『蝶々と灰色のやらかい悪魔』 36
自販機と公衆トイレのある、海辺の小さな駐車場の脇に、マサキさんが車を停める。すでに数台の車が停まっており、柄の悪いヤン車の前に屯した数名のチンピラが、何やら大声で話し込んでいるのが見える。
「あ〜! なんで出来ひんのや! あんましょーんないことばっかゆーとったら、ほんまいてこますぞ! おのれわぁー!」
そのうちのリーダー格であろう、五十代ぐらいの男性が、ジャージのポケットに手を突っ込んだまま、携帯片手に、電話の相手を威嚇するように叫び声を上げている。
「ちょっ……、マサキさん。なんかあの人たち、怖いんですけど……」
車の窓を閉め切っているというのに、そのあまりの声量の大きさに、ガラス窓を隔てたこちらまで、威圧感が伝わってくるようだった。隣にいるマサキさんに、助けを乞うように話しかけると、
「え? 大丈夫だよ。関わらないようにしてれば、問題ないでしょ?」
顔色一つ変えず、平然と答える。
「降りよっか?」
そうマサキさんに促され、思わず、「え? ココで、ですか……?」と、わたしが訊き返した。ただ、わたしが声を発すると同時に、マサキさんが車のドアを開けたせいで、その声がチンピラの罵声と重なり、マサキさんの元に届く前に掻き消されてしまう。
「え? 降りないの?」
改めて彼に訊かれ、「いや、降りますけど……」と、渋々答えながら、マサキさんのあとに続いて車を降りる。
すでに浜辺のほうに歩き出していたマサキは、チンピラたちには目もくれず、スタスタと浜辺へと続く石段を降りて行っており、モタモタしているわたしに見兼ね、「ほら、ななこちゃん! こっちだよ! 早くぅ〜!」とでも言うように、石垣の陰に立ち止まり手招きをする。
チンピラたちから早く逃れたくて、急いでマサキさんの元へと駆け寄ると、石段の中腹辺りで立ち止まっていたマサキさんが、
「ねぇ、あれ見てよ。ななこちゃん……」
と、わたしのほうを振り返らずに話しかけてくる。
その言葉に、転ばないようにと落としていた目線を上げると、緩やかに波打つ海面の奥で、水平線に沈みかけた夕陽が、薄曇りの空を赤く染めていた。青と赤のコントラストが、とても美しかった。
「付き合って欲しかった場所って、ここだったんですか?」
マサキさんの真横に立ち、目の前の美しい夕景に見惚れている彼に尋ねる。
「ん〜、どうなんだろう……。正直、行きたい場所なんて、どこでも良かったんですよ。信号待ちしてたら、横断歩道を渡ってるななこちゃんの姿が見えて、条件反射的にクラクション鳴らしちゃってて……、どうにか引き止められないかなって考えてたら、つい口から出まかせを……」
恥ずかしそうに口をつぐみ、彼が、「ハハっ……。迷惑だった?」とつけ足す。
「いや、迷惑なんて、そんな……。さっきもちょっと話題に出しましたけど、わたしもマサキさんと早く会えないかなって、ずっと思ってたので、嘘でも嬉しかったです。誘ってもらえて……」
わたしの言葉に、彼が、「いやぁ〜……」と、照れ臭さを隠すように、ポリポリと頭を掻く。その姿が妙に愛おしく思え、ズボンのポケットに手を突っ込んだ彼の腕に、無断で腕組みをすると、驚いたように彼がわたしの顔を見下ろす。
側から見ると、二〇近く歳の離れた男女が、腕組みをしている姿は、どう映るだろうか?
片やスーツ姿の中年の男性に、片やフリフリのワンピを着た二十歳そこそこの見た目だけで言うならJDに見えなくもないが、恋人オーラを発しながら腕組みをしている姿は、どう見ても夫婦や恋人同士には見えないだろうし、かと言って親子というには無理がある。
お互いにフリーなわけだから、決して不純な恋愛関係にあるわけではないが、世間の目からすれば、わたしたちは不倫や援助交際をしているようにしか見えないだろう。
それを分かっていながら、わたしはマサキさんのからだに、寄り添うように身を寄せた。
グッと腕を引き寄せると、抵抗なくマサキさんのからだが、わたしの腕に吸い寄せられる。
九月に差し掛かり始めた、まだ微かに残暑の残る海辺の潮風は、日が暮れるにつれて冷たさを増し、薄手のワンピースの袖からはみ出した腕には、少し肌寒かった。
思ったより波は高く、遠くの海でサーフボードに跨った数名のサーファーが、いつ訪れるとも知れない絶好の波を待ち、夕陽を背に波待ちをしているのが見える。
「ちょっと、肌寒くなって来ましたね……」
ワンピの袖からはみ出した腕を摩りながら、上目遣いでマサキさんを見上げると、
「あ、ごめん。気づかなくて……」
と、徐ろに自分の着ていた背広を脱ぎ始めたマサキさんが、寒がるわたしの肩に、そっと上着をかけてくれた。大きすぎる彼の背広の丈が、わたしの膝まで覆い隠し、
「ハハッ……。やっぱり、少し大きいですね……」と、お礼の代わりに微笑んだ。
その瞬間、波打ち際ではしゃいでいる数人の若者のうちの一人が、「獲ったどぉ〜!」と、『よゐこの濱口』の真似をしながら、流木の先に串刺しにしたクラゲを、夕焼けに染まった薄曇りの空に、ふざけながら掲げていた。
愉しげに笑う男女の声が、潮風に靡く波音に混じって、ここまで聞こえてきた。その光景に、ふたりで思わず顔を見合わせる。どちらからともなく笑いがこみ上げてきて、気がつくと、彼らの笑い声に釣られるように、ゲラゲラとふたりで笑い合っていた。
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