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『蝶々と灰色のやらかい悪魔』 11

 仕事柄、日に何度もシャワーを浴びているせいで、放っておくと、すぐに肌は荒れ、カサカサ、ガサガサの乾燥肌になる。夏場ならまだいい。真冬ともなれば、この年齢で、肌が粉を吹き始めることもあるのだから、デリヘル嬢もその華やかな外向きとは違い、案外からだを張っている職業である。肉体労働であり、人気商売でもあるだけに、日々のスキンケアを怠ると、すぐにその怠慢は結果に現れ、指名がとれなくなる。デリヘル嬢と失業者は紙一重なのだ。

 いくら一現場あたりの単価が高くても、その仕事すら入らなければ、稼ぎもあって無いようなものだ。世間の人が思っているほど、この仕事は稼げるものではないし、実際、夜の仕事だけで食って行けている人なんて、ごく一部の女の子だけで、大概の人は、お昼の仕事とかけ持ちしている。

 入念に、化粧水、乳液、クリームの順に、肌のお手入れを済ませ、ベッドに倒れ込んだ。昨日できなかった写メ日記の続きを書こうと、頭からタオルケットを被り、顔の前で携帯を構える。画面から放たれる、ブルーライトを浴びながら、昨日書いていたまったく同じ内容を、高校時代にメールの早打ちで鍛えた、自慢のフリック入力で打ち込んでいく。構成はすでに頭のなかに出来ているので、あとは書くだけなのだが、微妙な言い回しや言葉遣いまでは、さすがに覚えておらず、一語一句違わずに綴ることは難しい。自慢ではないが、わたしの写メ日記は、この店一番のアクセス数を誇っている。

 だた、だからといって、わたしの人気があるわけではない。人より少しだけ文才があるというだけだ。ちょっと遅筆なのが難点なのだが、その点、わたしの読者は寛容である。更新を頻繁にしないことに、不躾にクレームをつけてくるような、下品な客はいない。大半の客は、「いつも、ななこさんの日記の更新、楽しみにしてます!」と、労いの言葉をかけてくれるような、行儀の良い客ばかりである。

 といっても、そのアクセス数が、必ずしもわたしの売り上げに繋がっているわけではない。

 いくら写メ日記を読まれたとしても、指名がとれなければ、生活の足しにならないのだ。

 逆に言えば、文才などなくても、人気のある嬢ならいくらだっている。デリヘル嬢として稼ぐなら、そちらのほうが、よほど効率がいいだろうし、もっと言うなら、ルックスや気立ての良さに勝る、セールスポイントなど無いと言ってもいい。

 昨日、できなかった写メ日記の更新を済ませ、サワコの夕食を用意した。

 これは、わたしが密かに思っていることなのだけれど、猫を飼っている人であれば、一度は感じたことがあるのではないかと思うのだが、猫缶のあの異常なまでに、人の食欲を掻き立ててくる匂いに、「食べてみたい」という衝動に駆られたことがあるのは、きっとわたしだけではないはずだ。

 いや、もうすでに経験済み(猫缶を食べたことのある)な、美食家も中にはいるだろう。

 かく言うわたしも、その美食家の一人である。

 サワコを飼い始めたばかりのころ、夜中に襲ってきたあまりの空腹に、過去に一度だけ、サワコの夕食をつまみ食いしたことがあるのだが、そのとき、やはり猫缶は、『猫缶』という名前がついているだけあって、人が食べる物ではないのだと痛感した。

 純粋に湧いてきた好奇心と食欲に負け、手を出したのはいいのだが、こちらが頭のなかで勝手に想像していた味(過大評価していた)と、実際の味とのギャップに、思わずその場で吐き出してしまった。ただ、だからと言って、猫缶が不味いと言っているわけではない。どう説明したらいいのか、その芳醇な香りとは対照的に、なんとも〝味気ない〟というか〝味がない〟といか。まさに『味』というものがしなかったのだ。

 美味しそうに皿に盛られた猫缶を、必死の形相で、がっついているサワコを眺めていると、時々、そんなことを思い出し、人には言えないわたしだけの密かな想い出に、独り部屋でニヤけているだけだ。

 もちろん、言うまでもないかもしれないけれど、あれ以来、わたしは猫缶に手を出していないし、そんな衝動に駆られたこともない。やはり『猫缶』は猫の食べ物であると、今は大人として、ちゃんと自覚している。

 ななこも日々、成長しているのだ……。

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