海の懐
かつての相馬地方では、海が陸へと踏み込んで入江を形成する、いくつもの潟が存在していた。潮がさせば隠れ、引けば現れる、海と陸との曖昧な境界が、風光明媚な景勝を象っていたのだ。
土地の歴史を紐解きはじめてみると、松川浦、新沼浦、八沢浦、金沢浦、井田川浦といったいくつもの潟があり、そこには海水と淡水が交わり、イサザ、コイ、ウナギ、ウニ・・・といった生き物がすまい、漁や製塩を生業とする人々が暮らしていた。
土用の頃になると、暑さに敵わない井田川浦のウナギたちは、海水と淡水の交わる、涼しげな場所に避難してくる。二つの竹筒を結わえて、海に垂らしておけば、まだ日が昇る前に、ウナギがドレドレと入り込んでくる。漁民たちは繋げていた縄をひょいと引っ張り上げて、竹筒に入り込んだウナギをとっていたのであった。
しかしながら、明治以降の殖産興業、食糧増産といった近代化の波に飲み込まれ、干拓が急激に勧められたのであろう、現在はただ松川浦が残るのみである。儲光羲の詩に「蒼海変じて桑田となる」の一説があるが、現実には桑田が蒼海に変じる、つまりは大津波が一夜にして、近代百年の営為が生み出した田園風景をさらったのだ。
どうも私たちは、海の懐深く入り込みすぎ、海に抱かれた場所で暮らしていたことを、忘れてしまっていたのかもしれない。かつて、潟が存在していた地域は、津波の被害が甚大であった。故郷を、二度、三度と奪われた人もいたことであろう。一度目は干拓で、二度目は戦争で、三度目は津波と原発事故で、といったように。
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