『蝶々と灰色のやらかい悪魔』 6
その日の夕方、予報通り雨になり、ゲリラ豪雨のような夕立に打たれた。カッパなど最早役には立たず、ずぶ濡れになりながら出勤すると、店長がわたしの顔を見るなり、
「ちょ、ちょっとぉ〜、ななこちゃん!」と、とつぜん呼び止めてきた。
とつぜん呼び止められ、「へ?」と、玄関先にあるタイムカードを押しながら、気の抜けた返事をすると、ずぶ濡れのまま突っ立っているわたしを見て、「って……、あんた、ず、ずぶ濡れじゃない!」と、店長が絵に描いたような、ドン引きの仕方をする。
「あぁ、まあ色々ありまして……」
とくに深く明言はせず、曖昧に答えると、
「ま、まあいいわ……。からだ拭くんだったら、これ使って……」と、店長も深い追求はせずに、粗品でもらった新品のタオルを渡してくる。
「あ、ありがとうございます」
手渡されたタオルのビニール袋を破りながら、ひとまずお礼を言っておくことにした。
ビニールからとり出したタオルで、からだや顔を拭ったが、新品のタオルは糊が落ちておらず、まったく吸収力がなかった。まるでビニールで肌を撫でているようで、余計に気持ち悪かったが、それでも顔や腕についた水滴を拭い、
「で、なんですか……?」と、改めて聞き直した。
「そうよ! ちょっと聞いてよ!」
ただでさえ顔のでかい店長の顔が、目の前に迫ってきて、思わず身構えると、
「いやね。聞いたわよ……」と、さらに詰め寄ってくる。
「な、なにをですか?」
意味が分からず訊き返すと、
「もう、焦れったいわね!」
と言いながら、店長がもどかしそうに、事務所の応接間に、わたしを引っ張り込もうとする。
「ちょ、ちょっと……。店長!」
とっさに抵抗して大声を上げると、事務所の奥ある個室から、その声に驚いた女の子たちが、カーテン越しに、こちらを覗き込んでくる。
小声で、「分かりましたから……」と、トミーズ雅みたいな顔をした、店長の耳元に耳打ちすると、
「こっち! こっち!」
と、店長が声を殺して、わたしの腕を引っ張る。
応接間の扉を閉めた店長が、落ち着きなく辺りを見渡し、誰も居ないことを確認するなり、
「ほら! ななこちゃんをよく指名してくれてた、あの、大河内っていう太客(太っ腹な客)よ!」と一気に捲し立ててくる。
「え? それが、どうかしましたか?」
なにを言われているのか分からず、本気で尋ね返すと、
「だから……!」と、呆れたようにため息をつき、「ニュース見てないわけ?」と、矢継ぎ早に質問をしてくる。
「だって、わたしの家、テレビないですもん!」
口を尖らせながら、反論するわたしに、
「な、なに? あんたの家、テレビもないわけ?」と、驚いたように揶揄してくる。
ふだん携帯で、ヤフーニュースくらいしかチェックしないわたしには、芸能ニュースくらいなら、目を通さないでもないが、時事ネタなど、まず触れる機会がない。
「その大河内さんが、どうかしたんですか?」
改めて、目の前で硬直している店長に尋ねると、「ま、まあいいわ……」と、我が家のテレビの件は横に置きつつ、
「ほら、大河内さんよ! 最近、ご無沙汰してたでしょ?」と、やっと本題に入る。
「え? あ、はい……」
「その大河内さんがね……」
勿体振るように話す店長に、若干イライラしながら、その話に耳を傾ける。そして、「ど、どうやらね……」たっぷりとタメを作ってから、
「じ、実は、自殺したらしいのよ……」と、結論を口にした。
「じ、自殺ぅ〜!」
思わず声が大きくなり、慌てて店長がわたしの口を押さえる。
「バ、バカ! 声がでかいわよ! 女の子が聞いたら、みんな恐がっちゃうでしょ……」
声を押し殺しつつ、それでいて、はっきりとした口調で、わたしを注意する。
「じ、自殺って、ど、どうしてですか……?」
いくら金銭を交えた肉体関係(本番ではない)だったとはいえ、一度でもからだを交えたことのある相手が、実際に自殺しているという事実に、気持ち悪さを覚えて、そう質問した。
「そんなのあたしが知るわけないでしょ!」
オネエ口調で店長が突っぱねる。
「てか、あんた本気で知らないのね……」呆れたように店長が、またため息をつく。
「はい。テレビ見てませんから(笑)」と、わたしが開き直る。
「あなたね……。デリヘル嬢だからって、可愛ければイイって時代も、そのうち終わるんだから。他の娘なんか、お客さんとの話題づくりのために、わざわざ日経新聞をとってる娘もいくらいなのよ。あなたもね。うかうかしてると、あとからどんどん若い娘なんて、すぐに入って来るんだから、若さや可愛さだけを、いつまでも武器にしてたら、そのうち常連のお客さんも、他の娘に持ってかれちゃうわよ。風俗業界はね。競争が激しいんだから、あなたもね……」
