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『翠』 7
さっきから東京湾沿岸の上空を、何機もの航空機が、低い音を立てながら、ゆっくりと飛び去っていく。たった今、羽田から離陸してきたばかりなのか、それとも今まさに着陸しようとしているのか、このカーテンを閉ざしたまま密室の空間からでは、音だけで判断することは難しい。ただ、まったく言っていいほど防音の効いていないホテルの構造上の問題もあるが、飛行機の飛び去っていくエンジン音や、近くを通る救急車のサイレンの音が、はっきりと判りすぎるせいで、薄い壁を通して伝わってくる大体の外の状況は、なんとなく読みとることができた。
透明のトタン屋根のように波打っているカーテンの裾から溢れ落ちた陽射しが、昼白色からオレンジ色に変わる。ホテルの入ったのが、午前の一〇時だったと考えると、かれこれ六時間近く、このホテルで過ごしていることになる。ホテルのサービスタイムを利用して入ったので、延長料などは気にする必要はないが、翠を家まで送り届けることを考えると、あと何時間も一緒に過ごしていられない。
「そろそろ、帰ったほうがいいですよね?」
隣で眠る翠に対し、健流が枕元の時計に視線をやり、それとなく問う。
「……」
が、彼女は黙ったままの何も答えようとはせず、シーツのなかに顔を埋めていた。
「寝てるの?」
ほんとに眠ってしまったのではないかと、健流が彼女のからだに触れようとした瞬間、とつぜん寝返りを打った彼女が健流のほうへと向き直る。
「ううん。寝てないよ……」
擦れた声で、そう返事をする。
「そろそろ、帰ったほうがいいですよね?」
健流がもう一度、そう尋ねると、
「もう少し、このままで居たいかも……」
と、素直な気持ちを伝えてくる。
「でも、もうすぐ旦那さん、帰ってくるんじゃないですか?」
「ん〜……、たぶん、大丈夫だと思う……」
少し迷ってから翠が、そう答えたあとで、「うちの主人、いつも帰りが遅いから……。たぶん、今日も残業してくるんじゃないかな?」と自信なさげにつけ加えてくる。
「でも、夕飯の用意とかあるんじゃないですか?」
健流が彼女のことを気遣って、そうすかさず切り返す。
「健流くんってやさしいんだね……」
「え? 何がですか?」
「いや、だって……、うちの主人なんて付き合ってたころもそうだけど、結婚してからもそんなこと言ってくれたことなかったんじゃないかな? 基本、うちの主人って仕事のことしか頭にないみたいなのよね……。わたしのことなんて二の次三の次っていうか、わたしのことは家政婦か何かくらいにしか考えてないんじゃないかなって……。もちろんそのことについて、ちゃんと話したわけじゃないから、実際に主人がどう考えてるかは判んないけど……、なんとなく、そんな気がするっていうか、ふだんの行動を見てれば、なんとなく判るっていうか……」
そう彼女が言葉を切り、悲しい目をする。
なんと答えていいのか判らず、彼女の話にただ耳を傾けていた。
酷い旦那ですね……。
自分なら翠さんに、そんな寂しい思いはさせないです!
ぼくだったら、翠さんの話を、ちゃんと訊いてあげられるのに……。
頭に浮かんでくる言葉は、どれも無責任な言葉だった。
シーツから顔を出し、翠がこちらを見つめてくる。すぐそこに居るはずなのに、なぜか翠のことが、とても遠い存在のように思えて仕方なかった。手を伸ばせば届く距離なのに、自分のモノにはならないのだと思うと、頭では分かっているつもりでも、自分の意に反して、強烈な寂しさがみ上げてくる。
自分のモノにしたい。そう思った瞬間、
「もっと抱きしめたいです。翠さんのこと……」
気がつくと、そう口にしながら、翠のからだを強く抱きしめていた。
抱き寄せた腕のなかで、翠が泣いているようにも思えた。
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