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『蝶々と灰色のやらかい悪魔』 2

 一人暮らしをしているマンションに着くのは、いつも午前の三時を回る。時間帯が時間帯だけに、電車やバスなどは疾うに動いておらず、だからと言って、毎回タクシーを使っていたのでは、何のために働いているのか分からなくなるので、利便性を考えて、通勤には自転車を使っている。

 夜中の繁華街を自転車に跨った二十代の女子が、ワンピース姿で疾走している姿は、傍から見ると、異様な光景に映るに違いない。

 キャバクラ帰りの客でごった返した中州の歩道を避けて、わたしは客待ちのタクシーの脇をすり抜けて走る。そのほうが走りやすいので、そうしているだけなのだが、そのせいで何度も危険な目に遭っている。とつぜん開かれるタクシーの後部座席のドアに、何度も追突しかけている。

 タクシーの運転手は基本的に、客の姿しか見えていない。正確には、乗車してくれそうな客を常に探しているので、自転車で脇をすり抜けようとしている、わたしの姿など見えていない。

 歩道から客が手を挙げれば、後方確認などせずに、後部座席のドアが開かれるし、同じように、客が料金を払い終えれば、自動的に後部座席のドアが開く。

 だからわたしは、タクシーの動きというよりは、歩道の人混みやタクシーから降りようとする客の動きに目を配らなければならない。からだが資本のデリヘル嬢にとって、怪我や病気をすることは死活問題なのだ。

 もしかすると、この二年間の夜の生活で培った最大のスキルは、デリヘルで客を持てなす技というよりも、タクシーの運転手と客のあいだで交わされるアイコンタクトを見抜ける洞察力のほうなのかもしれない。

 事務所から家までは、片道十五分ほどだ。祇園にある自宅には、一人暮らしの寂しさに負けて、一年ほど前から飼いはじめた猫が居るのだが、寂しさを癒すために飼っているはずなのに、寂しさを癒すどころか、まったく懐かないため、家庭内別居状態である。名前はわたしの好きな漫画の主人公に因んで『サワコ』と命名したのだが、人間関係に臆病な主人公同様、人に寄りつきやしない。

 日課となっているサワコの食事をプレートに移すと、ベランダに干しっぱなしになっていた洗濯物をとり込んだ。夜風に曝され、少し湿った洗濯物は、ほのかに夏の臭いが染み込んでおり、どことなく雨の気配がした。そういえば明日の天気は、夕方から雨だと、さっき待機所のテレビで見た気がする。

 熱気に満ちた外気から逃れるように、冷房の効いた室内に避難する。大きな洗濯籠を抱えて部屋に入ると、珍しくサワコが足元にまとわりついてきた。ようやく懐いてきてくれたのかと嬉しくなり、思わずサワコの頭に手を伸ばそうとすると、サワコはその手をはらりとかわし、台所のほうへと去って行ってしまった。

「そんなんじゃ、彼氏もできんよぉ〜」

 思わせぶりな彼女の行動に、皮肉を込めて、そう捨て台詞を吐いてみたが、よく考えると自分に対して言っているようだった。もしかすると、サワコとわたしは、とても似ているのかもしれない。

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