あまりに話が長くなりそうだったので、少し食い気味に、「て、てか、なんで自殺したって分かったんですか?」と、一息で尋ねると、
「あ、あら、嫌だ! あたしったら、つい……」と、我に返った店長が、「いや、それがね……」と事のあらましを話し始めた。
「ほら、ななこちゃんが遠くのお客さんのところに、お呼ばれされた日あったでしょ?」
「え? あ〜、マサキさんのことですか?」
女の子の出勤時間を短めに設定されているうちの店では、移動時間を短縮するために、基本的に、長時間利用のお客さん以外は、遠方への派遣をお断りするようにしている。そのせいもあり、客層のほとんどが都心部のホテルを利用しているのだが、時折、マサキさんのように、地方への派遣を希望するお客さんもおり、そういうお客さんは、嫌でも印象に残るのだ。だからというわけではないが、すぐに誰のことを言っているのかは判った。
「そう、そのマサキさんにお呼ばれした日よ。とつぜん夜中に警察から店に電話がかかってきて、ほら、警察からかかってくることなんて、そう滅多にあることじゃないじゃない? で、よくよく話を聞いてみると、どうやら、大河内さんの携帯の発信履歴に、うちの店の番号が残ってたらしくて、それで警察から連絡があったのよ、なにか事件の手がかりになることがあるかもしれないからって……」
「じ、事件って? 自殺じゃないんですか?」
「いや、まだ分かんないわよ。まだ分かんないけど……」
心配するわたしと安心させるように、店長が気遣う。
「ただ、警察の人が言うには、事件性があるって可能性も、完全に無視はできないらしいから、念のために、捜査してるだけらしいんだけど、だからって、あたしたちが疑われてるとか、そういう理由で、聞きとりをしてるわけじゃないらしく、そういう決まりらしいのよ……。まあ、あたしには、よく分かんないだけど、自殺の線が濃いんじゃないかって、警察の人は言ってたわよ。ただ、報道させるまで、誰にも話さないでくれって、口止めされてて、あ〜、もう、やっと人に話せて、スッキリよ!」
なぜか事件の話題から、自分がスッキリしたという内容に、話がすり替えられており、
「あ……、それは良かったですね……。じゃあ、わたしはこれで……」
と、わたしなりの嫌味を込めた捨て科白を残して、部屋を出ようとすると、
「あ、そういえば、新人の娘、入ったわよ!」と、店長に呼び止められた。
「え? 誰ですか?」と、聞き返すと、
「一九歳の娘で、『キララちゃん』って娘。なんでも前に働いてた店で、キャストの娘と揉めたことがあったらしく、自宅待機希望なんだけど、あまり顔を合わせることはないだろいうけど、送迎車で一緒にあることはあるだろうから、そのときはよろしくね」
なにを『よろしく』されたのかは、よく分からなかったが、
「あ、はい……」と返事をして部屋を出た。
ふと心配になり、事務所に併設されている個室の待機所のほうに目をやると、さっきの騒ぎなど、すでに興味は失われているようで、どのブースもカーテンがされたままだった。まさか、本当に誰も居ないのではないかと思い近づいてみると、とつぜん一番手前の個室のカーテンが開いた。
慌てて踵を返し、用もないのに事務所の前に貼ってある掲示板に目を向ける。
どうやら女の子は、トイレに立っただけらしく、掲示板を見るわたしをチラ見しただけで、事務所の脇にあるトイレに入っていった。なぜか自分が後ろめたいことをしているような気になり、個室の覗くのは止めて、そのまま部屋を出ることにした。同じマンションの他の階にある待機所(大部屋のほう)に移ろうと、玄関を出ると、さっきまで降っていた雨が止み、薄曇りの空の隙間から、夕暮れの晴れ間が覗いていた。
その晴れ間を目の当たりにした瞬間、事務所の玄関先にかけていた、自分のずぶ濡れのカッパを、マンションの廊下に叩き付けた。
「止むなら、あと三〇分早く止まんかい!」
もう敢えて説明はしません。分かってくれる人だけが、分かってくれれば。
いや、でもね。キレてないですよ。
うん、キレてない。
わたしをキレさせたら、大したもんですよ……。
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