『蝶々と灰色のやらかい悪魔』 8
他の女の子と仲が悪いわけではないが、待機所でのわたしは人見知りを決め込んでいる。なるだけ携帯の画面と睨めっこしながら、携帯の無料ゲームに勤しんでいる。なかでもお気に入りなのが『おしり前マン』というシューティングゲームで、登場するキャラクターが、すべておしりが前にあるという、一風変わった世界観(わたしにとっては中毒性のある)をしており、最初はまったくくだらないゲームだと、バカにしていたのだが、そのバカにしていた当の本人が、そのキャラクターにドハマりし、今ではLINEのスタンプまで購入しているのだから始末が悪い。ただ、そのあまりに万人受けしない風貌のため、こっそり、ひっそりと遊ばせてもらっている。
一度だけ、待機所のソファーで客待ちをしているときに、あまりに暇すぎて、例のごとく『おしり前マン』に没頭している最中に、同じデリ嬢をしているねねちゃんに、不意に後ろから話しかけられたことがあり、そのときに不注意にも、そのマニアックなゲームをしているところを、他人に見られたことがある。
あまりに没頭していたのだろう、ねねちゃんから声をかけられるまで、後ろに人が立っていることさえ、まったく気がつかなかった。
「なにやってるんですか?」
可愛らしい顔をした小顔が、真横にあり、「ヒャッ!」と声を裏返しながら短い悲鳴をあげる。
「わっ! こっちがビックリだ!」
その驚いたわたしに驚いて、ねねちゃんが目を丸くする。
「な、なにやってるんですか?」
「お、『おしり前マン』ですけど……」
恐るおそるそう白状し、携帯の画面が見えないように胸で隠す。
「へ〜、なんか、カワイイですね」
と、彼女が耳を疑うようなコメントをする。
え? カワイイ? この我々人類が古代から築き上げてきた固定概念を、見事に全否定するような、奇抜なというよりは、もはやグロテスクな風貌が、カワイイと? いや、もちろん自分の肯定派なのだから、自分が好きなモノを褒められることに、悪い気はしない。ただ、もともと否定されるものと思って、自分だけがその良さを分かっていればいいというような、ある種、売れる前のバンドを応援しているときのような、あまのじゃく精神で肯定していたものを、他人から肯定されると、調子が狂うというか、逆に否定したくなってくるから不思議だ。
「え? カワイイ? これが?」
思わずねねちゃんの目を見つめるが、その一点の曇りもない、純粋な瞳を見つめ返すと、「何か、ヘンなことでも言ってます?」と言わんばかりのねねちゃんの無言の圧力が返ってくる。
自分の胸で隠していた画面を何度もチラ見しながら、その風貌を確認するが、何度見てもカワイイという感情は湧いてこなかった。ただまあ何とも言えない味のある風貌が、どこか人の心に刺さるというか、分かる人には分かるというか、なんとも言えない魅力があるのは、確かではある。せっかく同士ができたので、無碍にもできず、
「か、可愛いかどうかはさておき……、最近ハマってるんですよ」と、言葉も態度も濁して、ねねちゃんに伝えた。
「え? わたしも欲しいんですけど、『おしり……』何でしたっけ?」
食い気味に尋ねてくるねねちゃんが、自分のスマホをかざして詰問する。
「いやいや、ちょっと待って……」
背後からの強引な詰問に、わたしは身構えながら答えると、
「いいじゃないですか。先輩! 減るもんじゃなし……」
と、後輩のくせに遠慮がない。
あまりにソファーの背もたれ側から、グイグイ来られるものだから、背もたれのない無防備な前方に倒れざるをえず、覆い被さってくるねねちゃんから逃れるようと、背中を前方に向けたまま仰け反っていると、バランスを崩してソファーから転げ落ちそうになった。
「うわぁ〜!」
というか、落ちた……。リビングの床に尻餅を突き、打った部分をさすりながら、体勢を立て直して、からだを起こすと、バツが悪そうに、「あ、ごめんなさい! 先輩! つい……」と、何が、「つい……」なのかは不明だが、反省した様子で、手に持っていた携帯を差し伸べてくる。
いったい、この差し出されている携帯をわたしにどうしろと?
