セラピストガチャ
前に、ガチャという言葉をよく見かけた。
特に最近、話題になったのは「親ガチャ」という言葉。その言葉の意味で調べてみると以下のような解説が見つかった。
と、そういう意味らしい。
格差社会が広がる中で、生まれた瞬間から経済格差の波に投げ込まれてしまう社会状況を揶揄した言葉のようだ。
ガチャという言葉が良いかどうかは置いておいて、ガチャという言葉が〈運命〉という意味であるならば、たしかに人生は結構ガチャだよな、と僕は思ってしまう。
自分がどんなに懸命に努力したって、頑張ったって、真面目に生きたって、お金があったって不幸になるときは不幸になるし。
逆に不真面目にしたって、サボってたって、お金がなくたって幸せになる人は幸せになる。
経済格差が子が体験できる量と選択の幅を狭めている、というのなら確かにそうかもしれない。
が、学ぶことや生きることさえも資本力が求められる社会構造自体にも課題があるだろうし、金があっても子に興味がないような親のもとに生まれれば、それはまた別の意味でガチャだろう。
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けれど、それよりもガチャという概念は、何より僕たち医療業界の方が当てはまっていると思う。
患者は、基本的に担当の医師やセラピスト(理学療法士など)を選べない。
だから、
「あの人が担当だったらもっと良くなっていた」と患者に言っていたり、
もしくは
「僕が担当じゃなければ、この人はもっと良くなっていたんじゃないか」
と、セラピストが思うことが多々ある。
担当なんてのは病院が近かったり、その病院の上司が勝手に振り分けただけなのに、その担当者の技量によって患者の今後の運命を左右されてしまう。そうならば、患者にとっては医師やセラピストもガチャだ。
でも、先程も言ったように僕は「人生はガチャのようなものかもしれない」と思っている。
ガチャの結果にある「程度の格差」の是正は行政も含めて解決が求められる事だが、個人ができることとすれば、自分が他人にとって悪いガチャにならないこと。であると思う。
自分に降りかかる運命は確かにガチャのようかもしれないけれど、これから自分に関わる人たちに、そうは思ってほしくない。
息子から将来、
「あなたの息子でよかったよ。お金はないけどね。」くらいに言われたい。
患者さんから
「あなたが担当でよかった。話がいつも長いんだけどね。」と思ってもらえるようになりたい。
自分に降りかかる運命はもしかしたら変えられないけれど、自分が他人に与える運命はもしかしたら変えられるかもしれない。
そうであるならば、僕は他人にとって良いガチャでありたいな、と思う。
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