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『蝶々と灰色のやらかい悪魔』 4

 彼と初めて逢ったのは、半年前の冬だった。出勤してすぐの客で、とくに指名ではなく、フリーで入った新規の客だったこともあり、初めての客に緊張しながらホテルのエレベーターを上がったのを、今でも覚えている。指定された部屋の前に立つと、一呼吸置いて、ドアをノックした。しばらくなんの反応もなく、「あれ? もしかして部屋を間違えたのか?」と、何度も部屋番号を確認していると、とつぜん扉が開き、

「あ、ごめん、ごめん! ちょっと電話してて……」と、携帯を片手に持った彼が申し訳なさそうに現れた。扉が開いた反動で、半歩後ろに仰け反った。

「あ、どうも……。な、ななこです」と、ぎこちなく、こちらが挨拶をすると、

「あ、どうも……。ま、マサキです」と、彼も同じように、ぎこちなく挨拶をする。

 お互いの居心地の悪さを隠すように、どちらからともなく、苦笑いとも照れ笑いともとれない、愛想笑いが溢れる。

「あ、じゃあ、どうぞ」

 彼が場の空気を変えようと、わたしを部屋へと招き入れる。

「あ、じゃあ、失礼します……」と、まるで職員室にでも入るかのように、軽い会釈をして部屋へと入ると、こちらがまだなにも言ってないのに、

「なんか、こんなおっさんが相手で、ごめんね……」と、なにを思ったのか、彼が先回りして謝ってくる。

「え? そ、そんなことないですよ!」

 とっさにそう否定すると、「いや……、ほら、こんな若い娘が来るとは思ってなかったから……」と、まるで言い訳でもするように、彼がつけ足す。

 職業柄、ふだんから割と高い年性層の方ばかりを相手にしているせいもあり、男性の年齢というものに、あまり興味がないというか、一般の女性より、寛容に捉えている節がある気がする。それはなにも年齢だけではない。容姿に対してもそうだ。多少太っていようが、髪が薄かろうが、あまり気にならない。どちらかというと、女性に対する気遣いができるかとか、思いやりがある人なのかとか、人柄が誠実かどうかのほうが、ずっと重要だったりする。

「おいくつなんですか?」

 ふとマサキさんの年齢が気になり、初対面の人にいきなり年齢を尋ねるのも失礼かとも思ったのだが、好奇心に任せて訊いてみると、意外にもマサキさんは、「四三だよ」とあっさり教えてくれた。そして、そのごく自然な流れのまま、「君は?」とでも言うように、顎でしゃくって聞き返してくる。

 わたしが遠慮がちに、「二、二二、です……」と小声で答えると、

「やっぱ、若いなぁ〜」と、至極当たり前のことを、マサキさんが本気で感心する。

「いや、マサキさんだって、若いじゃないですか?」

 お世辞ではなく本心からそう思った。さすがに三十代前半というと無理があるが、実年齢より若く見えたのは本当だった。ただ、本人には、そう伝わらなかったようで、社交辞令や営業トークで、わたしが言っていると思われたらしく、

「またまた、どうせみんなに言ってるんでしょ?」と、軽くあしらわれてしまった。

 このやりとりを、この業界に入って、何度してきただろうか?

 相手にしている客層が、だいたい似通っているせいもあるかもしれないが、初めて会うお客さんの大半と、同じやりとりをしている気がする。それはもう耳にタコができるほどに。

 もし、デリヘル嬢あるあるがあるとしたら、きっと上位に食い込むぐらいの鉄板ネタだろう。

 ふだんなら、「そんなことないですよぉ〜!」と、声のトーンを上げて否定するところなのだが、それはせず、

 わたしは、「皆さん、そう仰るんですけどね……」と言葉を濁した。

 マサキさんのなかでは、すでにその話題は終わっていたようで、それに対するマサキさんの返事はなかった。

 ずっと手に持っていた携帯電話が邪魔だったようで、一度はズボンのポケットにしまおうとしたのだが、ちょうど履いていたズボンがポケットのないタイプだったらしく、その置き場に困った携帯電話を、おもむろにマサキさんが放り投げる。ベッドの上に落ちた携帯電話が、その重みでドサッと薄いかけ布団の上に沈み込む。