これに捕まれとでも言うのだろうか?
「あ、ありがとう……」
たぶん、この場合は、怒ってもいい場面なのだろうが、そこは『仏のななこさん』という異名を持つわたしである。せっかく差し伸べてくれているねねちゃんの手を(携帯を)払い除けるわけにもいかず、そう愛想笑いを向けると、
「どちらかと言えば、携帯を持ってないほうの手を差し伸べてくれると、ありがたいんだけど……」と、精一杯の親切心を込めて、言い直した。
「あ、これは失礼……」
どうやら手のひらが汗ばんでいたようで、ねねちゃんは一度、スカートの裾で手を拭ってから、「あ、じゃあ、どうぞ!」と、改めて、何も持っていないほうの手を差し伸べてくる。携帯電話を引っ込める代わりに、出てきたねねちゃんの手を掴みながら、太さの割に力のない腕(極度の運動不足と不摂生な食生活のせいで無駄な肉がついている)に、渾身の力を込めて、からだを引き起こした。
「大丈夫ですか?」
「あ、大丈夫ですよ……」
苦笑いとも営業スマイルともとれる、微妙な笑みで、そう返事をした。
「あ、えっと……、『おしり前マン』ですよ」
自分から聞いておいて、すでに興味を失っていたらしく、ねねちゃんはきょとんとしたまま、クエスチョンマークの書いた顔を、こちらに向けていた。
「あ、さっきの話です……。わたしのやってるゲーム、『おしり前マン』っていうゲームですよ」
もう一度、はっきりとした口調で伝えると、「あーー!」と、ねねちゃんは大袈裟に手を叩き、
「『おしり前マン』ですね!」と、わたしの言ったことを復唱する。
よく読めない娘である。この業界には不思議ちゃんが多いようだ。というか、世の男性が不思議ちゃんを欲しているだけなのか? ふだんストレス社会(家庭でも)で揉まれていれば、こんな塩対応のわたしより、ねねちゃんみたいな不思議ちゃんに、癒しを求めたくもなるか。
さっそく携帯で検索しているらしいねねちゃんが、なにやら携帯の画面に打ち込み始める。
すぐにアプリは見つかったようで、ねねちゃんがわたしの顔を見ずに、
「あ、ありましたよ!」
と言った瞬間。とつぜんねねちゃんの携帯が鳴った。
「わぁ!」
びっくりしたねねちゃんが、携帯を落としそうになりながら、電話に出ると、どうやら相手は店長らしく、オネエ口調の店長の声が、ここまで漏れ聞こえてくる。
「あ、これからですか? あ、はい。分かりました。一階ですね……。はい。待ってたらいいんですね? あ、はい……」
そう言って電話を切ったねねちゃんが、「なんか。指名が入ったみたいです」と、なぜか、わたしに報告する。
「あ、そうなの?」
すぐに送迎車が迎えに来るらしく、「じゃあ、わたし、行きますね」と、ねねちゃんが自分のバッグを持って、いそいそと玄関に向かう。
「行ってらっしゃい」という代わりに、わたしは、「頑張ってね」と、彼女の背中に言葉をかけた。
彼女が去ったあと、ゲームの続きをしようと、再びソファーに深く座り直した。
長いこと操作していなかった携帯の画面は、すでにスリープ状態になっており、真っ暗になっていた。わたしはホームボタンを押し、素早くパスワードを入力すると、戦闘体勢をとるため、ソファーの上に両脚を乗せ、膝を抱えるように(体操座りのような格好で)携帯を構えた。
瞬時に戻った画面には、中断していた『おしり前マン』のゲーム画面が映し出される。
かなり逼迫した状況で中断したせいか、思ったより戦況は厳しく、このまま再開すれば、十中八九、ゲームオーバーになるのは目に見えていた。
敵に囲まれた『おしり前マン』を刮目しながら、思い切って再開ボタンを押してみた。
再開した画面のなかで、逃げ場を失った『おしり前マン』が、無残にも敵の集中砲火を浴びて、呆気なく散っていった。
両脚を広げて落ちていく様は、どこか愛おしくもあった。
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