独身男女の関心事は急に「結婚」に集中した。結婚して、子育ての可能性があると判断された夫婦が、惑星移住計画の第一陣として選ばれる、と政府が公式に声明を出したからだ。同性婚の夫婦で、子を養っている場合も同様に対象らしい。
恐らく新しい惑星での人類の繁栄を見込むためには、それが一番手っ取り早いのだろう。地球で発達した科学が新たな惑星で根付くまで、どのくらい時間がかかるのか、素人の私には到底想像ができない。
勿論、この政府の結論に世論は散々反発が起きたが、徐々に壊れていく地球に、皆それどころではないと思い立った。
今、この世で一番の関心事は「結婚」と「子育て」になりつつある。
「でもあんた、今まで恋人だって…」
「いたことないわ。けれど、きっといるのよ。私にとっての運命の相手が。ロボット任せじゃない、自分の手で料理ができる人間自体、珍しいんだから。きっとすぐに私の意思で選んだ人が見つかるはずよ」
無事に結婚して、惑星移住したとして。その後の新生活を私は想像した。母が知り合いから紹介してもらおうとした男性も、きっと移住目当てだろう。死にもの狂いで結婚しよう、子を儲けようとする男女のためのビジネスや、結婚詐欺まがいがこの頃は流行しているらしい。
この世紀末にそんなものが横行するなんて、商魂逞しい人間の性には笑ってしまうぐらいだ。
勿論、政府は全ての人類を移住する計画を打ち出している。けれど、皆それを待てないからこんなにも混乱が広がっている。
人は、将来に不安があるときに一番狂いやすい。
「先に惑星移住した人、離婚率がすっごい高いんだって。それはそうよね。価値観の違い、絶対浮彫になるもの」
「今はそういうこと気にしてる場合じゃないでしょう」
母の言葉に首を振る。
「お母さん。私はね、絶対に生き延びる。それは決めてるの。だからこそ、もっと先を見通して考えてるの」
鍋の蓋を開ける。ミネストローネが、いい塩梅で仕上がっていた。
「私、見つけるわ。運命の王子様をね」
ずん、という大きな地響きを感じる。地球の終わりが忍び寄るのを感じながら、私は自分の生死がかかっている将来の伴侶について、静かに思いを馳せた。
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