『蝶々と灰色のやらかい悪魔』 10
某ラブホテルにお呼ばれした帰り、その日の最後の客を終え、意気揚々とホテルのロビーをスキップしながら、送迎車の待つ駐車場に向かっていると、とつぜん、見知らぬ中年カップルに、「あ! 空いた?」と、話しかけられた。
まさか自分が話しかけられているとは思わず、その中年カップルの前を素通りして、出口に向かおうとしていると、今度は、「ねぇ! お姉さ〜ん!」と、ハッキリと呼び止められた。
軽快なスキップの歩調が乱れ、危うく大理石の床にヘッドスライディングしそうになる。
体勢を立て直し、「え? わたしですか? ……」と、怪訝そうに振り返り、改めて訊くと、「他に誰がいるの?」とでも言うように、中年カップルが顔を見合わせる。
「部屋、空いた?」
かなり酔っているようで、女がぐったりと男の腕にもたれかかっている。
「ねぇ〜? 空いたのぉ〜?」
やけに間延びした口調で、今度は女が尋ねてくる。
「え? ……」
困惑して黙っていると、
「え? あんたホテルの人じゃないの?」
と、やっと状況を呑み込んだらしい男が、舌打ちをしながら厚かましく訊いてくる。
こんな小綺麗な恰好をした『ホテルの人』がどこにいるよ!
思わぬとばっちりにイラ立ちながらも、わたしは、その気持ちをグッと堪え、
「いや、わたし、デリヘル嬢なんで、よく分かりません……」
そう答えようとした瞬間、昔、母に言われた言葉が、一瞬、脳裏に蘇った。
「知らない人に話しかけられたら、コテコテの博多弁で喋りなさい」と。
その言いつけを守り、
「あ、わたし、デリヘル嬢ですけん、そのへんよう分からんですもんね〜! お客さんこのあと、泊まりんしゃ〜みたいですよ!」
と、竹を割ったような口調で答えた。
唐突に二〇代の女子にコテコテの博多弁で捲し立てられ、今度は中年カップルのほうが意表を突かれ、黙り込んでしまった。
その隙に立ち去ろうと、「じゃっ!」と、捨て台詞を残し、わたしが送迎車の待つラブホテル裏の駐車場に向かった。
中年カップルのふたりが、まるで鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、きょとんとこちらを見つめていた。
これまで半信半疑にしか信用していなかったが、母の言いつけの正しさが、その瞬間、確信へと変わった。
ありがとう! お母さん!
そして、疑ってごめんなさい……。
心のなかでそう呟いてみて、最近、まったく実家に顔を出していないことに気がついた。
「今週末、たまには実家に顔を出そう……」
そんな思いが、フツフツと胸に込み上げてくる。
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