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『翠』 3

 結局、不毛なやりとりの末に、翠を家まで送ることになり、土砂降りの雨の中を彼女の家があるという、千葉方面へと車を走らせることになった。最初は遠慮していた翠だったのだが、この雨の中に彼女を独り残して、一人だけ帰るわけにもいかず、「いいですから、送りますって! いや、ほんとに何もしたりしませんから!」と、ヤリ目で近寄ってくる合コン帰りのチャラ男のような口説き文句で、しつこく自分のほうから送迎役を買って出ているうちに、向こうも段々と断るのが面倒臭くなってきたのか、「じゃあ、うちの主人にも悪いんで、今回だけということで……」と〝逆お持ち帰り〟と言っていいのか、彼女のほうが根負けする形で、彼女を家まで送ることになった。

 フロントガラスに打ちつける雨が、さらに強さを増し、バチンッバチンッとガラスの表面を鈍器で叩きつけるような音を立てる。視界を遮るほど激しく打ちつける雨粒のカーテンのせいで、車道の白線は愚か前方の状況も、ほとんど確認できなくなっており、どうかすると、自分の運転する車がいつの間にか、反対車線を走っているのではないかとも思えてくる。左右に動くワイパーの隙間を縫うように、健流はフロントガラスに鼻がくっつくほど身を乗り出し運転していた。見えない白線に目を凝らしてみるが、雨が強すぎるのと対向車のヘッドライトの明かりで、車高の高い対向車とすれ違う度に、頻繁に前方の視界が真っ白になることがある。どこの路面が水溜まりになっていて、どこの路面が濡れているだけなのか、その前方の路面状況が確認できないままハンドルを握っているせいで、時折、出没する深い水たまりに、不意にハンドルを取られそうになる。ふだんであれば気にもしない路面の微妙な凹凸なのだろうが、こんな豪雨の日ともなれば、一瞬で命を奪う凶器にもなり得るのだ。そう思うだけで、自然とハンドルを握る手に力が入り、手のひらまで汗ばんでくる。

「なんか、ごめんなさいね……。わたしなんかのせいで、こんな形でご迷惑をかけることになってしまって……。志田さんもお仕事で疲れてらっしゃるだろうに……」

「あ、いや、べつにいいんですよ……。どうせ帰る方向も一緒ですし、ついでみたいなものなんで……。それより旦那さんには、連絡したんですか?」

「あ~、それがまだで、というか、さっきから連絡が繋がらないんですよねぇ……」

「え? 電話自体が繋がらないってことですか?」

「あ、いや、そういうことじゃなくて、電話は繋がるんですけど相手が電話に出なくて……、仕事が忙しいとかですかね?」

「メールとか、LINEは? したんですか?」

「あ~、それも送ってみたんですけど、返事が無くて……」

「先に家に帰ってるとかは?」

「それはないと思います……。わたしが動けないのも判ってますし、残業が終わったら連絡するって、さっき電話したときに主人も言っていたので……」

 車での移動であれば大した距離ではなかったが、時間帯が時間帯だっただけに、あまり帰りが遅くなるのもどうかと思い、ひとまず環七を葛西臨海公園方面に車を走らせ、そこで首都高湾岸線に乗ることにした。ふだんの平日のこの時間であれば、ほとんど長距離トラックぐらいしか走っておらず、走り屋が走っていそうなほど、ガラガラに道が空いているくらいなのだが、この豪雨の影響もあるのかもしれない。渋滞しているというほどではないにしても、心なしか車通りもいつもより多く感じられ、実際に車を走らせていても、それとなく窮屈な印象があった。

「なんか、すみません……。高速まで使わせてしまったみたいで……。この料金は、後日、必ずお支払いさせて頂きますので……」

 ラジオも点けていない無言の空間に堪えきれなくなったのか、不意に助手席に座っていた翠が口を開き、運転席の健流に頭を下げる。半分は自分のエゴで送っているのもあり、その気遣いが逆に居心地の悪さを際立たせる。

「あ、いや、べつにいいんですよ。どうせ月末業務で遅くなってたので、もとからそのつもりでしたから……」

「あ、いえ、そういうわけにはいかないので……」

 フロントガラスの一点を見つめたまま、彼女がそう呟き、そのまま黙り込んでしまう。これといって話す内容も無かったので、こちらもとくに返事をせずにいると、そのまま自然と会話が途切れ、長い沈黙が生まれる。その沈黙を察したかのように、とつぜん強くなった雨足が、車の天井を激しく打ちつけ、地鳴りのような轟音を車内に轟かせる。

「それにしても、すごい雨ですね……」

 そう発した彼女の声が小さすぎたのか、外の雨音のほうが大きすぎるのか、乱暴に叩きつける豪雨のせいで、ほとんど彼女の声が聞きとれなかった。

「え?」

 こちらが反射的に訊き返すと、その声もあまり聞きとれなかったようで、まるで、「へ?」という文字が顔に書いかれてありそうな、間の抜けた顔をこちらに向けていた。キョトンとする彼女に、

「いや、だから、なんて言ったんですか?」

 今度はそう声を張り上げてハッキリと伝えた。

「あ~! いや、だから! すごい雨ですね! って、言ったんです!」

 やっと意味を理解ようで、彼女の顔から、「へ?」と言う文字が消え、数秒遅れで反応が返ってくる。

「あー、たしかにすごい雨ですね!」

 まさに〝バケツをひっくり返した〟という表現がしっくりくるほどの豪雨だった。熱帯のスコールのような激しさで、窓ガラスや天井を容赦なく打ちつける雨粒のせいで、話などまともにできるはずもなかった。自然と二人の距離も近くなり、途端に会話が途切れる。

 そこに差し込まれる高速道路の照明灯の灯が、暗かった車内を等間隔に照らし出し、翠の横顔をオレンジ色に染める。ふだん彼女を目にするのが職場ということもあり、化粧気のない姿ばかり見ているせいもあるかもしれないが、こうして改めて彼女のことを間近で見ていると、思っていた以上にキレイな顔つきをしており、決してストライクゾーンではないにしても、年齢のわりに若く見える見た目や、彼女の元々のスタイルの良さを考えると、女として見れないわけではなかった。

「え? なんですか?」

 あまりマジマジと見つめていたのだろう、翠が不審な顔をする。

「あ、いや、なんでもないです……」

 さっきまで暗くてまったく気がつかなかったが、この雨のせいで濡れたブラウスの下に、黒いブラジャーが透けていた。見た目によらず大担な色の下着を身につけていることに、健流は人妻と判っていながらも、心のどこかで欲情している自分がいた。そう思うと途端に、翠のからだが淫美なものに思えてきて、さっきまで気にならなかったはずのタイトなスカートから剥き出しになった脚や、濡れたブラウスから透けて見える胸元に、どうしても目がいってしまい、自然とからだが反応してしまう。

 健流は慌てて股間の膨らみを隠し、ダッシュボードに積んだままにしてあった、粗品のタオルをとり出すふりをしながら、

「あ! そうだ! これで、からだ拭いてください!」

 と、何食わぬ顔で彼女に差し出した。

「あ、なんか、すみません……。気を遣わせたみたいで……」

 健流からタオルを受けとり、彼女も何も気づいてない様子で、熨斗のついたままになっていたビニールを剥がす。

 ビニールから取り出されたばかりのタオルは、大した吸収力もないせいか、濡れたからだを拭ったところで、これといって水分を吸収するわけでもなく、まるでビニールでからだを拭ったかのように、衣類や肌についた水を伸ばすだけだった。

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