「さっき、誰かと話されてたんですか?」

 とくに興味もなかったのだが、気まずい雰囲気を変えたくて、場繋ぎのためにそう質問した。

「え? あ〜、さっきの電話?」

 思わぬ問いに、マサキさんが狐に摘まれたような顔をする。

「あ、はい。そのさっきの電話です」

 彼の目を見つめながら、わたしが答える。

「ああ、職場の人だよ。なんでも、明日使う会議の資料に、訂正箇所があるとかで……」

 そこまで言って、マサキさんが言葉を切り、

「それより、君は? 電話しなくていいの?」と、思い出したように、疑問を投げかける。

「へ?」

 一瞬、何を言われているのか分からず、固まっていると、「ほら、店に確認の……」と、彼が電話の耳に当てるジェスチャーをする。

「あ!」

 つい話し込んでしまい、彼から指摘されるまで、店への確認の連絡を忘れてしまっていたことに気がつかなかった。

「ご、ごめんなさい!」

 目の前の彼に、反射的に謝ると、

「いや、別にぼくはいいんだけどね……」

 と、動揺するわたしを見ながら、彼が笑顔をみせる。

「君のほうは大丈夫なの?」

 心配した彼がそう尋ねる。

「あ、はい。大丈夫です。たぶん……」

 あまりに自身無さ気に、わたしが答えるものだから、「ほんとに?」とでも言いたげな顔をマサキさんがする。仕切り直すつもりで、

「で、どうしましょうか?」と、わたしから切り出すと、

「あ、じゃあ……」と、マサキさんは少し考えてから、「とりあえず、一二〇分でいいですか……?」と、なぜか遠慮がちに彼が答える。

「え? あ、でも、大丈夫ですか?」

「え? 大丈夫って、なにが?」

 質問の意味が分からないようで、彼がきょとんとする。

「いや、その……、初めてのお客さんで、そんな長いコースを頼まれるの、初めてなので……、なんていうか、大丈夫かな? って……」

 そこまで説明しても、まだ彼の首が傾いたままだったので、

「いや、別にヘンな意味じゃなくて……。あ、ヘンな意味って、マサキさんが嫌いとか、そういうことじゃなくて、単純に、わたしで大丈夫なのかな? って意味で……。もちろん長いコースを頼んでもらえるのは、わたしもふつうに嬉しいですし、こちらからお願いしたいくらいなんですけど、なんていうか、からだ相性とか色々あるし……、不安というか、わたしで勤まるのかなって? 思って……」と、つけ足すと、マサキさんが吹き出しながら、

「ああ、大丈夫だよ」と、含み笑いをし、すぐに、「あ、ごめん……。君があまりにも緊張してるから、つい……」と、弁解する。

「いや、そんなに心配しなくても、べつに超絶テクニックを求めてるわけじゃないから……。それになんていうか、ななこさんだったら、大丈夫な気がしたというか、一緒に居て居心地が良さそうな気がしたので、まあ、直感ですけどね……。それに、あまりバタバタするの好きじゃないんですよね、ぼく……」

 彼はそこまで言って言葉を切り、少し間をおいて、「ダメですか……?」と、わたしのことを気遣って訊いてくる。お客さんなのだから、もっと堂々としていてもいいはずなのに、彼はそうはせずに、一々とこちらの意思を確認する。

「いや、ダメじゃないです! そのほうが、わたしも落ち着くので……」

 わたしが笑顔を見せると、彼も安心したのか、「よかった……」と、安堵の表情を浮かべると、

「じゃあ、それでお願いします……」と、改めて、わたしにお願いする。

「じゃあ、電話しますね」

 彼にそう告げ、わたしは、店に確認の連絡を入れようと、バッグの底を漁った。携帯がなかなか見つからず、やみくもにバッグの底を掻き回していると、「大丈夫?」とでもいうように、マサキさんが、わたしの手元を覗き込んでくる。

 ひとりでテンパっていると、「ポケットは?」と彼が助言する。

 彼に言われ、おもむろにコートのポケットに手を突っ込むと、硬い感触が手に当たる。

「あ!」と、思わず声を漏らして、マサキさんの顔を見つめると、

「あ、ありましたか?」と、何かを察したマサキさんが訊いてくる。

「あ、はい。ありました!」

 そう言って携帯をポケットからとり出して、「これが目に入らぬか!」と言わんばかりに見せつけると、

「はは〜っ」とは、もちろんならず、

「あ、良かったですね」と、彼が嬉しそうに小さな拍手をする。

 そんな些細な彼の思いやりが嬉しくて、いつもより二割増しの笑顔で、「じゃあ、今度こそ電話しますね」と、彼に伝えた。

「はい。お願いします」と、彼が律儀にお辞儀をするので、わたしも釣られて、

「かしこまりました」と、頭を下げた。

 たぶん、からだの相性以前に、心の相性みたいなものがあって、それは目を合わせた瞬間や言葉を交わした感触で、なんとなく相手に伝わって、その場の空気を一瞬で、変えてしまうんだと思う。もちろんイイ意味でも、悪い意味でも。

 だから、「あ、ありましたか?」というたった一言かもしれないけれど、その一言が嬉しくなる相手もいれば、ただの確認で終わる相手もいる。その確率はすごく少なくいんだろうけど、マサキさんの場合は、嬉しくなるほうの確認だった。

 通話口から漏れる呼び出し音が、やけに長く感じて、携帯を耳に当てながら待っていると、

「あ、ななこちゃん?」と、店長の甲高い声が響いた。

「あ、ななこです。一二〇分いただきましたぁ〜」

 嬉しそうに、わたしが言うと、

「え? なに? ど、どうしたのぉ?」と、異変に気づいた店長が、オネエ口調で尋ねてくる。

「え? なにって、なにがですか?」

 ぎこちなくわたしが逸らかすと、

「ま、まあいいわぁ……。一二〇分ね。楽しんできてぇ〜!」と、変に気を遣って声をかけてくる。

 わたしが、「え?」と聞き返したときには、すでに電話は切れており、「ツー、ツー、ツー」という不通音が、耳元で流れていた。

「どうしたの?」

 心配したマサキさんが、わたしの顔を覗き込み、

「ううん」と、わたしが首をふる。

「そぉ?」と、マサキさんが心配そうに首を傾げ、

「うん……」と、わたしが返事をする。

「そっか……」

 そう言ってマサキさんが、わたしの身長に合わせて腰を屈め、

 それに応えるように、わたしが背伸びをする。

 つま先を痙攣させながらしたキスは、ほんのりフリスクの味がした。

 左手で握り締めた手のなかで、まだ切られていない携帯電話の通話口からは、耳障りな不通音が漏れていた。

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